#16 教会から人が来ました
11月の初め、教会から人が来た。
名目は「稀有な祝福を持つ客人を、正しく導くため」。
王宮の連中は誰も信じていなかった。オズワルドは「取り込みに来たな」と大声で言い、ヴィルマは「教会は3ヶ月前から動いていました」と平坦に言い、ドーラは「坊主、口の減らない女には気をつけな」と言った。
僕は「はあ」と言った。
来たのは、聖女エステル・リーヴェ。19歳。
銀髪を長く垂らして、水色の目をしていて、白い法衣を着ていた。歩き方がゆっくりで、喋るときに必ず一拍おく。声が低めで、柔らかい。
「ユウマ様」
初対面で、彼女は僕の両手を取った。
「お会いしとうございました」
近い。
顔が近い。
僕は反射的に半歩下がって、彼女はその半歩ぶん、前に出た。
香の匂いがした。甘い。花ではなく、樹脂系の。
「あ、えっと、はい。こちらこそ、あの、よろしくお願いいたします」
「まあ」
彼女は微笑んだ。
「そんなに畏まらないでくださいまし」
「はい。かしこまりまし——いえ、かしこまりません」
日本語が崩壊した。
正直に言うと、僕はこういうのに、ものすごく弱い。
顔が熱くなるし、舌が回らなくなるし、敬語がおかしくなる。17年間、女の子に手を握られたことなど数えるほどしかない。灯とだって、手を繋いだのは小学生のときが最後だ。
だから僕は、真っ赤になった。
——真っ赤になったが、そこから先が、たぶん、彼女の想定とは違った。
——翌日から、エステルは僕の隣にいた。
書庫に行けば、隣に座る。獣舎に行けば、外で待っている。食堂で飯を食えば、向かいではなく隣に座る。距離が、常に、40cmくらいだ。
腕に触れてくる。
「まあ、たくましい腕」
「桶を運んでるだけです」
上目遣いで見上げてくる。
「ユウマ様は、お背が高くていらっしゃるのね」
「173です」
朝、回廊で会うと、光の加減が絶妙な位置に立っている。
「今朝は、少し冷えますね」
「そうですね。上着、貸しましょうか」
「まあ」
僕は上着を貸した。獣舎の匂いのする上着を。
彼女は30秒後にそれを返した。
そういうことが、3日続いた。
——3日目の午後、僕は彼女に聞いた。
「エステルさん」
「はい、ユウマ様」
「《癒し》って、使えるんですよね」
彼女の目が、光った。
たぶん、待っていた質問だったのだと思う。
「はい。教会の中でも、わたくしは扱いが得意なほうと言われております」
「傷が塞がるんですか」
「ええ。深いものは時間がかかりますが」
「骨は?」
「骨、ですか」
「はい。折れた骨って、くっつきますか。あと、ヒビは。それと、獣にも効きますか。人間と獣で、効き方って違います?」
「……あの」
「もし効くなら、これ、獣舎の運用が根本から変わるんですよ。今、後肢を痛めた犬が1頭いて、あと風切羽の根元がやられてる鷹が1羽いて、それから馬の蹄葉炎が——あ、蹄葉炎ってこっちの言い方だと何て言うんですか?」
「……ユウマ様」
「はい」
「わたくしは、その、あなたを導きに参ったのですが」
「はい。すみません、話が逸れました。それで、骨は?」
「……効きます」
「本当ですか!?」
僕はたぶん、そのとき、この3日でいちばんいい顔をした。
エステルは、しばらく黙って僕を見ていた。
それから、非常にゆっくり、瞬きを1回した。
——あとで彼女に聞いた話だが、彼女がこの任務で最初に感じた困難は、「拒絶されること」ではなかったらしい。
拒絶なら、対処法がある。拒絶する人間は、必ずこちらを意識している。押し引きを変えればいい。
問題は、そうではなかったことだ。
僕は彼女を拒絶していなかった。
僕は、彼女が何をしているのかに、そもそも気づいていなかった。
上着を貸したのは、寒そうだったからだ。褒め言葉には礼を言った。腕を触られたら「くすぐったいです」と言った。近い距離については、教会にはそういう作法があるのだろうと思っていた。
彼女は3日目の夜、宿舎の卓で、報告書の1行目を書いて、そのまま2時間動けなかったそうだ。
