#13 数え方が変です
共同作業の形が、3日で固まった。
アーリアが読む。僕が聞く。トトが書き取る。
トトを引っ張ってきたのは僕だ。彼は読めるし、書けるようになった。字は汚いが、絵が正確だ。それに、王女の前でも一切物怖じしない。初日に「姫様、その髪どうやって編むの!」と聞いて、護衛が卒倒しかけた。アーリアは「侍女が3人がかりです」と真面目に答えた。
書庫の3階、東の窓際に卓を出して、僕らは毎日2時間そこにいた。
アーリアの朗読は、聞きやすかった。
古語というのは、この国の話し言葉とは語順が違うらしい。彼女はそれを、1度自分の中で組み替えてから、僕に分かる形にして読む。だから読む前に必ず、一拍、間が空く。
「『——術は円環をもって渡らしめ、円環をもって還らしむ。渡りの糸は、想いの結び目に絡む』」
「想いの結び目」
「ここは、ヴィルマの言っていたことと同じですね」
「はい」
トトが羽根ペンを走らせる。彼の記録には、なぜか円環の横に犬の絵が描いてある。
——4日目に、それを見つけた。
第9巻の、中ほど。
アーリアが読み上げていた声が、途中で止まった。
「……ユウマ様」
「はい」
「見ていただけますか。いえ、読めないのは承知しておりますが、これは、形の話ですので」
僕は覗き込んだ。
見開きの右側に、見出しがある。太い字で、2行ぶん。
その下が、空白だった。
いや、空白ではない。
紙が、薄い。
そこだけ、羊皮紙の厚みが変わっている。表面がわずかにざらついていて、光にかざすと、繊維の向きが周囲と違う。
「削ってあります」アーリアが言った。
「羊皮紙は、刃で表面を薄く削ると、書いたものを消せます。写本を直すときによくやる手です。ですがこれは——」
「量が多い?」
「ええ。この見出しの下、丸ごとです。40行ほど」
「見出しには、なんて書いてあるんですか」
彼女は、指でその2行をなぞった。
そして、読んだ。
「『召喚者の帰還について』」
書庫の中が、しんとした。
トトが羽根ペンを止めていた。
「……誰がやったんですか」
「分かりません」
「いつ?」
「それも分かりません。削り跡の縁の摩耗からして、少なくとも数十年は経っています。写本のときに元からなかったのか、あとで誰かが削ったのか、判別する術がありません」
僕は、その薄くなった紙を見ていた。
40行。
そこに何が書いてあったのかは、誰にも分からない。分からないまま、たぶん何10年も、この本は棚に立っていた。
「……写本は、他にありませんか」
「探します」アーリアが言った。
「ですが、この巻の写本は、王国内にはこれ1冊のはずです」
僕は「そうですか」と言った。
言って、そこで止めた。
正直に言うと、僕はこのとき、あまり深刻に受け止めていなかった。34冊のうちの1冊に穴が空いていた、というだけの話だと思っていた。残りの33冊がある。まだ2週間しかやっていない。
——そのときの僕は、本当に何も分かっていなかった。
作業の合間に、休憩が入る。
侍女が茶を運んでくる。アーリアは熱いものが飲めないので、冷めるまで静かに待つ。僕はそれを見て「猫舌なんですね」と言い、彼女は「ねこじた、とは」と聞き返し、僕が説明して、彼女が「言い得て妙ですね」と感心した。
その日、彼女は日数を数えていた。
「第9巻に6日、第10巻に4日、第11巻は分厚いので8日ほど——」
彼女は、指を折っていた。
左手を開いて、右手の指で、1本ずつ内側に倒していく。6、7、8。倒しきったら、また開いて数え直す。
僕は、それを見ていた。
見ていて、それから、なんとなく口に出した。
「……こちらでは見ない数え方ですね」
アーリアの手が、止まった。
「といいますと」
「あ、いえ。この国の人、数えるとき小石を並べるじゃないですか。ドーラさんも、トトも、市場の人も。僕、最初なんで石を並べるんだろうと思って」
「ああ」彼女は自分の手を見た。
「そうですね。……そうでした」
彼女は、開いた左手を、少しのあいだ見ていた。
「こちらのほうが、早い気がして」
「便利ですよね。どこでもできるし」
「便利です」
「石だと、落とすと分からなくなりますし」
「はい。やり直したことは、何度か」
僕らは笑って、それで話は終わった。
トトが「おれ、石のほうが好き」と言った。
「並べると格好いいから」
「格好いいのは大事だな」
「大事だよ!」
——ところで。
この時期、王宮の中での僕の扱いが、静かに変わりつつあった。
