#14 夕焼け小焼け
その夜、アズキが脱走した。
気づいたのは真夜中だった。獣舎の戸が開いていて、寝床の藁が空になっていた。
戸は、内側から鼻で押し開けられていた。この犬は掛け金の外し方を覚えている。覚えたのは僕のせいだ。開け方を見せてしまった。
「アズキ!」
僕は外に出て、走った。
念話は半径50m。届かない。
『アズキ! どこ!』
『……』
沈黙。範囲外だ。
厨房。いない。回廊。いない。庭園。いない。
東棟の階段を上がったところで、ようやく繋がった。
『アズキ!』
『ごはん!』
「いや、ごはんじゃなくて」
『ここ』
『ここ、いる』
——場所の語だ。
10月に増えた語彙が、こういうときに効く。3ヶ月前なら、この子は自分の居場所を伝えることすらできなかった。
僕は匂いを頼りに——比喩ではなく、実際に《利き鼻》を借りて——階段を上った。
そして、宝物庫の前に出た。
壁が二重、扉が3枚。扉1枚開いているはずがなく、いちばん外側の扉の前だ。
そこに、犬が座っていた。
扉のほうを向いて、きちんと前肢を揃えて。番犬が持ち場についているみたいな座り方だった。
「……アズキ」
犬は振り返らなかった。
『ここ』
『ここ、におい』
僕は、その隣にしゃがんだ。
「におい?」
『におい』
『しってる』
「知ってる匂い?」
『しってる』
僕は、少しのあいだ、動けなかった。
宝物庫の中にあるものを、僕は知っている。
金の器と、宝石の冠と、古い剣と、折れた笏と。
そして、いちばん奥の台の上の、白い花束。
——匂いが、漏れている。
3枚の扉と、二重の壁を通り抜けて。人間には絶対に分からない量の分子が、隙間を抜けて、この廊下まで来ている。
そして、この犬は。
僕が花束を抱えて召喚された日、僕のそばにはいなかった。
会ったのはその3日後だ。あの日、僕はもう花束を持っていなかった。宝物庫に預けたあとだった。
なのに、この犬は「知ってる匂い」と言った。
理由は、たぶん、1つしかない。
僕だ。
僕の服に、あの日、匂いが移っていた。服を洗っても、犬の鼻には嗅ぎ取れるぐらい残っていた。この子にとってそれは、初めて僕に会った日の、僕の匂いの一部なのだ。
「……そっか」
僕は、扉に背中を預けて、床に座った。
石が冷たい。廊下の蝋燭が、遠くで2本だけ揺れている。
アズキが、僕の膝に頭を乗せた。
——月島灯。
隣の家の子だった。
塀が低くて、2階の窓から窓へ、声が届いた。幼稚園からずっと、小学校も、中学校も、高校も同じで、去年から2年連続で隣のクラスだった。2年になったとき「また隣じゃん」と言われて、僕は「そうだね」としか返せなかった。
あいつは左利きだった。
給食のとき、僕の右肘とあいつの左肘がぶつかるので、僕が左に座るようになった。習慣になって、高校でも、2人で食べるときは僕が左だった。理由を説明したことは1度もない。あいつも聞かなかった。
雷が苦手だった。
夜に雷が鳴ると、必ず電話がかかってきた。中学のころは家電で、高校からは携帯で。用件はない。「なんか、鳴ってるね」と言うだけだ。僕は「鳴ってるね」と返して、それから30分くらい、どうでもいい話をした。動物の話をすると、あいつは黙って聞いていた。雷が遠のくと、「もう平気。ありがと」と言って切った。
猫舌だった。
ラーメン屋で、あいつのぶんだけスープの減りが遅い。冷ますために麺を持ち上げて、持ち上げたまま喋るので、麺の減りも遅い。そのあいだにさらに伸びる。「伸びるよ」と言うと「知ってる」と言う。知っていて、毎回そうする。
数えるとき、指を折った。
左手を開いて、右手で倒していく。テストの残り日数も、部活の休みも、電車の乗り換えの回数も、全部そうやって数えていた。「暗算しろよ」と言ったら、「これのほうが間違えない」と言った。
機嫌がいいと、鼻歌を歌った。
決まって同じ曲だった。「夕焼け小焼け」。
小学校の下校時刻に流れていたやつだ。あいつはそれを、五線譜どおりではなく、少し崩して歌う。2小節目の終わりで、微妙に音を伸ばす癖があった。僕はその癖を、たぶんこの世界の誰よりも正確に覚えている。
「なんでその曲なの」と聞いたことがある。
「なんでだろ」とあいつは言った。「気づくと歌ってる」と笑った。
