#20 雷の夜
ヴィンド地方の宿場町、ケルンという。
石造りの家が40軒ほど、街道の両側に固まっている。北へ向かう隊商が最後に真っ当な寝床を取れる町で、そこから先は、村と村のあいだが半日ずつ開く。
僕らは、ここで2泊することになった。
理由は雷だった。
夕方から空が変な色になって、日が落ちるころには、風が横向きに吹き始めた。
——この地方の雷は、日本のとは鳴り方が違う。
日本の雷は、上から落ちてくる。
こっちのは、横に転がる。北の山にぶつかって、そこから平野に沿って、ごろごろと転がってくる。近いのか遠いのか分からないまま、ずっと鳴り続ける。
宿の窓が、震えていた。
僕は夜中に1度起きて、獣たちの様子を見に、厩へ降りた。
厩は宿の裏にある。石壁で、屋根が低く、藁の匂いが濃い。うちの子たちは全員そこに入れてある。宿の主人が「熊を屋内に入れるのは初めてだ」と何度も言った。
扉を開けたら、暗かった。
そして、先客がいた。
「……アーリア様?」
藁の上に、人が座っていた。
毛布を抱えて、膝を立てて、壁に背中をつけて。
金褐色の髪が、編まないまま垂れていた。寝間着の上に外套を羽織っただけで、足に靴を履いていない。
顔が、青かった。
「……ユウマ様」
彼女の声は、いつもの半分の大きさだった。
外で、雷が転がった。
彼女の肩が、跳ねた。
「あの、大丈夫ですか」
「はい」
「大丈夫じゃないですよね」
「……はい」
彼女は膝を抱え直した。
「お恥ずかしい限りです。この年になって、雷が」
「怖いと思うのは、恥ずかしいことじゃないですよ」
「そうでしょうか」
「うちの兎なんか、風でも怯えます」
上着の胸から、フクが顔を出した。
そのフクも、正直に言うと、今夜はずっと震えていた。
アーリアは、少しだけ笑った。
そして、こう言った。
「昔から、雷の音が駄目で」
僕は「そうなんですか」と言った。
——その直後だった。
彼女が、口をつぐんだ。
自分の言葉に、引っかかったような、そんな止まり方だった。
「……昔から?」
小さい声だった。
僕にではなく、自分に聞いていた。
「おかしいですね」
彼女は、自分の手を見た。
「わたし、去年までは平気だったはずなのに」
雷が、また転がった。
彼女の肩が、また跳ねた。
——僕は、何も気づかなかった。
これは、正直に言っておく。
僕はそのとき、たったいま王女が言ったことを、まったく変だと思わなかった。
雷が苦手になるのに理由が要るとは思わなかったし、去年まで平気だったなら今年から苦手になったんだろう、くらいにしか考えなかった。
人間の話は、僕にはよく分からない。
そして僕は、自分の分かることのほうを、言った。
「怖いなら」
「はい」
「この子たちの真ん中で寝るといいですよ」
彼女が、顔を上げた。
「……真ん中」
「はい。うるさくて、雷なんか聞こえなくなるので」
——そして、本当にそうなった。
まずモチだ。
400kgは厩のいちばん奥に山になっていた。僕が『モチ。ここ、いい?』と頼むと、目も開けずに『……うん……』と返してきた。
アーリアが、その腹に背中を預けた。
「……あたたかい」
「熊は、冬眠する種なので。冬に体温を溜め込むんです」
「毛が」
「はい」
「毛に、指が沈みます」
「沈みます」
彼女は、手を熊の毛に入れたまま、しばらく動かなかった。
次にアズキが乗った。
こいつは呼ばなくても来る。膝の上に、24kgが全部乗った。
「重い」
「重いです」
「けれど」
「はい」
「……あたたかいです」
ススキは、彼女の足元に丸まった。
無言だった。この子はいつも無言だ。だが、いつもは僕の3歩後ろにいる子が、今夜は彼女の足元にいた。
フクは、僕の上着から出て、彼女の胸元に潜り込んだ。
耳を伏せて、体を平らにして、心臓の音のする場所に張りついた。この子は怖いとき、心臓の音がいちばん聞こえるところに行く。自分の心臓の音を、他人の心臓の音で上書きするのだと思う。
ソラは、彼女の肩に着地した。
『とぶ!』
「あ、あの、これは」
「ソラです。高いところが好きなので」
「わたしの肩は、高いところですか」
「座ってる人の肩は、この子的には高い場所です」
『たかい!』
——王女が、獣の山に埋まった。
僕は正直、笑いをこらえるのに苦労した。
