第十章 怪談ではない
翌朝、アベルはまとめた資料を抱えて軍の庁舎へ向かった。
ルーエンに戻ってから何度も近くを通った建物だったが、自分から正面の受付を訪ねるのは初めてだった。時計技師として軍の仕事をしていた頃は、指定された工房や倉庫へ行けばよく、作業内容について上官へ直接申し出る必要などなかった。
受付にいた兵士は、アベルが差し出した身分証と書類の束を交互に見た。
「それで、何の用だ」
「村のお供えを再開してほしいんです。それと、ルーエンにも同じものを作ってほしい」
兵士は書類から顔を上げた。
「何を?」
「祈り所です」
「教会なら他を当たれ」
「宗教の話ではありません。人が死んでいることについてです」
「最初から話せ」
そう言われ、アベルは話した。百年前、山間の村で大飢饉があったこと。その時に大勢を殺した男が死後も怪異として現れたこと。男と母親へ食事を供えると被害が止まったこと。村ではその習慣が百年近く続いていたこと。最近になって兵士がお供えへ干渉し、その後ルーエンでも同じような現象が起き始めたこと。そして軍がお供えを止めてから、村でもルーエンでも不可解な死者が増えていること。
途中から、兵士の表情が変わっていた。真剣になったのではない。何を聞かされているのか分からない顔だった。
「つまり」
兵士は確認するように言った。
「百年前に死んだ男が、今も人を殺していると?」
「そうだと思っています」
「食事を供えれば止まる?」
「少なくとも村では、長い間そうでした」
「それを軍にやれと」
「はい」
兵士はしばらく黙ってから、隣にいた別の兵士を見た。二人とも笑わなかった。それがかえってアベルには堪えた。
「これ、上へ回してもらえますか」
「何を」
「資料です。村の記録と、ルーエンで起きた死亡事故をまとめています」
「そんなものを上官に渡して、何をしろと言うんだ」
「二人分の食事を毎日供えてほしいんです。村のお供えも再開してください。それで人が死ななくなる可能性があります」
「帰れ」
「でも」
「帰れ」
その日は、それ以上話を聞いてもらえなかった。
翌日は別の窓口へ行った。軍需品の修理で以前に出入りしていた部署なら、少なくともアベルが何者なのかは知っている者がいた。顔を覚えていた兵士もいた。
「時計屋じゃないか。もう工房の仕事には戻らないのか」
「今は別のことを調べていて」
「何を」
「最近死んだ兵士のことです」
そこで警戒された。アベルは慌てて、母の手記やヘンリクの記録について説明した。兵士は最後まで話を聞いたが、結論は最初の窓口と同じだった。
「悪いことは言わないから、やめておけ」
「でも実際に人が死んでいて」
「戦争中なんだぞ。人は死ぬ」
「戦闘で死んだ人の話じゃありません」
「分かってる。だから余計にだ。軍の中で誰がどんな死に方をしたかなんて、民間人が嗅ぎ回る話じゃない」
「同じ死に方をした人がいるんです」
「お前が調べることじゃない」
アベルは資料を抱え直した。
「じゃあ、誰が調べるんですか」
兵士は答えなかった。それからも何度か軍の庁舎へ通った。受付で追い返されれば、以前仕事をしたことのある兵士を訪ねた。兵士から上官へ話を通してもらえないか頼み、それでも駄目なら、自分で文章にして提出した。
『扉を叩く男がいる』
『百年前に死んだ人間が原因だ』
『食事の扱いを変えなければ、さらに人が死ぬ可能性がある』紙へ書けば書くほど、自分でも異様な文章に見えた。だから、根拠も一緒に付けた。ヘンリクの帳面から書き写した記録。母が残した文章。村で起きた死。ルーエンで起きた死。兵舎で最初に怪談が広がった時期。お供えへ干渉した兵士が村から戻った時期。軍がお供えを止めた時期。それでも返事はなかった。
一方で、アベルは調査を止めなかった。軍の配給所で働いていた男が死んだと聞けば、その男がどの部署にいたのかを尋ねた。兵舎で扉を叩かれたという話があれば、いつ、どの宿舎で、誰がいたのかを調べた。食事を受け取った者が別の部隊へ移動していれば、その移動先まで聞いた。
