#11 枯れない花束
召喚から、3ヶ月が過ぎた。
話していて自分でも驚くが、本当にあっという間の3ヶ月だ。
7月の夕方にあの交差点に立って、気がついたら石の広間にいて、それからずっと、僕は獣の世話をしていた。獣舎の囲いを増やし、屋根を直し、餌の献立をドーラと組み直し、そして、獣たちの相談にものってきた。
王都の外の村からも呼ばれるようになった。牛が乳を出さない。馬が水を飲まない。羊が柵を越える。行って、座って、聞いて、直して、帰ってくる。
その繰り返しで、木の葉の色が変わっていた。
朝晩が冷える。回廊を歩くと、石の冷たさが靴底を通ってくる。厨房の献立に根菜が増えた。ドーラが「今年の北風は早いね」と言った。
——3ヶ月だ。
3ヶ月、僕は帰れていない。
ヴィルマ・ゼーレに呼ばれたのは、そういう朝だった。
「調査に、あなたを加えます」
書庫の3階。天井まで棚があって、梯子が2本かかっている。窓が小さく、蝋燭の火が揺れると、背表紙の金文字がいっせいに動いて見える。
卓の上には、羊皮紙が30枚くらい広げてあった。円と、線と、細かい文字。
「今までは加えてもらえませんでしたよね」
「あなたに読めるものがなかったからです」
相変わらずだった。
彼女は椅子を勧めもせずに、羊皮紙の1枚を指した。
「これが召喚術式です。120年前の記録の写しの、そのまた写し。原典は失われています」
「読めません」
「知っています」
「じゃあ、なんで見せるんですか」
「形を覚えてもらうためです。あなたが立っていた円環と、同じ形かどうかを、いずれ確認してもらう必要があります」
なるほど、と思った。
この人は無駄なことは言わないし、やらない。
「2つ、伝えます」
彼女は指を2本立てた。この人が指を立てる——彼女のなにげない仕草を、僕は初めて見た。
「1つ。召喚術式は、座標を必要とします。座標というのは、向こう側の世界のどこから引っ張るか、という指定です。この術式は、それを土地の名前でも、位置でも指定できません」
「じゃあ、何で」
「想いです」
僕は聞き返した。
「……はい?」
「向こうの世界で、強い想いが結び付いた場所。術式はそこを掴みます。120年前の召喚も、その前の召喚も、記録に残っているのは同じ文言です」
彼女は羊皮紙の1行を、指の背でなぞった。
「なぜそうなのかは、分かっていません。完全に解明されていないものを、我々は使いました」
強い想いが、結び付いた場所。
僕はそのとき、それを、そんなに深くは考えなかった。
考えなかった、というより、たぶん、考えないようにした。あの交差点にしゃがんでいた自分を思い出しかけて、そこで思考が止まった。止めた。
「2つ目は」
「はい」
「帰還には、触媒が要ります」
ヴィルマは、初めて僕の顔を見た。
「召喚の瞬間に、あなたと一緒に渡ってきたもの。向こう側の物質。それを結び目にしないと、道が繋がらない。——身に着けていたもので、心当たりは」
僕は、すぐに思い出した。
思い出すというプロセス自体、必要なかった。
「花束です」
——宝物庫に案内された。
王家の宝物庫というのは、僕の想像していたのと違って、思ったより小さい部屋だった。壁は二重構造らしい、扉が3枚、それを抜けた先に、棚と台が並んでいる。
金の器。宝石をはめた冠。古い剣。折れた笏。
そして、いちばん奥の台の上に、ガラスの覆いを被せて、それは置かれていた。
白い花束。
トルコキキョウに似たやつと、名前を知らない小さいのが何種類か。花屋のビニールも、シールも、そのまま。
僕は、覆いのガラスに手を触れた。
「……枯れてない」
3ヶ月だ。
3ヶ月、水も土もなしに、暗い部屋の棚の上に置かれていた。
なのに、花びらの1枚も枯れていなかった。
しおれてもいない。花びらの縁が茶色くもなっていない。あの日、花屋のおばさんが「白でお願いします」の一言で包んでくれた、あの瞬間のままだ。
ヴィルマが覆いを外した。
香りがした。
