↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/82

#12 王女様は、犬の挨拶を知っていた

翌日、僕は書庫の3階で唸っていた。


唸る以外にやることがなかった、というほうが正しい。


ヴィルマが読み上げてくれた箇所を、僕は頭に入れる。頭に入れて、覚える。それしかできない。彼女は1日に2時間しか付き合えない。残りの時間、僕は34冊の前に座って、線と点を眺めていた。


そのあいだに、書庫の異変に気づいた。


床に、紙の細片が落ちている。


1枚や2枚ではない。棚の下、隅、梯子の脚のあたり。長さ2cmくらいに裂かれた羊皮紙が、点々と散っている。


「これ、いつからですか」


「3年ほど前から」書庫番の老人が言った。


「鼠だと思って罠を仕掛けたが、1匹もかからん」


僕は、細片を拾って見た。


裂け目が、まっすぐだ。


鼠が齧った跡は、こうならない。鼠の門歯は削るので、縁がぎざぎざになる。これは、爪か歯で引き裂いた跡だ。しかも同じ幅で、丁寧に。


——巣材だ。


僕はしゃがんで、棚の下を覗いた。


そのとき、後ろで声がした。


「よろしければ、お読みしましょうか」


振り返ったら、女の子が立っていた。


17歳くらい。金褐色の髪を編んで、片側に流している。緑の目。背筋がまっすぐで、立ち方に隙がない。着ているものが、明らかに、僕がこの3ヶ月に見てきた誰よりも高価だった。


後ろに、護衛の騎士が2人ついていた。


「……えっと」


「申し遅れました。アーリア・エル・ヴェリシアと申します」


——王女だった。


第三王女。上の姉が2人とも他国へ嫁いだので、実質、この国の王家の顔になっている人。名前だけは聞いていた。


僕は立ち上がって、それから、礼の仕方を知らないことに気づいて、中途半端にお辞儀をした。


「綿貫悠真です。あの、その、食客の」


「存じております」


彼女は、まっすぐ僕を見て言った。


「ユウマ様。王家の落ち度でこの国に呼ばれた方を、書庫の前で立ち往生させておく——それは、わたくしどもの側の問題です。父は謝罪しました。ヴィルマは調べています。では、わたくしは何をすべきかと考えて、ここへ参りました」


早口ではないが、言葉に淀みがなかった。


理路整然としている、というのは、こういう喋り方のことを言うのだと思う。


「わたくしは、古語が読めます。13のときから習っております。写本の癖も、3つの綴りの違いも、判別できます」


「……えっ」


「1日、2時間でよろしければ。それ以上は公務がございますので」


「あの、いいんですか」


「わたくしから申し出ております」


「……ありがとうございます」


僕は、深く頭を下げた。


たぶん、この世界に来て、いちばんの深さだったと思う。


顔を上げたとき、彼女の視線が、僕の足元に落ちた。


——アズキがいた。


いつのまにか来ていた。


護衛の騎士が、2人同時に動いた。


「姫様、お下がりください」


1人が前に出て、槍の柄で床を叩いた。もう1人が僕を睨んだ。


僕は慌てて、アズキの首に手をかけた。


「すみません、すぐ出します。この子、噛みませんけど、その」


アーリアは、動かなかった。


騎士が言った。


「姫様。犬は——」


彼女は、その騎士の言葉が終わる前に、しゃがんだ。


裾を片手で押さえて、膝を折って、目の高さを下げて。


そして、右手を軽く握って、手の甲を、アズキの鼻先の前に、そっと差し出した。


——時間が、止まった。


僕にとっては、本当に止まった。


騎士が「姫様!」と声を上げた。それも遠くで鳴っている感じだった。


アズキが首を伸ばして、彼女の手の甲の匂いを嗅いだ。


2秒。


尻尾が、振れた。


『あのひと』


頭の中に、声が落ちてきた。


『あのひと、いい』


僕はゆっくり息を吐いて、それから、言った。


「……アーリア様」


「はい」


「それ、正しい挨拶の仕方ですよ」


彼女がこちらを見上げた。


「正しい?」


「はい。犬に会ったとき、手のひらを見せて上から出すと、犬は怖がるんです。上から来るものは、犬にとって全部『攻撃』なので。だから、握った手の甲を、下から、鼻の高さに出す。動かさない。相手が嗅ぎ終わるまで待つ。……完璧です。誰かに習ったんですか」