最初は怪談を面白がって話していた兵士たちも、アベルが日付や所属を細かく確認するようになると、次第に口が重くなった。
「何でそこまで知りたいんだ」
「同じことが起きているか確認したいんです」
「どこで?」
「村とルーエンで」
「部隊の移動まで?」
「村へ行った人が、その後どこへ行ったか知りたいので」
「お前、それ本当にやめた方がいいぞ。俺だから言うけど、その聞き方してたら普通に怪しまれるからな」
人を介して怪異とルーエンの間に縁ができたのなら、どの兵士がどこへ移動したかには意味があるかもしれない。食事に関する作法が現在の怪異に影響しているのなら、軍の配給がどのように行われているかも必要だった。しかし、それを軍の側から見れば別の意味になる。戦時中の軍人の所属を調べている。部隊の移動先を尋ねている。食料の保管場所や配給の方法を知ろうとしている。軍内部で死亡した者の名前と役職を集めている。しかも、その男は以前、軍需品の修理にも関わっていた。
軍からどう見えるのかは、アベルにも分かっていた。それでも、他に方法がなかった。そしてある日、宿へ戻る途中で、とうとう二人の兵士に呼び止められた。
「アベル……アベル・ヴァイスで間違いないか」
「はい」
「少し来てもらう」
断れる雰囲気ではなかった。連れていかれたのは、これまで何度も訪ねた受付とは別の棟だった。小さな部屋へ通され、机を挟んで軍の監察を担当しているという男と向かい合った。アベルが持っていた紙はすべて机の上へ置かれた。監察官は一枚ずつ目を通した。
「兵站部隊の配給について調べているな」
「はい」
「なぜだ」
「説明した通りです」
「説明?」
監察官は紙の一枚を持ち上げた。
「『一度与えられた食事を別の人間へ渡すと危険』。これか?」
「それだけじゃありません」
「軍人の移動先を聞いて回っていたそうだな」
「村のお供えに触った人が、その後どこへ行ったのか知りたかったんです」
「なぜ」
「その人たちを介して、怪異とルーエンの間に縁ができた可能性があるからです」
監察官は何も言わなかった。アベルは言いながら、自分がどれほど怪しいことを話しているのか理解していた。
「俺は敵国の間者じゃありません」
「まだ何も聞いていない」
「でも、そういう話ですよね」
「お前が何者なのかを確認している」
監察官は別の紙を取った。
「軍の死亡者についても調べている」
「怪異に殺された可能性がある人だけです」
「それをどうやって見分けた」
「首です。あとは、扉を叩く音や男の声を聞いた人がいれば」
「軍人の死体を確認したのか」
「全部ではありません。葬送をした教会の人や、同じ宿舎にいた人から聞きました」
「なぜそこまでして調べた」
「だから、人が死んでいるからです」
声が大きくなり、アベルは一度口を閉じた。監察官は表情を変えなかった。
「お前は軍の内部で、百年前に死んだ男が人を殺しているという話を広めている」
「広めたいわけじゃありません」
「だが、話している」
「信じてもらわないと、お供えを戻せないからです」
「軍へ毎日二人分の食事を捨てろとも要求している」
「捨てるんじゃありません」
「同じことだ」
アベルは机の上の資料を見た。ここまで集めたものが、自分の話を証明するための材料になると思っていた。今は全部、自分が軍の内部を探っていた証拠として並べられている。
その日のうちには帰してもらえなかった。敵国の密偵だと決まったわけではない。逮捕とも言われなかった。ただ、確認が終わるまで外へ出すことはできないと言われ、小さな部屋へ移された。
窓には鉄格子があり、外側から鍵がかけられた。ほとんど犯罪者と同じ扱いだった。