理由は簡単で、数字が出たからだ。
獣舎の稼働。3ヶ月前は12の囲いのうち4つしか使っていなかった。今は12全部が回っていて、外にモチ用の日除けが増えた。
鷹小屋の事故。半年で4件あった「餌をやろうとして掴まれる」事故が、僕が餌の差し出し方を全員に説明してから、ゼロになった。
厩の荷役獣。8頭のうち3頭が荷を嫌がっていた。全部、鞍具か蹄の問題だった。今は8頭とも働いている。
数字が出ると、人は態度を変える。
オズワルドは8月から僕を「ユウマ殿」と呼んでいる。廊下ですれ違うと、大声で「調子はどうだ!」と聞いてくる。毎回だ。そうやって聞かれる度、毎回ちゃんと答えている。
リーゼは、僕を見ても舌打ちをしなくなった。
代わりに「おい」とツッコミを入れるようになった。これは進歩だと思う。
——そして。
この時期に、たぶん、僕の人生でいちばん重要な出来事が起きた。
そのときは、笑い話だと思っていた。
——10月の半ば、王宮に南の使節団が来た日のことだ。
厨房が、地獄になった。
宴の料理が60人ぶん。ドーラは朝から怒鳴りっぱなしで、鍋が14、竈が全部埋まっていた。僕は手伝いに入って、野菜を切って、皿を運んで、途中で邪魔だと言われて追い出された。
——夕方、僕は獣たちの飯をもらいに厨房へ行った。
「ドーラさん、うちの子らのぶん」
ドーラは鍋から顔も上げずに言った。
「あとでやるよ!」
「はい」
僕はそのまま戻った。
——ドーラは、忘れた。
宴が終わったのが夜中の1時。彼女はそのまま厨房の椅子で寝てしまった。50代で、朝の4時から働いていたのだ。無理もない。
獣たちの夕飯は、その日、出なかった。
僕が気づいたのは翌朝だった。厨房に行ったら、ドーラが真っ青な顔で立っていて、僕を見るなり頭を下げた。
「坊主、すまない。あたしは——」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ! 一食抜かせちまった!」
「一食くらいなら平気です。太ってる子ばっかりなので」
僕は笑った。
ドーラは笑わなかった。彼女はその日、獣たちの朝飯を、普段の倍作った。モチは大喜びで、アズキは全部食べて、ススキは黙って食べた。
誰も怒らなかった。
アズキは尻尾を振って食べていた。恨みがましいことは、1つも言わなかった。
——だが。
その日から、アズキは、変わった。
翌週、僕が「あとでな」と言った。
アズキは、厨房の前まで走っていって、座った。
動かなかった。
僕が呼んでも、来ない。
『アズキ、こっち』
『……』
『来て』
『……』
無視ではない。届いている。届いていて、動かない。
30分後、飯が出た。アズキは食べて、それから普通に戻った。
その次も同じだった。
「あとで」
——厨房の前。
「あとでやるよ」
——厨房の前。
ドーラが「あとで」と言うと、必ず厨房へ。僕が言っても厨房へ。トトが言っても厨房へ。
僕は、それを笑い話として書き留めた。
トトの記録の余白に、下手な絵まで添えた。厨房の前に座っている犬の絵だ。横に「『あとで』禁止」と書いた。
ドーラは「あの犬、根に持ってるよ」と言って、それから「まあ、あたしが悪いんだけどね」と言って、アズキに肉を余分にやった。
僕は笑っていた。
——このとき笑った出来事を、僕はあとで、何度も思い出すことになる。
この犬は、あの1晩で、何かを覚えた。
「あとで」と言われて、来なかったこと。
言われたことと、起きたことが、違ったということ。
それが何なのかを説明する語を、この子はまだ持っていなかった。
持っていなかっただけで、覚えてはいた。
——夜、僕は獣舎で寝た。
モチの腹に背中を預けると、これがちょうどいい。400kgの熊は、寝ているあいだ呼吸が異様にゆっくりで、10秒に1回くらいしか腹が動かない。その動きに合わせて、背中が持ち上がって、下がる。
冬眠する種だからだ、とヴィルマが言っていた。心拍と呼吸の数を落として体温を保つ。だから熊の眠りは深い。
深すぎて、寝返りを打たれると人が死ぬ。それだけが問題だ。
膝の上に、ふわりと着地するものがあった。
ソラだった。
『とぶ!』
「うん、飛んだね」
『たかい!』
「高かったね」
『とぶ!』
体長18cmのそれは、僕の膝で2回まわって、丸くなった。手のひらを乗せると、全部が収まる。毛は、綿を薄く伸ばしたみたいで、下に骨があるとは思えないくらい軽い。
天窓の外に、月が出ていた。
北の空に、雲がずっと居座っていた。




