第九章 人に作られた神
アベルはしばらく帳面を閉じることができなかった。最後の頁には、ヘンリクが何十年も前に書いた文字が残っている。『必要がないのなら、読まずに閉じてほしい。』その必要がある日は、もう来ていた。
百年前、あの村に神はいなかった。大飢饉の中で母親を失った男がいた。男は村人が母親を食べたと思い込み、大勢を殺した。そして村人たちに殺された。それで終わらず、死んだ男と同じ声で扉を叩くものが現れた。
村人たちはそれを恐れ、男と母親へ食事を供えた。怪異が止まった。お供えをやめれば、また人が死んだ。
少なくとも始まりは、それだけだった。食事を公平にしなければならないという教えも、人から食べ物を奪ってはいけないという戒めも、男が生前に残したものではない。村人たちは自分たちの後悔と、怪異に殺された者たちの行動を結びつけ、食卓の作法を作った。
それが何十年も続いた。男は、いつしか食卓を守る者になった。誰か一人だけが飢えないように。誰かの食事が奪われないように。家族が同じ食卓を囲めるように。そんな願いが百年近く、毎日あの場所へ向けられた。
アベルは帳面へ視線を戻した。もし、食卓の作法を守るという行為に何の意味もないのなら、これはただ昔話が変わっていっただけのことだ。
だが、今起きていることは違う。母は、自分へ出された食事をアベルへ渡して死んだ。避難してきた父親は、自分のパンを息子へ与えて死んだ。若い母親も、自分の食事を子供へ分けて死んだ。軍人の中には、他人へ渡された配給を取り上げた者が死んだ。
百年前の男が生きていた頃、その男はそんな決まりを守ってなどいなかった。自分の食事を母親へ渡そうとしていたのだから、むしろ今の作法とは反対だった。死後すぐに現れた怪異も同じだった。ヘンリクの記録に残された最初の数日間、誰が殺されるかにははっきりとした基準がなかった。母親の配給を減らすことに関わった老人が死に、自分の食事を子供へ分けた女が死に、他人の食事を勝手に食べた男も死んだ。何にも当てはまらない人もいた。
ところが、今は違う。村人たちが後になって決めた食卓の作法を、今の怪異は本当に守らせようとしている。
「……変わったのか」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。男が神になったのではない。神として扱われ続けた結果、怪異の方が変わったのではないか。百年間、食事を公平にする存在として祈られた。何度も、何度も同じ願いを向けられた。その結果、当初は無差別に人を殺してきた怪異が、その意味に沿って人を殺すようになったのではないか。
証明できるものではなかった。それでもアベルは、その仮説を捨てなかった。もし正しければ、これまで意味が分からなかった死にも説明がつく。
そして、もう一つ調べることがあった。ルーエンだった。アベルは、もう少しだけこの記録について調べたいと花屋の男へ伝え、必要な部分を書き写す許可をもらった。書き終えると、ヘンリクの帳面を木箱へ丁寧に戻し、再び鍵をかけた。
翌日から、アベルは兵舎で最初に広がった怪談を追い始めた。以前なら、ただ気味の悪い話として聞き流していたものだった。夜中に扉を叩かれる。開けても誰もいない。男の声で『食べたか』と聞こえる。当時その話をしていた兵士の中で、まだルーエンに残っている者を探した。戦闘で配置が変わり、すでに別の土地へ送られた者も多かったが、何人かは見つかった。
最初に話を聞けたのは、武器庫の修繕に携わっていた兵士だった。
「前にも聞いただろ、それ」
「聞きました。でも、その時は幽霊の話としてしか聞いていなかったので」
兵士は面倒そうな顔をしながらも、作業の手を止めた。
「扉を叩かれた夜のことを、もう一度教えてください」
「何をだよ」
「その前に何をしていたのかです。食事の時とか」
兵士は眉を寄せた。
「食事?」
「何でも構いません。いつもと違ったことがなかったか」
しばらく考えてから、兵士は同じ宿舎にいた別の男の名前を挙げた。その男は夕食に遅れていた。食堂では人数分の食事がすでに用意されており、一人分だけが残った。仲間の何人かが、それを悪ふざけで食べたという。
「いたずらだよ。本人が戻ってきたら何もないってのも可哀想だから、保存食をやったの。干した肉と固いパンだったかな」
「その夜に、扉を叩かれたんですか」
「ああ。たぶん」
「叩かれたのは誰の部屋でした?」
兵士は少し考えた。
「いたずらした連中だったと思う」
アベルは顔を上げた。
「全員ですか」
「そこまでは覚えてない。ただ、遅れてきた本人は何も聞かなかったって言ってたな。それで余計に、いたずらした奴らがくだらない芝居をしてるんじゃないかって話になった」
アベルはその言葉を書き留めた。以前にも聞いていた話だった。それでも、今は意味が違った。他人へ出された食事を食べた。そして、その夜に扉を叩かれた。