最初の日は、何度も事情を聞かれた。翌日も呼び出された。母のこと。父のこと。ルーエンへ来た時期。時計技師としてどこで働いたか。軍の仕事でどの施設へ入ったか。村へ避難した理由。戻ってきた理由。なぜヘンリク・ライナーを探したのか。なぜ死者を調べたのか。何度説明しても、最後には同じところへ戻った。
「百年前の男が、今も人を殺している?」
「はい」
「それを食事で止められる?」
「可能性は高いと思っています」
「根拠は?」
「ここに全部あります」
資料はすでにアベルの手元にはなかった。監察官が持っている。それでも誰も信じなかった。
拘束されてから何日目かの夜、廊下が妙に騒がしくなった。普段なら決まった時間に見回りの足音がする程度だったが、その日は何人もの兵士が行き来していた。遠くで誰かが短く命令を出し、扉が開閉する音が続いた。アベルは格子の向こうへ声をかけた。
「何かあったんですか」
見張りは答えなかった。
「また誰か死んだんですか」
「黙っていろ」
「首を折られてたんじゃないですか」
見張りが振り向いた。
「黙れと言ってる」
それ以上は聞けなかった。
翌朝、監察官は来なかった。代わりに別の兵士が現れ、アベルが提出した資料についていくつか確認していった。
「これは誰から聞いた」
ルーエンで起きた死亡事故の記録を指している。
「教会の人です」
「名前は」
アベルは答えた。
「こっちは」
「兵舎にいた兵士から」
「この日付は確かか」
「本人がそう言っていました。ほかの人にも確認しています」
これまでなら、そんなことまで確かめようとはしなかった。
午後には別の者が来た。翌日もまた違う人間が来た。母の手記のどこにお供えについて書かれていたのか。ヘンリクの帳面は現在どこにあるのか。村で最初にお供えを止めたのは誰だったのか。質問が変わっていた。アベル自身を調べるためではない。アベルが調べた内容を確認している。何かが起きた。アベルがそう思っても、誰も説明してはくれなかった。その日の夕方、見張りが扉を開けた。
「出ろ」
「また事情聴取ですか」
「来れば分かる」
連れていかれた先は、これまで使われていた小さな取調室ではなく、大きな部屋だった。窓際に大きな机があり、壁にはルーエン周辺の地図が掛けられている。軍服姿の男が一人、机の前に立っていた。年齢は五十を過ぎているように見えた。肩や胸についた徽章が、アベルがこれまで話したどの兵士よりも上の立場にいることを示していた。
エルンスト・ヴァイゲルト将軍。ルーエン防衛を預かる人物だった。
机の上には、アベルが集めた資料がすべて置かれていた。ヴァイゲルトはその中の一枚を手に取ったまま、アベルを見た。
「お前がアベルか」
「はい」
「時計技師だそうだな」
「はい」
「それで、最近は軍の中を嗅ぎ回っていた」
「調べていたのは事実ですけど……その言い方だと完全に怪しい人ですね」
ヴァイゲルトは紙を机へ戻した。
「昨夜、参謀部の人間が一人死んだ」
アベルは顔を上げた。
「どうやって」
「部屋の中で首を折られていた。扉の外には衛兵がいた。窓も閉じていた。誰も中へ入っていない」
「その前に、扉を叩く音は」
「聞いた者がいる」
「声は?」
「それもだ」
ヴァイゲルトは少し黙った。
「『母を食べたか』と聞こえたそうだ」
アベルは何も言えなかった。ヴァイゲルトは机に手をつき、並べられた資料へ一度視線を落とした。
「お前がここへ何度も持ち込んだ話を、昨夜から調べ直させた。百年前の村。毎日のお供え。『母を食べたか』と聞いて回った男。ルーエンで起きている死。食事に関わった者たち」
それから、もう一度アベルを見る。
「今のところ、これらがすべて同じ現象だと言い続けているのはお前だけだ」
アベルは身構えた。まだ疑われているのかもしれない。ヴァイゲルトは椅子を一つ指した。
「座れ」
アベルは言われた通りに座った。ヴァイゲルトも向かいへ腰を下ろす。
「お前が知っていることを、最初から全部話せ」




