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#17 熊が怖くなくなるまで

翌朝、僕はエステルを、王宮の東庭に呼び出した。


東庭というのは、獣舎と本館のあいだにある芝の広場だ。30歩四方くらい。周りに低い生垣があって、隅に古い樫の木が1本立っている。


僕はそこに、椅子を1脚、置いた。


生垣に近い側、樫の木の下。


「これに座ってください」


「……はい」


彼女は素直に座った。今日は化粧が薄い。香も焚いていない。この4日間で初めて、彼女の顔がちゃんと見えた。


そして、広場の反対側の隅に。


400kgが、座っていた。


「……ユウマ様」


「はい」


「あれは」


「モチです」


「距離は」


「20mです」


彼女の指が、椅子の肘掛けを、白くなるほど握った。


「では、次は何をすればよろしいのでしょう」


「なにも」


「……は?」


「今日は、座ってるだけです」


エステルは、僕を見た。


「なにも、しないのですか」


「はい」


「一歩も、近づかないと」


「はい。近づきません。今日はそれで終わりです」


「……いつまで」


「1時間くらいで」


彼女は、しばらく無言だった。


それから、深く息を吸って、椅子に座り直した。


——それが、初日だった。


僕は彼女から5歩離れたところで、地面に直接座った。


モチは、20m向こうで座っている。


正確に言うと、座って3分後には、腹を出して寝た。


寝ている。


400kgの魔熊が、日向で、腹を出して、寝ている。


僕は念話で頼んだだけだ。


『モチ。そこ、いて』


『……うん……』


『動かないで』


『……ねる……』


『それでいい』


そして寝た。それだけである。


1時間、何も起きなかった。


風が吹いた。樫の葉が落ちた。どこかで馬が鳴いた。


エステルは、40分くらい、モチのほうを見ていなかった。膝の上の自分の手を見ていた。


40分過ぎて、1度だけ、目を上げた。


3秒見て、また下を向いた。


それでよかった。


1時間経って、僕は「終わりです」と言った。彼女は立ち上がって、少しよろけて、それから「明日も、参ります」と言って帰っていった。


——2日目。18m。


椅子を2歩、前に出しただけだ。


彼女は気づかなかった。30分経ってから「今日は、近くありませんか」と聞いてきた。


「2歩ぶんです」


「……2歩」


「はい。今日はここまでです」


モチは寝ていた。


——3日目。15m。


この日、彼女は初めて自分から質問をした。


「あれは、何を食べるのですか」


「なんでも食べます。基本は木の実と、根と、魚です。あと、蜂蜜が異常に好きです」


「蜂蜜」


「はい。顔じゅう刺されても取りに行きます。実際、それで目が腫れて森に帰れなくなったのが、あの子です」


「……そんな理由で」


「そんな理由です」


エステルは、少しだけ笑った。


僕はそのとき、蜂蜜の壺を持ってきていた。指ですくって、モチのところまで歩いていって、鼻先に差し出す。400kgが目も開けずに舌を出して、僕の指ごと持っていく。


『……あま……い……』


『……すき……』


『うん、知ってる』


15m向こうで、聖女様が、その様子をずっと見ていた。


——4日目。12m。


この日は雨で、中止にした。


僕は「雨は駄目です」と言った。彼女は「なぜ」と聞いた。


「濡れた熊は臭いので」


「……はい?」


「本当に臭いんです。今日ここでその匂いを覚えると、あとで思い出すたびに嫌になるので。今日はやめましょう」


彼女は「そんな理由で」ともう1度言った。


そんな理由である。


——5日目。8m。


この距離になると、モチの呼吸が聞こえる。


熊の寝息は、犬とはまるで違う。深くて、遅くて、途中で1回止まる。10秒に1回。息が入るとき、白い毛の山が、ゆっくり持ち上がる。


エステルは、それをずっと見ていた。


椅子の上で、背筋を伸ばして、両手を膝に置いて。


そして、20分くらい経ってから、彼女は言った。


「わたくし、6歳のときに」


僕は、彼女のほうを見なかった。


これは意図的だ。


人が何かを話し始めるとき、こちらが顔を向けると、話が止まることがある。だから僕は、モチのほうを見たまま、そこに座っていた。


「教会の孤児院の、裏庭に、番犬がおりました」


「はい」


「大きな犬でした。子どものわたくしより、頭ひとつ大きくて。鎖に繋がれておりました」


「はい」


「わたくしは、その犬に、パンをやろうとしたのです」


風が吹いた。


樫の葉が2枚、落ちた。


「褒められると思ったのです。院長先生に。わたくしはいい子だと。……そういうことを、いつも考えている子どもでした」


