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20/82

#20 雷の夜

ヴィンド地方の宿場町、ケルンという。


石造りの家が40軒ほど、街道の両側に固まっている。北へ向かう隊商が最後に真っ当な寝床を取れる町で、そこから先は、村と村のあいだが半日ずつ開く。


僕らは、ここで2泊することになった。


理由は雷だった。


夕方から空が変な色になって、日が落ちるころには、風が横向きに吹き始めた。


——この地方の雷は、日本のとは鳴り方が違う。


日本の雷は、上から落ちてくる。


こっちのは、横に転がる。北の山にぶつかって、そこから平野に沿って、ごろごろと転がってくる。近いのか遠いのか分からないまま、ずっと鳴り続ける。


宿の窓が、震えていた。


僕は夜中に1度起きて、獣たちの様子を見に、厩へ降りた。


厩は宿の裏にある。石壁で、屋根が低く、藁の匂いが濃い。うちの子たちは全員そこに入れてある。宿の主人が「熊を屋内に入れるのは初めてだ」と何度も言った。


扉を開けたら、暗かった。


そして、先客がいた。


「……アーリア様?」


藁の上に、人が座っていた。


毛布を抱えて、膝を立てて、壁に背中をつけて。


金褐色の髪が、編まないまま垂れていた。寝間着の上に外套を羽織っただけで、足に靴を履いていない。


顔が、青かった。


「……ユウマ様」


彼女の声は、いつもの半分の大きさだった。


外で、雷が転がった。


彼女の肩が、跳ねた。


「あの、大丈夫ですか」


「はい」


「大丈夫じゃないですよね」


「……はい」


彼女は膝を抱え直した。


「お恥ずかしい限りです。この年になって、雷が」


「怖いと思うのは、恥ずかしいことじゃないですよ」


「そうでしょうか」


「うちの兎なんか、風でも怯えます」


上着の胸から、フクが顔を出した。


そのフクも、正直に言うと、今夜はずっと震えていた。


アーリアは、少しだけ笑った。


そして、こう言った。


「昔から、雷の音が駄目で」


僕は「そうなんですか」と言った。


——その直後だった。


彼女が、口をつぐんだ。


自分の言葉に、引っかかったような、そんな止まり方だった。


「……昔から?」


小さい声だった。


僕にではなく、自分に聞いていた。


「おかしいですね」


彼女は、自分の手を見た。


「わたし、去年までは平気だったはずなのに」


雷が、また転がった。


彼女の肩が、また跳ねた。


——僕は、何も気づかなかった。


これは、正直に言っておく。


僕はそのとき、たったいま王女が言ったことを、まったく変だと思わなかった。


雷が苦手になるのに理由が要るとは思わなかったし、去年まで平気だったなら今年から苦手になったんだろう、くらいにしか考えなかった。


人間の話は、僕にはよく分からない。


そして僕は、自分の分かることのほうを、言った。


「怖いなら」


「はい」


「この子たちの真ん中で寝るといいですよ」


彼女が、顔を上げた。


「……真ん中」


「はい。うるさくて、雷なんか聞こえなくなるので」


——そして、本当にそうなった。


まずモチだ。


400kgは厩のいちばん奥に山になっていた。僕が『モチ。ここ、いい?』と頼むと、目も開けずに『……うん……』と返してきた。


アーリアが、その腹に背中を預けた。


「……あたたかい」


「熊は、冬眠する種なので。冬に体温を溜め込むんです」


「毛が」


「はい」


「毛に、指が沈みます」


「沈みます」


彼女は、手を熊の毛に入れたまま、しばらく動かなかった。


次にアズキが乗った。


こいつは呼ばなくても来る。膝の上に、24kgが全部乗った。


「重い」


「重いです」


「けれど」


「はい」


「……あたたかいです」


ススキは、彼女の足元に丸まった。


無言だった。この子はいつも無言だ。だが、いつもは僕の3歩後ろにいる子が、今夜は彼女の足元にいた。


フクは、僕の上着から出て、彼女の胸元に潜り込んだ。


耳を伏せて、体を平らにして、心臓の音のする場所に張りついた。この子は怖いとき、心臓の音がいちばん聞こえるところに行く。自分の心臓の音を、他人の心臓の音で上書きするのだと思う。


