#10 熊が降りてきました
先に、2体ぶんの報告をしておく。
1体は魔栗鼠のクルミ。獣舎の梁に住み着いていた。栗鼠のくせに頬袋が異様に発達していて、そこに何でも詰め込む。テイムして3日目に、僕の匙が消えた。4日目に櫛が消えた。5日目に靴下の片方が消えた。梁の上の巣を確認したら、全部あった。ついでに、3年前に所在不明になったという銀の指輪も出てきた。侍女が泣いて喜び、クルミは反省しなかった。
もう1体は伝令鳥のツグミ。灰色の、鳩より少し大きい鳥だ。鳩舎の隅で、他の鳥に突かれていた。この子は速い。王都から北の国境まで、1日半で飛ぶ。そして僕の念話が届かないところまで行ける唯一の子である。これが後々、決定的に効いてくる。
——これで7体。
——そして8体目が、王都の西の村から降りてきた。
「白い、巨大な熊が出た」
報せが入ったのは、朝の食事の途中だった。
村人の証言は一致していた。体長は2mを超える。全身が真っ白。2日前から森の際をうろついていて、昨日の夕方には麦の囲いを壊した。
討伐指定、星3つ。
小隊20人、あるいは飛竜1騎が必要とされる段階だ。魔熊は熊の中でも上位種で、正面から殴り合って勝てる人間はいない。
「行きます」
僕が言うと、オズワルドは「駄目だ」と言った。
「星3つだぞ、ユウマ殿」
「森狼も星2つでした」
「二と三のあいだには、山ほど死体が転がっとる」
彼は本気で言っていた。この人は大声だけれど、大声で嘘を言う人ではない。
結局、条件つきで許可が出た。討伐隊が先に展開して、僕はその後方につく。危険と判断されたら、即座に引く。リーゼが監視につく。
僕らが現場に着いたのは、昼過ぎだった。
森の際、麦畑の外れ。壊された囲いの木材が散らばっている。討伐隊が横列を組んで、じりじりと森へ近づいていく。
——そして僕は、300m手前で足を止めた。
「おい」リーゼが振り返る。
「どうした」
「あの子、まっすぐ歩けてません」
熊は、森の際にいた。
体長2.1m。四つ足で歩いているのに、肩の高さが僕の胸くらいある。全身が真っ白だ。白変個体——色素を作れずに生まれてくる個体が、稀にいる。日本の動物園にもいた。
そして。
その熊は、歩きながら、木にぶつかっていた。
1本目。肩でぶつかって、驚いたように立ち止まる。方向を変える。2本目。今度は鼻先をぶつけて、後ずさりする。
「酔ってるのか?」リーゼが言った。
「違います。見えてないんです」
「見えてない?」
「顔を見てください。腫れてます」
距離があってはっきりとは分からない。でも、頭の輪郭がおかしかった。目のあたりが、両側とも、丸く盛り上がっている。
「隊長! 止めてください!」
僕は走った。
討伐隊の横列に追いついて、指揮官の馬に取りついた。
「あの熊は、目が見えていません。だから森に帰れずにここにいます。攻撃されたら、見えないまま暴れます。20人じゃ足りません」
「……ならば、なおのこと討たねばならん」
「僕に、時間をください」
「テイマー殿——」
「3時間ください」僕は言った。
「3時間で駄目なら、あとは好きにしてください」
——リーゼの言葉を、そのまま借りた。
彼女が後ろで小さく舌打ちしたのが聞こえた。褒められた気がした。
僕は1人で、麦畑を歩いた。
風上を避けて、風下から回り込む。熊は目が悪くても鼻がいい。むしろ鼻で判断させたほうがいい。
50m。
熊が動きを止めた。鼻が上がる。
30m。
僕はしゃがんだ。
そこから先は、いつもと同じだ。横を向いて、視線は地面、動かない。
——52分かかった。
森狼のときの3倍だ。無理もない。この子は今、目が見えていない。見えていない生き物にとって、近づいてくるものは全部、恐怖でしかない。
僕は微動だにしなかった。
呼吸だけ、なるべく大きく、ゆっくりした。呼吸の音が、こちらの位置を知らせる唯一の手段だからだ。
52分後。
草を踏む音が、すぐ前で止まった。
熱い風が、頭の上から降ってきた。
鼻息だ。
僕の頭のすぐ上、30cmのところに、熊の鼻がある。
体重400kg。前肢の一振りで、人間の胴は折れる。
汗が、顎から落ちた。
そして——鼻先が、僕の手の甲に触れた。
後頭部が温かくなる。
『…………いた……い……』
——遅い。
とてつもなく、遅かった。
『……いた……い……』
『……みえ……ない……』
1語ごとに、たっぷり2秒か3秒の間が空く。焦らされているのではない。この子は本当に、そういう速さで喋っている。
『……はち……』
『……はち、いっぱい……』
「……蜂?」
僕は顔を上げた。
上げて、初めて、間近でその顔を見た。
ひどいものだった。
鼻梁から両目の周りにかけて、パンパンに腫れ上がっている。まぶたが完全に塞がって、細い線しか残っていない。鼻の頭に、赤黒い点が無数にある。よく見ると、いくつかにまだ針が残っている。
