#15 お断りします
王の私室に呼ばれたのは、10月の終わりだった。
案内された部屋は、玉座の間よりずっと小さかった。暖炉があって、卓があって、椅子が4脚。壁に掛かっているのは、狩りの絵ではなく、下手な刺繍だった。子どもが作ったものらしい。
卓の上に、茶と菓子。
椅子に、明らかに緊張している国王バルドウィン4世。
「……座ってくれ」
「はい」
僕は座った。
王は茶を勧めて、自分は飲まなかった。それから菓子を勧めて、自分は取らなかった。指輪を回した。3回。
長い沈黙があった。
その沈黙のあいだに、僕は暖炉のほうを見ていた。
犬がいた。
暖炉の前に、老いた猟犬が横になっている。毛が白く抜けて、耳の縁が薄くなって、後肢の筋肉が落ちている。呼吸が浅い。
「その子、何歳ですか」
僕は聞いた。
王が、ぱっと顔を上げた。話題ができて助かった、という顔だった。
「バウだ。15になる」
「バウ」
「余が名づけた。鳴き声がそう聞こえたのでな」
「いい名前です」
「そうか!」
大声だった。犬は起きなかった。
僕は椅子から降りて、床にしゃがんだ。
老犬の前で、いつもどおり、横を向いて、待った。
3分で鼻先が触れた。この子はもう、警戒するだけの体力がない。
『……ねむい』
『……つめたい』
『……いたい』
「どこが痛い?」
『……あし』
『……うしろ』
僕は後肢に触れた。膝の関節が腫れている。触ると、筋肉が縮んだ。
「陛下」
「うむ」
「この子、後ろ脚が痛いです。両方とも、膝です」
王が身を乗り出した。
「痛がってはおらんぞ。鳴きもせん」
「犬は、慢性の痛みでは鳴きません。鳴くのは急な痛みのときだけです。ずっと痛いものには、慣れてしまうんです」
王は口を開けて、それから閉じた。
「……そうなのか」
「はい。それと、この子、耳がほとんど聞こえていません」
「なに?」
「呼んでみてください。後ろから」
王は立ち上がって、犬の後ろに回って「バウ!」と呼んだ。
犬は動かなかった。
王がもう1度呼んだ。動かない。
3度目に、王は犬の前に回り込んだ。犬は目を開けて、尻尾を2回、床に打った。
「……見えれば、分かるのか」
「はい。この子、たぶん1年くらい前から聞こえていません」
「1年」
「呼んでも来なくなりませんでしたか」
「……なった」王の声が小さくなった。
「歳だからと、思っておった」
「歳です。歳なんですけど、聞こえないのは、また別の話です」
僕は、できることを3つ言った。
床に敷物を足すこと。石の上は膝に悪い。暖炉に近すぎるので少し離すこと。乾きすぎると皮膚が痒くなる。そして、呼ぶときは、必ず正面から、視界に入ってから呼ぶこと。
「痛みのほうは、教会の膏薬が効きます。獣舎で使ってるのを分けます」
「……頼む」
王は椅子に戻って、それから、両手で顔をこすった。
「情けないな」
「そんなことは」
「余は15年、こやつと暮らしておる」王は言った。
「なのに、こやつが痛いことも、聞こえておらんことも、知らなんだ。……そなたは、3分で分かった」
僕は、なんと言えばいいか分からなかった。
だから、思ったことを言った。
「陛下は、この子の名前を、鳴き声から付けたんですよね」
「うむ」
「それ、鳴き声をちゃんと聞いてないと、できないです」
王は、しばらく黙っていた。
それから「そうか」と言った。
——そして、切り出した。
「綿貫殿」
「はい」
「そなたに、頼みがある」
王は3度、言い淀んだ。指輪を回した。4回目だった。
「アーリアを——娘を、妻に迎えてはくれまいか」
僕は、茶を吹きそうになった。
吹かなかったのは、口に入れていなかったからだ。危なかった。
「あの」
「政略ではない」
王は、遮るように言った。
「誓ってそうではない。テイマーの婿を取って国が強くなるなどとは、誰も思っておらん。国益で言えば、南の公国の三男を取るほうがはるかに得だ。反対する者は多い」
「じゃあ、なんで」
「そなたには、この国に帰る場所がない」
——それを言われて、僕は、口を閉じた。
