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15/82

#15 お断りします

王の私室に呼ばれたのは、10月の終わりだった。


案内された部屋は、玉座の間よりずっと小さかった。暖炉があって、卓があって、椅子が4脚。壁に掛かっているのは、狩りの絵ではなく、下手な刺繍だった。子どもが作ったものらしい。


卓の上に、茶と菓子。


椅子に、明らかに緊張している国王バルドウィン4世。


「……座ってくれ」


「はい」


僕は座った。


王は茶を勧めて、自分は飲まなかった。それから菓子を勧めて、自分は取らなかった。指輪を回した。3回。


長い沈黙があった。


その沈黙のあいだに、僕は暖炉のほうを見ていた。


犬がいた。


暖炉の前に、老いた猟犬が横になっている。毛が白く抜けて、耳の縁が薄くなって、後肢の筋肉が落ちている。呼吸が浅い。


「その子、何歳ですか」


僕は聞いた。


王が、ぱっと顔を上げた。話題ができて助かった、という顔だった。


「バウだ。15になる」


「バウ」


「余が名づけた。鳴き声がそう聞こえたのでな」


「いい名前です」


「そうか!」


大声だった。犬は起きなかった。


僕は椅子から降りて、床にしゃがんだ。


老犬の前で、いつもどおり、横を向いて、待った。


3分で鼻先が触れた。この子はもう、警戒するだけの体力がない。


『……ねむい』


『……つめたい』


『……いたい』


「どこが痛い?」


『……あし』


『……うしろ』


僕は後肢に触れた。膝の関節が腫れている。触ると、筋肉が縮んだ。


「陛下」


「うむ」


「この子、後ろ脚が痛いです。両方とも、膝です」


王が身を乗り出した。


「痛がってはおらんぞ。鳴きもせん」


「犬は、慢性の痛みでは鳴きません。鳴くのは急な痛みのときだけです。ずっと痛いものには、慣れてしまうんです」


王は口を開けて、それから閉じた。


「……そうなのか」


「はい。それと、この子、耳がほとんど聞こえていません」


「なに?」


「呼んでみてください。後ろから」


王は立ち上がって、犬の後ろに回って「バウ!」と呼んだ。


犬は動かなかった。


王がもう1度呼んだ。動かない。


3度目に、王は犬の前に回り込んだ。犬は目を開けて、尻尾を2回、床に打った。


「……見えれば、分かるのか」


「はい。この子、たぶん1年くらい前から聞こえていません」


「1年」


「呼んでも来なくなりませんでしたか」


「……なった」王の声が小さくなった。


「歳だからと、思っておった」


「歳です。歳なんですけど、聞こえないのは、また別の話です」


僕は、できることを3つ言った。


床に敷物を足すこと。石の上は膝に悪い。暖炉に近すぎるので少し離すこと。乾きすぎると皮膚が痒くなる。そして、呼ぶときは、必ず正面から、視界に入ってから呼ぶこと。


「痛みのほうは、教会の膏薬が効きます。獣舎で使ってるのを分けます」


「……頼む」


王は椅子に戻って、それから、両手で顔をこすった。


「情けないな」


「そんなことは」


「余は15年、こやつと暮らしておる」王は言った。


「なのに、こやつが痛いことも、聞こえておらんことも、知らなんだ。……そなたは、3分で分かった」


僕は、なんと言えばいいか分からなかった。


だから、思ったことを言った。


「陛下は、この子の名前を、鳴き声から付けたんですよね」


「うむ」


「それ、鳴き声をちゃんと聞いてないと、できないです」


王は、しばらく黙っていた。


それから「そうか」と言った。


——そして、切り出した。


「綿貫殿」


「はい」


「そなたに、頼みがある」


王は3度、言い淀んだ。指輪を回した。4回目だった。


「アーリアを——娘を、妻に迎えてはくれまいか」


僕は、茶を吹きそうになった。


吹かなかったのは、口に入れていなかったからだ。危なかった。


「あの」


「政略ではない」


王は、遮るように言った。


「誓ってそうではない。テイマーの婿を取って国が強くなるなどとは、誰も思っておらん。国益で言えば、南の公国の三男を取るほうがはるかに得だ。反対する者は多い」


「じゃあ、なんで」


「そなたには、この国に帰る場所がない」


——それを言われて、僕は、口を閉じた。


「そなたを呼んだのは我らだ。帰す術は、まだない。ヴィルマは探しておるが、いつになるとも言えぬ。……ならばせめて、こちらに、そなたの場所を作ってやりたい。客人ではなく、家族としてだ」