「その声は、本当に『食べたか』だったんですね」
「ああ、そうだ。ドア叩かれた連中は、飯を食われた奴が叩いたんだと思ってたって言ってたな」
「その前に、村へ行った兵士がいましたよね」
兵士はアベルを見た。
「山の方の村か?」
「祈り所のお供えに触った人たちです」
「ああ……いたな」
「その人たちが戻ってきた後から、あの話が始まった」
兵士はそこまで聞いて、ようやく少し気味の悪そうな顔をした。
「お前、何を調べてるんだ」
「まだ分かりません」
そう答えてから、アベルは言い直した。
「いえ。たぶん、分かり始めています」
お供えに触れること自体が問題なのではない。用意する時には、当然村人も皿や食事へ触れている。昔から避けられていたのは、一度供えたものへいたずらに手を出すことだった。それでも、兵士たちが祈り所のお供えを動かし、その後にルーエンで同じ声が聞かれ始めた。アベルは、あの時の干渉によって人間を介して怪異とルーエンの間に、何か縁ができたのではないかと考えた。
次に調べたのは死者だった。村で何人も死んでいた間、ルーエンでも不可解な死亡事故が続いていた。戦時中の都市では、人が死ぬこと自体は珍しくない。襲撃による死者もいれば、負傷や病気で死ぬ者もいる。その中から、外傷の様子や現場の状況が村の怪異と似たものだけを拾う必要があった。
最初は兵士から聞いた。次に、葬送を担当した教会の者へ話を聞いた。避難民を収容している施設にも行った。
アベルが探したのは、夜中に扉を叩かれた者、誰も入っていないはずの部屋で死んでいた者、首が不自然な方向へ折れていた者、死ぬ前に男の声を聞いた者だった。それらを一つずつ調べて書き出した。何も知らない人間から見れば奇妙な質問だった。
「死んだ人が、夕食に何を食べたか?」
教会の男は怪訝そうに聞き返した。
「はい」
「死因と関係があるのか」
「あると思っています」
「何を食べたら首が折れるんだ」
「何を食べたかではありません。どうやって食べたかです」
当然、笑われることもあった。それでも聞き続けた。避難民の共同宿舎で死んだ男は、その日の夕食で隣にいた老人のパンを取っていた。老人が食べ切れないと言ったためだった。別の女は、自分のスープを幼い子供へ分けた。軍の配給所で働いていた男は、人数が合わなくなったため、一度渡した食事を回収して別の部隊へ回していた。どれも理由があった。悪意があるとは限らない。それでも村で死んだ者たちと同じだった。アベルは紙の端へ書いた。
『今のものは、無差別ではない。食卓の決まりに反した者を選んでいる』書いてから、アベルはしばらくその文字を見た。村人たちが百年前に決めた作法を、今の怪異は実際に守らせようとしている。調べれば調べるほど、百年間の祈りが怪異そのものを変えたという考えは、仮説というより確信に近づいていった。
アベルはさらに、怪異が現れた場所と時期を整理した。最初は村だった。兵士たちが祈り所へ入り、お供えへ干渉した後、ルーエンの兵舎でも扉を叩く音が始まった。その後、軍が村へ入り、お供えを止めると、村だけでなくルーエンでも被害が増えている。二つの場所で同じ声が聞かれ、同じように首を折られ、食事に関わる行動の後に怪異が現れていた。
百年前、怪異は村から出ていなかった。少なくとも、ヘンリクの記録には村の外で起きた例は残されていない。それが今は、村とルーエンの両方に現れている。
村の外から来た兵士たちがお供えへ干渉し、そのままルーエンへ戻った。その後にルーエンで怪異が現れ、お供えが止められてから被害が増えた。この順番も、兵士たちを介して怪異とルーエンの間に新たな縁ができたというアベルの仮説を裏づけているように見えた。
お供えが続いている間は、その縁があっても大きな被害には至らなかった。それが途切れたことで、村に留まっていたものが、その繋がりを通じてルーエンにも現れるようになった。これまで集めた出来事は、その考えに沿って並んでいた。
怪異そのものを消す方法は、まだ分からない。しかし、それを探している間にも人は死ぬ。明日も誰かが死ぬ。アベルは紙をまとめた。
今一番に、やらなければいけないこと。村のお供えを再開する。そして、すでに怪異との縁ができたルーエンにも、同じように食事を供える場所を作る。それで怪異そのものが消えるわけではない。百年前にも、怪異は消えていない。それでも、人が死ななくなるのなら、お供えをしなければならない。
アベルは机の上に並べていた資料を重ねた。母の手記。ヘンリクの帳面から書き写した紙。兵士たちから聞いた話。ルーエンで死んだ者たちの記録。それぞれ別の時代に、別の人間が見た出来事だった。今は一つに繋がっている。
問題は、こんな突拍子もない話をどうやって信じてもらうかだった。