そして——犬に会うと、しゃがんで、握った手の甲を差し出した。
これは、僕が教えた。
小学3年の帰り道だった。近所の家の柴犬に、あいつが上から手を出そうとして、僕が慌てて止めた。それから僕は、たぶん15分くらい喋り続けた。上から出すと怖いこと。目を合わせると挑戦になること。握って、下から、鼻の高さに出すこと。動かさないこと。
9歳の僕の、早口の説明を、あいつは最後まで聞いた。
そして言った。
「うん、わかった」
それが口癖だった。「うん、わかった」。8割方、本当に分かっていた。
あいつはそれ以来、犬に会うたびに、しゃがんで手の甲を出した。8年間、1度も忘れなかった。
——僕の動物の話を、最後まで聞いた人間は、あいつだけだった。
母は途中で「はいはい」と言う。妹は「またそれ」と言う。友達は目を逸らす。先生は苦笑する。
灯だけが、最後まで聞いた。
聞いて、質問までした。「じゃあ、猫は?」とか、「その鳥、日本にもいるの?」とか。
僕はそれが嬉しくて、たぶん、必要以上に喋った。
両想いだったことは、たぶん、お互い分かっていた。
分かっていて、1年半、言わなかった。
きっかけがなかった、というのは言い訳で、本当は、言ってしまったら今の形が壊れるのが怖かったのだと思う。隣の家で、隣のクラスで、雷の夜に電話がかかってきて、僕が左に座る。その形が、僕はたぶん、世界でいちばん好きだった。
4月の朝、あいつは交差点で車にはねられた。
僕はその日、寝坊していた。
何個かうしろの信号で足止めを食っていた。だから見ていない。救急車の音は聞いた。あの音を聞いたとき、僕は「今日は遅刻かあ」と思っていた。
あの朝を、僕はたぶん、一生忘れない。
葬式で、僕は1度も泣かなかった。
泣けなかった、という表現も少し違う。涙が出そうな感じすらなかった。ずっと、変な感じだった。あいつの母親が僕の手を握って「ゆうくん」と言ったときも、僕は「はい」としか言えなかった。
3ヶ月経って、僕は白い花を買った。
理由は、たぶん、そろそろ大丈夫だと思ったからだ。3ヶ月あれば、人はだいたい大丈夫になるものだと、どこかで聞いた気がした。
大丈夫ではなかった。
あの交差点にしゃがんで、花を置いて、僕は言おうとした。
「灯、あのさ——」
そこで、足元が光った。
——僕は、宝物庫の扉の前で、顔を上げた。
廊下の蝋燭が、2本、揺れていた。
膝の上に、犬の頭がある。
温かい。人間より2度くらい高い。毛の下に、心臓の音がある。
僕は、その首に、顔を埋めた。
——犬の毛は、思っていたよりずっと涙を吸う。
これは、飼っている人でないと分からないことだと思う。図鑑にも、動物番組にも、訓練士の本にも書いていなかった。
短毛でもだ。赤茶の、2cmもない毛の中に、顔を押しつけると、全部吸われる。吸われて、そのあと、少し臭くなる。濡れた犬の匂いだ。生乾きの雑巾に、少し血を混ぜたような。
僕は、その臭い匂いの中で、声を出さずに泣いた。
アズキは動かなかった。
いつもは3秒も同じ姿勢でいられない犬が、動かなかった。尻尾も振らなかった。ただ、僕の顔を首で受けたまま、じっとしていた。
念話は、何も来なかった。
何も来なかったのが、たぶん、いちばんありがたかった。
——どのくらいそうしていたかは、分からない。
顔を上げたとき、廊下の蝋燭が1本、燃え尽きて消えていた。
「……ごめん」
僕は言った。
「毛、濡らした」
『……』
アズキは、僕の顔を舐めた。
臭い。
いつもどおり、舌が臭い。歯石だ。3ヶ月かけて少しずつ削っているのに、まだ臭い。
「うわ、やめ、やめろって」
『すき』
「知ってる」
『すき』
「うん」
僕は立ち上がった。膝が痺れていた。
宝物庫の扉を、もう1度見た。
——枯れない花束。
ヴィルマは「向こうの時間に触れているから枯れない」と言った。
僕は今日、それを別の言い方で理解した。
あの花は、まだ、あの日の匂いをしている。
犬が「知ってる」と言うくらいには、はっきりと。
「帰るよ」
僕は言った。
アズキが立ち上がって、尻尾を振った。
『いく!』
「うん。行こう」
僕らは廊下を歩いた。
窓の外は、まだ真っ暗だった。夜明けまでは、たぶんあと2時間あった。