王は、僕を見ていた。


目が真剣だった。


そして、この人が本気で、僕の幸せというものを考えた末にこれを言っているのが、分かってしまった。


——分かってしまうと、困る。


これが僕の悪い癖だ。相手のほうが真剣だと、断りにくくなる。逃げたくなる。「僕なんかにはもったいない話です」とか言って、話をぼかして、その場をやり過ごしたくなる。


灯には、それをよく叱られた。


「ゆうくん、それ、優しさじゃないよ」と。「相手を子ども扱いしてるだけだよ」と。


僕は、両手を膝の上に置いた。


そして、王の目を見た。


「ありがたいお話です」


「うむ」


「でも、お断りします」


王が、瞬きをした。


「……理由を、聞いてもよいか」


「はい」


僕は、はっきり言った。


「ずっと心に想う人がいます。それに、僕の帰りを待つ人がいるので」


——部屋が、静かになった。


暖炉の薪が、1度、跳ねた。


王は、数秒黙った。


それから、ゆっくり息を吐いて、頷いた。


その顔には、安堵と申し訳なさが、半分ずつ乗っていた。


「……そうか」


「すみません」


「謝るな。謝るのは、いつも余の役目だ」王は笑った。


「そなたは、真面目な男だな」


「よく言われます」


「アーリアは残念がるだろうが」


「そうですかね」


「そうだろう」


僕は「そうですかね」ともう1度言った。


正直、王女様が僕を残念がる理由が、まったく分からなかった。あの人は毎日2時間、古語を読み上げてくれている。あれは仕事だ。仕事のパートナーでしかない相手と結婚したがる人はいない。


——扉のほうで、音がした。


小さい音だった。布が擦れる音。


僕が振り返ると、扉が半分開いていた。


アーリアが立っていた。


いつからいたのかは、分からない。手に帳面を抱えている。書庫からの帰りだったのだと思う。


彼女は、僕と目が合うと、微笑んだ。


とても、綺麗な微笑み方だった。


「お邪魔をいたしました」


「アーリア」王が立ち上がった。


「これは」


「聞いておりました」彼女は言った。


「父上。ユウマ様のお答えは、明確でした。それで充分だと存じます」


「アーリア」


「うん」


彼女は、小さくそう言った。


一音だけ。


それから、一拍おいて、言い直した。


「……いえ。承知いたしました」


そして、丁寧に礼をして、去っていった。


——僕は、その言い直しに、気づかなかった。


本当に、気づかなかった。


そのときの僕が考えていたのは、「明日の朗読、気まずくなったら困るな」ということだけだった。


廊下に出たところで、トトが待っていた。


事情をどこで知ったのかは謎だ。この王宮の情報伝達速度は、僕の理解を超えている。


「兄ちゃん!」


「なに」


「断ったって本当!?」


「うん」


「姫様を!?」


「うん」


トトは、両手で頭を抱えて、廊下の真ん中で絶叫した。


「なんてもったいねえ!!」


声が回廊じゅうに反響した。衛兵が2人、こちらを見た。


「もったいなくないよ」


「もったいねえよ! 姫様だぞ! 綺麗だぞ! 頭いいぞ! 犬撫でるぞ!」


「最後のは強いな」


「強いだろ!?」


そこへ、たまたま、リーゼが通りかかった。


僕らの会話は、たぶん半分くらい聞こえていた。


彼女は立ち止まって、僕を見て、それから鼻から息を出した。


「……ふうん」


それだけ言って、行ってしまった。


——その日1日、彼女は機嫌が悪かった。


夕方の訓練で、部下を3人怒鳴りつけて、鞍具方に八つ当たりして、僕がヒバリの様子を見に行ったら「邪魔だ」と言われた。


僕には、理由がまったく分からなかった。


——その夜、僕は獣舎で、モチの腹にもたれて考えた。


考えて、結論が出なかった。


『……ねむ……い……』


「うん、そうだね」


『……しろいの……ねる……』


「そうする」


アズキが胸の上に乗ってきた。24kg。


この子たちのことは、分かる。


腹が減っているとか、眠いとか、痛いとか、あっちに行きたいとか。全部、分かる。


人間のことは、何も分からない。


——3ヶ月経っても、そこだけは、まったく上達していなかった。

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