#12 王女様は、犬の挨拶を知っていた
翌日、僕は書庫の3階で唸っていた。
唸る以外にやることがなかった、というほうが正しい。
ヴィルマが読み上げてくれた箇所を、僕は頭に入れる。頭に入れて、覚える。それしかできない。彼女は1日に2時間しか付き合えない。残りの時間、僕は34冊の前に座って、線と点を眺めていた。
そのあいだに、書庫の異変に気づいた。
床に、紙の細片が落ちている。
1枚や2枚ではない。棚の下、隅、梯子の脚のあたり。長さ2cmくらいに裂かれた羊皮紙が、点々と散っている。
「これ、いつからですか」
「3年ほど前から」書庫番の老人が言った。
「鼠だと思って罠を仕掛けたが、1匹もかからん」
僕は、細片を拾って見た。
裂け目が、まっすぐだ。
鼠が齧った跡は、こうならない。鼠の門歯は削るので、縁がぎざぎざになる。これは、爪か歯で引き裂いた跡だ。しかも同じ幅で、丁寧に。
——巣材だ。
僕はしゃがんで、棚の下を覗いた。
そのとき、後ろで声がした。
「よろしければ、お読みしましょうか」
振り返ったら、女の子が立っていた。
17歳くらい。金褐色の髪を編んで、片側に流している。緑の目。背筋がまっすぐで、立ち方に隙がない。着ているものが、明らかに、僕がこの3ヶ月に見てきた誰よりも高価だった。
後ろに、護衛の騎士が2人ついていた。
「……えっと」
「申し遅れました。アーリア・エル・ヴェリシアと申します」
——王女だった。
第三王女。上の姉が2人とも他国へ嫁いだので、実質、この国の王家の顔になっている人。名前だけは聞いていた。
僕は立ち上がって、それから、礼の仕方を知らないことに気づいて、中途半端にお辞儀をした。
「綿貫悠真です。あの、その、食客の」
「存じております」
彼女は、まっすぐ僕を見て言った。
「ユウマ様。王家の落ち度でこの国に呼ばれた方を、書庫の前で立ち往生させておく——それは、わたくしどもの側の問題です。父は謝罪しました。ヴィルマは調べています。では、わたくしは何をすべきかと考えて、ここへ参りました」
早口ではないが、言葉に淀みがなかった。
理路整然としている、というのは、こういう喋り方のことを言うのだと思う。
「わたくしは、古語が読めます。13のときから習っております。写本の癖も、3つの綴りの違いも、判別できます」
「……えっ」
「1日、2時間でよろしければ。それ以上は公務がございますので」
「あの、いいんですか」
「わたくしから申し出ております」
「……ありがとうございます」
僕は、深く頭を下げた。
たぶん、この世界に来て、いちばんの深さだったと思う。
顔を上げたとき、彼女の視線が、僕の足元に落ちた。
——アズキがいた。
いつのまにか来ていた。
護衛の騎士が、2人同時に動いた。
「姫様、お下がりください」
1人が前に出て、槍の柄で床を叩いた。もう1人が僕を睨んだ。
僕は慌てて、アズキの首に手をかけた。
「すみません、すぐ出します。この子、噛みませんけど、その」
アーリアは、動かなかった。
騎士が言った。
「姫様。犬は——」
彼女は、その騎士の言葉が終わる前に、しゃがんだ。
裾を片手で押さえて、膝を折って、目の高さを下げて。
そして、右手を軽く握って、手の甲を、アズキの鼻先の前に、そっと差し出した。
——時間が、止まった。
僕にとっては、本当に止まった。
騎士が「姫様!」と声を上げた。それも遠くで鳴っている感じだった。
アズキが首を伸ばして、彼女の手の甲の匂いを嗅いだ。
2秒。
尻尾が、振れた。
『あのひと』
頭の中に、声が落ちてきた。
『あのひと、いい』
僕はゆっくり息を吐いて、それから、言った。
「……アーリア様」
「はい」
「それ、正しい挨拶の仕方ですよ」
彼女がこちらを見上げた。
「正しい?」