『……あま……い……すき……』
「蜂の巣を、襲ったんだね」
『……すき……』
「顔、刺された?」
『……いっぱい……』
僕は、笑いそうになって、こらえた。
笑うところじゃない。この子は今、本当に困っている。
刺されて、腫れて、目が塞がって、森に帰れなくなった。だから森の際をうろうろしていた。麦の囲いを壊したのは、匂いのするほうへ手探りで進んだ結果だ。
星3つの討伐対象の正体は、蜂に負けた甘党だった。
「隊長ーっ!」
僕は立ち上がって、両手を振った。
「桶と、水と、布を持ってきてください! それから、消炎の膏薬を!」
治療は、2日かかった。
まず腫れを引かせる。冷たい水に浸した布を、40分ごとに取り替えて、目の上に当てる。当てているあいだ、熊は僕の膝の横で、ずっと寝ていた。
寝るのだ、この子は。
腫れが引くまで、僕は熊の顔の横で膏薬を塗り続けた。教会に頼んで借りてきた消炎の膏薬は、鼻を刺すような薬草の匂いがして、塗るたびに熊が『……くさ……い……』と文句を言った。
『我慢して』
『……や……だ……』
『あとで蜂蜜あげるから』
『…………』
長い沈黙のあと。
『……する……』
現金だった。
——2日目の夕方、熊は目を開けた。
細い線だったまぶたが、ちゃんと開いて、黒い目が出てきた。小さい。体に対して、驚くほど小さい目だ。
その目で、しばらく僕を見ていた。
それから立ち上がって、のっそりと、森のほうへ歩いていった。
今度は、木にぶつからなかった。
「行きましたね」
僕は言った。声が変だった。
「ああ」リーゼが言った。
「……お前、泣いてるぞ」
「泣いてません」
「泣いてるだろ」
「これは、膏薬が目に入っただけです」
——3日後の朝。
王宮の獣舎の前に、それは座っていた。
門番が悲鳴を上げた。腰を抜かして、槍を落とした。
獣舎の柵が1枚、押し倒されていた。400kgが体重をかけたら、柵は柵の役目を果たさない。
僕が走っていったとき、白い熊は、獣舎の入口の前に、きちんと座っていた。
犬が「散歩に行く?」と待っているときの座り方だった。
400kgで。
「……どうやって来たの」
『……あるいた……』
「歩いた」
『……におい……』
『……あっち……』
——「あっち」。
僕は、そこで気づいた。
方角の言葉だ。この子は今、「あっち」という語を使った。
これまで、僕の獣たちは腹と眠気と痛みと好き嫌いしか喋らなかった。場所の概念は通じなかった。それが、通じている。
——その日から、他の子たちも変わった。
アズキが『あっち!』と言うようになった。ソラが『たかい、うえ!』と言うようになった。フクが『そと、こわい』と言うようになった。
——語彙が、一段、増えた。
理由はたぶん、僕がこの1ヶ月、獣たちに向かって延々と喋り続けていたからだ。通じないと分かっていても、僕は毎日、「あっちに行くよ」「上を見て」「外に出よう」と送っていた。
通じない言葉を投げ続けると、いつのまにか、通じるようになる。
これは、あとで思い返すと、とんでもなく重要な発見だった。
そのときの僕は、そこまで考えていなかった。
なぜなら、その白い熊が、僕を見て、こう言ったからだ。
『……しろいの……』
「え?」
『……しろいの……』
「僕?」
『……うん……』
「いや、白いのはお前だろ」
『…………』
長い沈黙。
『……しろいの……』
以来、この子は僕のことを、ずっとそう呼んでいる。理由は今も分かっていない。たぶん、初めて会った日に僕が着ていたシャツが白かったからだと思う。それだけの理由で、僕は400kgの熊に「しろいの」と呼ばれ続けることになった。
名前は、モチにした。
白くて、丸くて、餅みたいだったからだ。
討伐隊の隊長は、報告書を書きに来て、獣舎の前でその報告書を落とした。
「な……」
「モチです」
「もち」
「餅みたいなので」
彼はしばらく口を開けたまま立っていて、それから、書類を拾わずに帰っていった。
——その夜。
僕は獣舎の藁の上で寝ることにした。囲いが足りず、モチが外にいたからだ。
寝転がって、天窓から星を見ていた。この世界の星座は、地球のとは全然違う。それでも、天の川みたいな帯は同じところに見えた。
そのとき、地面が揺れた。
「……え」
暗がりの中で、白い山が動いた。
「え、ちょっ、待って」
『……ねむ……い……』
「そうだね、僕も眠い、でも待って、待って」
『……いっしょ……』
「一緒に寝るのはいいけど! 上は駄目! 上は!」
『…………』
「400kg! お前、400kgあるの! 分かってる!?」
僕の本気の悲鳴が、獣舎の屋根を突き抜けて、王宮の東棟まで届いたらしい。
——翌朝、侍女に「昨夜は何かおありでしたか」と聞かれた。
「熊に潰されかけました」
「まあ」
彼女は「まあ」しか言わなかった。
この王宮の人たちは、1ヶ月で、僕に対する耐性を完全につけていた。