第三王女アーリア・エル・ヴェリシア。この国の王家の顔。理路整然と喋り、古語を読み、公務の合間に、僕に朗読をしてくれる人。
その人が今、厩の藁の上で、熊にもたれ、犬を膝に乗せ、狼を足元に置き、兎を胸に入れ、肩にモモンガを乗せている。
「……ユウマ様」
「はい」
「これは、どういう状況でしょうか」
「あったかい状況です」
「そうですね」
雷が、鳴った。
さっきより近い。厩の梁が、びりびりと震えた。
——反応は、三者三様だった。
モチは、腹を1度、大きく上下させた。
『……ねむ……い……』
「うん、寝てて」
『……ねる……』
400kgは、雷を天気の一種だと思っている。というより、たぶん雷という現象に興味がない。
アズキは、跳ね起きた。
そして、扉のほうに向かって吠えた。
1回、2回、3回。
『こわく、ない!』
「うん」
『こわく、ない!』
「分かった」
『ぜんぜん、こわく、ない!』
「……3回言ったな」
『こわく、ない!』
4回目だった。
アーリアが吹き出した。
「今、この子は、なんと」
「怖くない、と」
「4度も」
「4度言いました」
「では、怖いのですね」
「怖いですね」
アズキは僕を見て、それからアーリアの膝に頭を突っ込んで、動かなくなった。
そして——フクだけが、本気で怯えていた。
震え方が違う。
耳を伏せて、体を縮めて、後ろ肢を胸の下に折り込んで、じっとしている。兎は本気で怖いとき、鳴かない。動かない。心拍だけが異常に速くなる。
『こわい』
『こわい』
『こわい』
アーリアが、両手で、そっと包んだ。
「よしよし」
「あ、耳は触らないでください。兎の耳は血管が」
「存じております」
彼女は、耳ではなく、肩甲骨のあいだを撫でていた。
正しい。
なんで知ってるんだ、と思ったが、そのときは口に出さなかった。
——雷は、明け方まで鳴っていた。
アーリアは、そのうち眠った。
熊にもたれて、犬を膝に乗せたまま、首をわずかに傾げて。
僕は、厩の柱にもたれて座って、それを見ていた。
見ていた、というより、聞いていた。
獣たちの寝息の間隔を、数えていた。
これは僕の癖だ。
モチは、10秒に1回。息を吸うとき、腹が30cm持ち上がる。
アズキは、2秒に1回。犬は速い。走っていない犬でも、人間の倍以上である。
ススキは、3秒に1回。狼は犬より遅い。同じ祖先から分かれた生き物なのに、体の作りが少しだけ違う。
フクは、1秒に2回。兎は異常に速い。
ソラは、数えられない。速すぎる。
——5種類の呼吸が、厩の中で、それぞれ勝手に鳴っている。
合わない。
1度も揃わない。揃わないまま、5つとも続いている。
僕はそれを、たぶん1時間くらい、聞いていた。
外の雷は、まだ鳴っていた。
——朝になって、1つ分かったことがある。
僕が厩に降りたのは、実は雷のせいではなかった。
昨夜、宿の馬が3頭、落ち着かなかったのだ。
宿の主人は「雷で怯えている」と言った。だが僕には、そう見えなかった。
馬は、雷が怖いとき、耳を後ろに倒して、体を壁につける。昨夜のあれは違った。耳が北を向いていた。鼻が上がっていた。
つまり、聞いていたのではなく、嗅いでいた。
——朝、僕はテイム済みの馬ではないので念話が通じない相手に、いつもどおり座って待った。20分。いちばん若い牝が鼻先を触れさせてきた。
『こわい』
『あっち』
『におい』
『さむい、におい』
——寒い匂い。
僕は厩を出て、北を向いた。
風が、まっすぐ来ていた。
『アズキ。かして』
『いいよ!』
3分だけ借りた。
町の匂い。人。馬。パン。煙。それを全部捨てて、北から来る風だけを拾う。
——いた。
遠い。何kmも先だ。距離は掴めない。だが匂いの質は分かる。
狼だ。
しかも、たくさんいる。森狼とは違う。もっと脂の匂いが強い。厚い毛皮を持っている獣の匂いだ。
僕はスキルを返して、宿に戻った。
——朝食の卓で、リーゼに言った。
「北に、狼がいます。数は分かりませんが、多いです。それと、たぶん、こっちに向かってます」
彼女はパンを口に入れる手を止めた。
「なぜ分かる」
「馬が言ってました」
リーゼは、パンを置いた。
「……前も、そうやって言ったな」
「はい」
彼女は立ち上がった。
「今出れば、間に合うな」
——その日の午後、僕らはケルンを出た。
北へ。