「はい」


「鎖の届く場所まで、入りました」


「はい」


「右の脚を、咬まれました」


彼女は、そこで言葉を切った。


僕は何も言わなかった。


慰めなかった。「怖かったですね」も、「あなたは悪くない」も、「その犬も悪くない」も、何も言わなかった。


言わないほうがいいと思った。


言ったら、この人が話し終わる前に、話が終わってしまう。


——僕は、ただ、しゃがんで待った。


これしか、僕にはできない。


「……13年、経ちました」


彼女が言った。


「傷は塞がっております。わたくしは《癒し》の使い手ですから、自分の脚くらい、いくらでも治せます。何度も治しました。それでも、痕が消えないのです」


「そうですか」


「怖いのも、消えないのです」


「そうですか」


「ユウマ様は、慰めてくださらないのですね」


「慰めたほうがいいですか」


彼女は、少し黙った。


「……いいえ」


「じゃあ、慰めません」


8m向こうで、400kgが寝返りを打った。


彼女の肩が跳ねた。跳ねたが、椅子から立たなかった。


——6日目。8mのまま。


この日は、進めなかった。彼女が「今日は、ここで」と言ったからだ。僕は「はい」と言った。


こういうときに無理をさせると、全部が戻る。


——7日目。


8m。


その日は風が強かった。


北風だ。この地方は11月に入ると、北から乾いた風が吹き下ろしてくる。


——そして、事件が起きた。


事件というほどのものでもない。


風が強かったので、モチの腹の毛が飛んだのである。


熊は、冬毛に生え変わる時期に、大量に抜ける。それは獣舎で毎日掃いている僕がいちばんよく知っている。桶に1杯出る日もある。


その日、寝返りを打ったモチの腹から、抜けた毛の塊が1つ、風に転がされて、芝の上を、ころころと転がっていった。


8m。


7m。5m。3m。


——エステルの、足元まで。


彼女は動かなかった。


しばらく、それを見ていた。


白い、こぶし大の毛の玉。芝の上で、風にわずかに震えている。


彼女は、腰をかがめて、それを拾った。


指で、摘まんだ。


そして、しばらく、指のあいだで潰していた。


もう1度潰した。


もう1度。


——それから、声を上げて笑った。


椅子の上で、上体を折って、両手で毛の玉を握って、笑っていた。


4日間、隣にいたときの、あの計算された微笑みではなかった。


大声だった。上品さもなかった。肩が上下していた。目尻に涙が浮かんでいた。


「なんですの、これ」


「毛です」


「毛は分かります」


「熊の腹の毛です。今の時期、抜けるんです」


「こんなに、やわらかいのですか」


「腹はやわらかいです。背中は硬いです」


「……こんなものが」


彼女は、毛の玉を、両手で持った。


「こんなものが、あの中に入っているのですか」


「入ってます。全身、それです」


彼女は、笑いながら、少し泣いていた。


——その日の午後だった。


エステルは、椅子から立った。


そして、歩いた。


8m。7m。5m。3m。


僕は何も言わなかった。止めもしなかった。彼女が止まりたければ止まる。止まらないなら、それが答えだ。


1m。


彼女は、しゃがんだ。


裾を片手で押さえて、膝を折って。


そして、右手を握って、その手の甲を、白い山の鼻先の前に、差し出した。


——僕は、息を止めた。


正しい。


誰にも教わっていないのに、正しい。というより、たぶん、この4日間ずっと、僕がアズキとやっているのを見ていたのだと思う。


モチが、目を開けた。


小さい目だ。体に対して、驚くほど小さい。その目が、彼女を見た。


鼻が、2回、動いた。


そして、舌を出して。


聖女の手の甲を、1度だけ、舐めた。


そのまま、また目を閉じて、寝た。


——400kgは、それだけした。


エステルは、その場に座り込んだ。


芝の上に、法衣が広がった。


彼女は両手で顔を覆って、そのまま、動かなくなった。


肩が震えていた。


声は出していなかった。


僕は、5歩後ろに立っていた。


そして、空を見ていた。


北風で、雲が速く流れていた。この地方の11月の空は、日本の11月より青が濃い。ずっと見ていると、目が乾く。


「……よかったですね」


僕は言った。


返事はなかった。


——のちに、この一件について、トトにこう言われた。


「兄ちゃん、あのとき聖女様、なんで泣いてたと思う?」


「熊を触れたからだろ」


「……うん。そうだね」


トトは、それ以上何も言わなかった。


12歳に憐れまれた気がしたが、理由はやはり分からなかった。

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