ソラは、彼女の肩に着地した。


『とぶ!』


「あ、あの、これは」


「ソラです。高いところが好きなので」


「わたしの肩は、高いところですか」


「座ってる人の肩は、この子的には高い場所です」


『たかい!』


——王女が、獣の山に埋まった。


僕は正直、笑いをこらえるのに苦労した。


第三王女アーリア・エル・ヴェリシア。この国の王家の顔。理路整然と喋り、古語を読み、公務の合間に、僕に朗読をしてくれる人。


その人が今、厩の藁の上で、熊にもたれ、犬を膝に乗せ、狼を足元に置き、兎を胸に入れ、肩にモモンガを乗せている。


「……ユウマ様」


「はい」


「これは、どういう状況でしょうか」


「あったかい状況です」


「そうですね」


雷が、鳴った。


さっきより近い。厩の梁が、びりびりと震えた。


——反応は、三者三様だった。


モチは、腹を1度、大きく上下させた。


『……ねむ……い……』


「うん、寝てて」


『……ねる……』


400kgは、雷を天気の一種だと思っている。というより、たぶん雷という現象に興味がない。


アズキは、跳ね起きた。


そして、扉のほうに向かって吠えた。


1回、2回、3回。


『こわく、ない!』


「うん」


『こわく、ない!』


「分かった」


『ぜんぜん、こわく、ない!』


「……3回言ったな」


『こわく、ない!』


4回目だった。


アーリアが吹き出した。


「今、この子は、なんと」


「怖くない、と」


「4度も」


「4度言いました」


「では、怖いのですね」


「怖いですね」


アズキは僕を見て、それからアーリアの膝に頭を突っ込んで、動かなくなった。


そして——フクだけが、本気で怯えていた。


震え方が違う。


耳を伏せて、体を縮めて、後ろ肢を胸の下に折り込んで、じっとしている。兎は本気で怖いとき、鳴かない。動かない。心拍だけが異常に速くなる。


『こわい』


『こわい』


『こわい』


アーリアが、両手で、そっと包んだ。


「よしよし」


「あ、耳は触らないでください。兎の耳は血管が」


「存じております」


彼女は、耳ではなく、肩甲骨のあいだを撫でていた。


正しい。


なんで知ってるんだ、と思ったが、そのときは口に出さなかった。


——雷は、明け方まで鳴っていた。


アーリアは、そのうち眠った。


熊にもたれて、犬を膝に乗せたまま、首をわずかに傾げて。


僕は、厩の柱にもたれて座って、それを見ていた。


見ていた、というより、聞いていた。


獣たちの寝息の間隔を、数えていた。


これは僕の癖だ。


モチは、10秒に1回。息を吸うとき、腹が30cm持ち上がる。


アズキは、2秒に1回。犬は速い。走っていない犬でも、人間の倍以上である。


ススキは、3秒に1回。狼は犬より遅い。同じ祖先から分かれた生き物なのに、体の作りが少しだけ違う。


フクは、1秒に2回。兎は異常に速い。


ソラは、数えられない。速すぎる。


——5種類の呼吸が、厩の中で、それぞれ勝手に鳴っている。


合わない。


1度も揃わない。揃わないまま、5つとも続いている。


僕はそれを、たぶん1時間くらい、聞いていた。


外の雷は、まだ鳴っていた。


——朝になって、1つ分かったことがある。


僕が厩に降りたのは、実は雷のせいではなかった。


昨夜、宿の馬が3頭、落ち着かなかったのだ。


宿の主人は「雷で怯えている」と言った。だが僕には、そう見えなかった。


馬は、雷が怖いとき、耳を後ろに倒して、体を壁につける。昨夜のあれは違った。耳が北を向いていた。鼻が上がっていた。


つまり、聞いていたのではなく、嗅いでいた。


——朝、僕はテイム済みの馬ではないので念話が通じない相手に、いつもどおり座って待った。20分。いちばん若い牝が鼻先を触れさせてきた。


『こわい』


『あっち』


『におい』


『さむい、におい』


——寒い匂い。


僕は厩を出て、北を向いた。


風が、まっすぐ来ていた。


『アズキ。かして』


『いいよ!』


3分だけ借りた。


町の匂い。人。馬。パン。煙。それを全部捨てて、北から来る風だけを拾う。


——いた。


遠い。何kmも先だ。距離は掴めない。だが匂いの質は分かる。


狼だ。


しかも、たくさんいる。森狼とは違う。もっと脂の匂いが強い。厚い毛皮を持っている獣の匂いだ。


僕はスキルを返して、宿に戻った。


——朝食の卓で、リーゼに言った。


「北に、狼がいます。数は分かりませんが、多いです。それと、たぶん、こっちに向かってます」


彼女はパンを口に入れる手を止めた。


「なぜ分かる」


「馬が言ってました」


リーゼは、パンを置いた。


「……前も、そうやって言ったな」


「はい」


彼女は立ち上がった。


「今出れば、間に合うな」


——その日の午後、僕らはケルンを出た。


北へ。

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