——それが、いちばんきつかった。
匂いというのは、記憶に直接触る。花屋の店先の、水の匂いと、切った茎の青い匂い。それが3ヶ月ぶんの時間を飛び越えて、まっすぐ来た。
僕は少し、後ろに下がった。
「ここに置いてから、記録を取っています」ヴィルマが言った。
「重量、水分、香気。3ヶ月、1つも変化がありません。定期的に測っている者が言うには、『測るたびに気味が悪くなる』そうです」
「なんでですか。なんで枯れないんですか」
彼女はしばらく黙った。
そして、初めて——本当に初めて、わずかに眉を動かした。
「向こうの時間に触れているからだと、私は考えています」
「向こうの、時間」
「この花は、まだ半分あちら側にいる。だから、こちらの時間で朽ちない」彼女は淡々と続けた。
「そしてそれは、道がまだ切れていないという意味でもあります。切れていないなら、繋ぎ直せる可能性がある」
僕は、ガラス越しに白い花を見た。
——道が、切れていない。
「ただし」
ヴィルマが言った。
「術式は、断片しか残っていません」
彼女は書庫に戻って、棚を指した。
3階の、東側の壁一面。
「120年前の召喚に関する記録は、この棚に87冊あります。うち、帰還に触れている可能性があるものが、私の見立てで34冊。すべて古語です。写本の癖が写本ごとに違い、同じ語が3通りに綴られています」
「34冊」
「私はこの3ヶ月、毎晩ここにいます」
——毎晩。
僕は、そこで初めて、この人の目の下を見た。
隈がある。ずっとある。
この人は、僕に1度も謝っていない。「すまなかった」も「申し訳ない」も、3ヶ月のあいだ、一言も言っていない。
代わりに、3ヶ月、毎晩ここにいた。
「……手伝います」
僕は言った。
「ここを読めば、いいんですね」
僕は棚に近づいた。
背表紙に手を伸ばして、1冊、抜いた。
古い革の表紙。重い。ページを開くと、細かい文字がびっしり並んでいた。欄外に注釈。誰かが赤い印をつけている。
僕は、そのページを見た。
——見た。
……見た。
見て、いた。
「あ」
そこで、ようやく、思い出す。
僕は、この世界の文字を、一字も読めない。
ここまでの流れで、読めそうな空気になっていたが、きれいさっぱり、まるきり分からない。
召喚術式が僕にくれたのは、話し言葉だけだった。耳から入ってくる音は、勝手に意味になる。でも、目から入ってくる形は、ただの形のままだ。
3ヶ月、その事実に本気で向き合わずに済んでいたのは、僕がずっと獣の世話をしていたからだ。獣は文字を使わない。
僕は本を持ったまま、棚を見上げた。
87冊。
そのうち34冊。
僕の頭上、天井の高さまで、僕に読めないものが並んでいる。
「……」
声が出なかった。
情けなかった。3ヶ月かけて、僕は獣舎を建て直し、鷹の餌の持ち方を直し、400kgの熊と友達になった。それは全部、無駄ではなかったと思う。
でも、帰るための道の、最初の1歩さえも踏み出せないまま、僕は突っ立っていた。
そのとき、足元で、床を叩く音がした。
パタン、パタン、パタン。
見下ろすと、アズキが尻尾で床を鳴らしていた。
書庫は動物立入禁止のはずだが、この犬に人間の規則の話をしても仕方がない。
アズキは僕を見上げて、暢気に尻尾を振っていた。
『ごはん?』
「……いや、まだ」
『ごはん!』
「まだだって」
『あっち! ごはん!』
「厨房はそっちじゃない。反対」
『あっち!』
——僕は、本を棚に戻した。
戻して、しゃがんで、犬の耳の付け根を掻いた。そこだけがやわらかい。指を入れると、犬は目を細めて、首をこっちに倒してくる。
ヴィルマが、羽根ペンを止めていた。
僕を見ていた。
「なんですか」
「いえ」
彼女は何も言わずに、また書き始めた。
僕はしゃがんだまま、天井まで届く棚を、もう1度見上げた。
読めない。
読めないなら、読める人を探すしかない。
——それを、僕はまだ、思いついていなかった。
思いつく前に、向こうからやって来た。