「はい。犬に会ったとき、手のひらを見せて上から出すと、犬は怖がるんです。上から来るものは、犬にとって全部『攻撃』なので。だから、握った手の甲を、下から、鼻の高さに出す。動かさない。相手が嗅ぎ終わるまで待つ。……完璧です。誰かに習ったんですか」
アーリアは、自分の手を見た。
握った右手を、目の前に持ち上げて。
しばらく、それを見ていた。
「……いいえ」
小さい声だった。
「なぜか、そうするものだと思って」
「そうですか」
「はい」
彼女は立ち上がって、裾を直した。それきり、その話は終わった。
——書庫番の老人が、椅子から落ちかけていた。
「ひ、姫様が、犬に」
「あの子は綺麗にしております」アーリアは平然と言った。
「ユウマ様が毎日洗っておられると聞きました」
「洗ってます」
「では問題ありません」
問題は、たぶん衛生の話ではなかったと思う。
——その日の午後、僕らは棚の下の巣を見つけた。
正体は白イタチだった。
冬に毛が白くなる、細長いやつだ。それが2頭、書庫の東壁の、石積みの隙間に巣を作っていた。3年前からいるらしい。
僕はしゃがんで、待った。
40分で、片方が出てきた。細い体で、床を波打つように走って、僕の靴の匂いを嗅いで、それから手の甲に鼻を触れさせた。
『さむい』
『こども、さむい』
——巣に、5匹いた。
生まれて10日くらいの、目も開いていないのが5匹。
だから羊皮紙を裂いていた。石壁の隙間は冷える。紙を細く裂いて敷き詰めると、空気の層ができて、温かい。理にかなっている。理にかなっているが、書庫にとってはたまったものではない。
「羊毛をください」
僕は書庫番に言った。
「は?」
「洗ってない羊毛を、桶に1杯。あと、木箱を1つ。壁の隙間じゃなくて、あそこの、暖炉の煙道の横に置きます。あそこ、壁が温かいですよね」
「……温かいが」
「たぶん引っ越します」
引っ越した。
3日かかったけれど、白イタチは5匹の子どもを1匹ずつ咥えて、羊毛の箱に運び込んだ。以来、書庫の羊皮紙は1枚も裂かれていない。
「……3年、罠を仕掛けておりました」書庫番は呆然としていた。
「3年間……ずっと…」
「罠にはかかりませんよ。腹が減ってたわけじゃないので」
そして、副産物があった。
古い巣の底から、裂かれずに残った紙が何枚か出てきたのだ。
アーリアがそれを摘まみ上げて、目を細めた。
「……これは、宝物庫の目録ですね。80年ほど前の」
「読めるんですか」
「読めます」彼女は指でなぞりながら、声に出した。
「『第7棚。異界より渡りし品。花——』」
そこで途切れていた。
続きは、5匹の子イタチの下敷きになって、消えていた。
僕とアーリアは、しばらく黙ってそれを見ていた。
「……もう1度、探しましょう」
彼女が言った。
「はい」
——夕方、書庫を出るとき、廊下の角で侍女が2人、小声で話しているのが聞こえた。
「姫様、犬にお触りになったって」
「まさか」
「本当よ。書庫番のお爺さんが言ってた」
「……変わられたわねえ」
「春先のご病気からよ。3日も熱が下がらなくて、もう駄目かって言われて。目が覚めてから、少しお変わりになった」
「動物は苦手でいらしたのに」
「食べ物の好みも変わったのよ。熱いものが召し上がれなくなって」
僕は、その横を通り過ぎた。
——病み上がりなんだな。
そう思った。
それだけだった。
人間の話は、僕にはよく分からない。分からないものについて、僕はあまり考えない。3ヶ月この王宮にいて、僕がまともに読めるようになったのは、獣の顔色だけだ。
回廊を歩いていると、アズキが横についてきた。
『あのひと』
『いい、におい』
「そう?」
『いい』
「どんな匂い」
『……』
沈黙。
「うん、まあ、そうだよな」
匂いを言葉で説明するのは、犬にはたぶん、いちばん難しい。
僕は歩きながら、笑った。
窓の外は、もう暗かった。北の空に、雲が低く垂れていた。