アーリアは、自分の手を見た。


握った右手を、目の前に持ち上げて。


しばらく、それを見ていた。


「……いいえ」


小さい声だった。


「なぜか、そうするものだと思って」


「そうですか」


「はい」


彼女は立ち上がって、裾を直した。それきり、その話は終わった。


——書庫番の老人が、椅子から落ちかけていた。


「ひ、姫様が、犬に」


「あの子は綺麗にしております」アーリアは平然と言った。


「ユウマ様が毎日洗っておられると聞きました」


「洗ってます」


「では問題ありません」


問題は、たぶん衛生の話ではなかったと思う。


——その日の午後、僕らは棚の下の巣を見つけた。


正体は白イタチだった。


冬に毛が白くなる、細長いやつだ。それが2頭、書庫の東壁の、石積みの隙間に巣を作っていた。3年前からいるらしい。


僕はしゃがんで、待った。


40分で、片方が出てきた。細い体で、床を波打つように走って、僕の靴の匂いを嗅いで、それから手の甲に鼻を触れさせた。


『さむい』


『こども、さむい』


——巣に、5匹いた。


生まれて10日くらいの、目も開いていないのが5匹。


だから羊皮紙を裂いていた。石壁の隙間は冷える。紙を細く裂いて敷き詰めると、空気の層ができて、温かい。理にかなっている。理にかなっているが、書庫にとってはたまったものではない。


「羊毛をください」


僕は書庫番に言った。


「は?」


「洗ってない羊毛を、桶に1杯。あと、木箱を1つ。壁の隙間じゃなくて、あそこの、暖炉の煙道の横に置きます。あそこ、壁が温かいですよね」


「……温かいが」


「たぶん引っ越します」


引っ越した。


3日かかったけれど、白イタチは5匹の子どもを1匹ずつ咥えて、羊毛の箱に運び込んだ。以来、書庫の羊皮紙は1枚も裂かれていない。


「……3年、罠を仕掛けておりました」書庫番は呆然としていた。


「3年間……ずっと…」


「罠にはかかりませんよ。腹が減ってたわけじゃないので」


そして、副産物があった。


古い巣の底から、裂かれずに残った紙が何枚か出てきたのだ。


アーリアがそれを摘まみ上げて、目を細めた。


「……これは、宝物庫の目録ですね。80年ほど前の」


「読めるんですか」


「読めます」彼女は指でなぞりながら、声に出した。


「『第7棚。異界より渡りし品。花——』」


そこで途切れていた。


続きは、5匹の子イタチの下敷きになって、消えていた。


僕とアーリアは、しばらく黙ってそれを見ていた。


「……もう1度、探しましょう」


彼女が言った。


「はい」


——夕方、書庫を出るとき、廊下の角で侍女が2人、小声で話しているのが聞こえた。


「姫様、犬にお触りになったって」


「まさか」


「本当よ。書庫番のお爺さんが言ってた」


「……変わられたわねえ」


「春先のご病気からよ。3日も熱が下がらなくて、もう駄目かって言われて。目が覚めてから、少しお変わりになった」


「動物は苦手でいらしたのに」


「食べ物の好みも変わったのよ。熱いものが召し上がれなくなって」


僕は、その横を通り過ぎた。


——病み上がりなんだな。


そう思った。


それだけだった。


人間の話は、僕にはよく分からない。分からないものについて、僕はあまり考えない。3ヶ月この王宮にいて、僕がまともに読めるようになったのは、獣の顔色だけだ。


回廊を歩いていると、アズキが横についてきた。


『あのひと』


『いい、におい』


「そう?」


『いい』


「どんな匂い」


『……』


沈黙。


「うん、まあ、そうだよな」


匂いを言葉で説明するのは、犬にはたぶん、いちばん難しい。


僕は歩きながら、笑った。


窓の外は、もう暗かった。北の空に、雲が低く垂れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。