「そなたを呼んだのは我らだ。帰す術は、まだない。ヴィルマは探しておるが、いつになるとも言えぬ。……ならばせめて、こちらに、そなたの場所を作ってやりたい。客人ではなく、家族としてだ」
王は、僕を見ていた。
目が真剣だった。
そして、この人が本気で、僕の幸せというものを考えた末にこれを言っているのが、分かってしまった。
——分かってしまうと、困る。
これが僕の悪い癖だ。相手のほうが真剣だと、断りにくくなる。逃げたくなる。「僕なんかにはもったいない話です」とか言って、話をぼかして、その場をやり過ごしたくなる。
灯には、それをよく叱られた。
「ゆうくん、それ、優しさじゃないよ」と。「相手を子ども扱いしてるだけだよ」と。
僕は、両手を膝の上に置いた。
そして、王の目を見た。
「ありがたいお話です」
「うむ」
「でも、お断りします」
王が、瞬きをした。
「……理由を、聞いてもよいか」
「はい」
僕は、はっきり言った。
「ずっと心に想う人がいます。それに、僕の帰りを待つ人がいるので」
——部屋が、静かになった。
暖炉の薪が、1度、跳ねた。
王は、数秒黙った。
それから、ゆっくり息を吐いて、頷いた。
その顔には、安堵と申し訳なさが、半分ずつ乗っていた。
「……そうか」
「すみません」
「謝るな。謝るのは、いつも余の役目だ」王は笑った。
「そなたは、真面目な男だな」
「よく言われます」
「アーリアは残念がるだろうが」
「そうですかね」
「そうだろう」
僕は「そうですかね」ともう1度言った。
正直、王女様が僕を残念がる理由が、まったく分からなかった。あの人は毎日2時間、古語を読み上げてくれている。あれは仕事だ。仕事のパートナーでしかない相手と結婚したがる人はいない。
——扉のほうで、音がした。
小さい音だった。布が擦れる音。
僕が振り返ると、扉が半分開いていた。
アーリアが立っていた。
いつからいたのかは、分からない。手に帳面を抱えている。書庫からの帰りだったのだと思う。
彼女は、僕と目が合うと、微笑んだ。
とても、綺麗な微笑み方だった。
「お邪魔をいたしました」
「アーリア」王が立ち上がった。
「これは」
「聞いておりました」彼女は言った。
「父上。ユウマ様のお答えは、明確でした。それで充分だと存じます」
「アーリア」
「うん」
彼女は、小さくそう言った。
一音だけ。
それから、一拍おいて、言い直した。
「……いえ。承知いたしました」
そして、丁寧に礼をして、去っていった。
——僕は、その言い直しに、気づかなかった。
本当に、気づかなかった。
そのときの僕が考えていたのは、「明日の朗読、気まずくなったら困るな」ということだけだった。
廊下に出たところで、トトが待っていた。
事情をどこで知ったのかは謎だ。この王宮の情報伝達速度は、僕の理解を超えている。
「兄ちゃん!」
「なに」
「断ったって本当!?」
「うん」
「姫様を!?」
「うん」
トトは、両手で頭を抱えて、廊下の真ん中で絶叫した。
「なんてもったいねえ!!」
声が回廊じゅうに反響した。衛兵が2人、こちらを見た。
「もったいなくないよ」
「もったいねえよ! 姫様だぞ! 綺麗だぞ! 頭いいぞ! 犬撫でるぞ!」
「最後のは強いな」
「強いだろ!?」
そこへ、たまたま、リーゼが通りかかった。
僕らの会話は、たぶん半分くらい聞こえていた。
彼女は立ち止まって、僕を見て、それから鼻から息を出した。
「……ふうん」
それだけ言って、行ってしまった。
——その日1日、彼女は機嫌が悪かった。
夕方の訓練で、部下を3人怒鳴りつけて、鞍具方に八つ当たりして、僕がヒバリの様子を見に行ったら「邪魔だ」と言われた。
僕には、理由がまったく分からなかった。
——その夜、僕は獣舎で、モチの腹にもたれて考えた。
考えて、結論が出なかった。
『……ねむ……い……』
「うん、そうだね」
『……しろいの……ねる……』
「そうする」
アズキが胸の上に乗ってきた。24kg。
この子たちのことは、分かる。
腹が減っているとか、眠いとか、痛いとか、あっちに行きたいとか。全部、分かる。
人間のことは、何も分からない。
——3ヶ月経っても、そこだけは、まったく上達していなかった。