——4日目。
僕とエステルは、東の回廊を歩いていた。
書庫からの帰り道で、その日は珍しく、僕が獣を1体も連れていなかった。アズキは厨房でドーラに肉をたかっており、ススキは獣舎、ソラとフクは昼寝、モチは——モチは、そのとき、庭にいたはずだった。
回廊は誰もいなかった。
エステルが、足を止めた。
「ユウマ様」
「はい」
「少し、お時間を」
彼女が距離を詰めた。40cmが、20cmになった。
香の匂いが強くなった。
顔が近い。彼女の目は水色で、光が入ると内側に薄い輪が見える。他人の瞳をこれまででいちばん近くで見ていた。
僕の心臓が、勝手に速くなった。
——そのとき。
背後で、床が鳴った。
ずしり、と。
エステルの視線が、僕の肩越しに動いた。
そして、止まった。
回廊の柱の陰から、白い山が、のそりと出てきた。
体長2.1m。体重400kg。真っ白。庭から入ってきたらしい。柱と柱のあいだを通るとき、肩が両方に擦れていた。
『……しろいの……』
『……はら……へった……』
「モチ、今ちょっと」
——悲鳴が、上がった。
僕が振り返ったときには、エステルは3m後ろに飛び退っていた。
飛び退って、柱に背中を打ちつけて、そこから動かなくなった。
両手で口を押さえている。目が、大きく開いている。瞳孔が開ききっている。
呼吸が、速い。異常に速い。
「エステルさん」
「——」
声が出ていない。
僕はモチに『そこ、いて』と送って、動かないように頼んだ。
『……うん……』
400kgは、その場に座った。座って、鼻をひくつかせて、それから欠伸をした。
僕は柱まで走って、しゃがんだ。
彼女は柱に背中をつけたまま、ずるずると座り込んでいた。法衣の裾が広がって、足が見えていた。
——右のふくらはぎに、傷があった。
古いものだ。かなり古い。皮膚が引き攣れていて、幅が3cmくらい。牙の痕が、4つ。
僕は、それを見た。
見て、すぐに目を逸らした。
「……エステルさん」
「……」
「大丈夫です。あの子、動きません。動かないように頼みました」
「……頼む」
「はい」
「頼む、というのは」
「僕は、命令はできないので」
彼女は僕を見た。
その顔は、この4日間、1度も見たことのない顔だった。
化粧の下に、素のものがあった。
19歳の顔だった。
「……このことは、どうか」
彼女は、それだけ言った。
声が掠れていた。
「言いませんよ」
僕は即答した。
「本当に、誰にも言いません。トトにも言いません。あいつは口が軽いので」
彼女は、少しだけ笑った。
笑って、それから、また息を吸った。まだ速い。
僕は彼女の隣に座って、少しのあいだ、何も喋らなかった。
回廊の向こうで、モチが日向に寝転がった。400kgが寝返りを打つと、床が震える。エステルの肩が、そのたびに跳ねた。
——僕は、そのとき考えていた。
この人は、4日間、僕の隣にいた。
書庫にも、食堂にも、回廊にも。
そのあいだ、僕はほぼ常に、獣を1頭か2頭連れていた。アズキが足元にいて、ソラが頭にいて、ススキが3歩後ろにいた。
この人は、その距離に、4日間、いた。
顔色ひとつ変えずに。
「エステルさん」
「はい」
「4日間、しんどかったですよね」
彼女の肩が、止まった。
「……なにが、でしょう」
「僕、だいたいいつも、誰か連れてるので」
「…………」
彼女は答えなかった。
答えないのが、答えだった。
僕は膝を抱えて、しばらく考えた。
考えて、それから、真面目な顔で言った。
「治しませんか」
エステルが、こちらを向いた。
「……は?」
「治しませんか、それ」
「治す」
「はい」
「わたくしの、これを」
「はい」
彼女は、僕を見た。
そして、たぶんこの4日間で初めて、素の声で言った。
「……なぜ?」
僕は答えた。
「そのほうが、楽しいからです」
「たのしい」
「はい。動物が怖くない世界のほうが、絶対に楽しいです」
彼女は、口を半分開けたまま、僕を見ていた。
回廊の向こうで、400kgの熊が、腹を出して寝ていた。




