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ヴァルデン地方の正しい食卓  作者: 巴


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第十一章 命を賭けた検証

 アベルはどこから話すべきか迷った。ヴァイゲルトは急かさなかった。机の上にはアベルが集めた資料が並べられている。すでに一通り目を通しているのだろう。それでも、将軍はアベル自身の口から聞こうとしていた。

「百年前のことからでいいですか」

「最初からと言った」

 

 アベルは頷いた。百年前、まだルーエンが存在しなかった頃、東の山間にある村が大飢饉に見舞われたこと。食料が足りなくなり、老人や病人の配給が減らされたこと。その村に、病気の母親と暮らす男がいたこと。

 男は母親の食事を減らすことへ強く反発した。自分の分を母へ渡そうとしたが、村人たちは働き手である男まで倒れては困るとそれを止めた。その後、男は食料を探すため村を離れた。留守の間に母親は死に、ほかの死者とともに火葬された。一週間ほどして戻ってきた男は、母親が死んだと聞かされても納得しなかった。

「村人が母親を見殺しにしたと思ったんです。それだけならまだ……いや、それだけでも十分だったんでしょうけど、母親の遺体ももう残っていなかった」

「火葬したからか」

「はい」

アベルは一度言葉を止めた。

「帰ってきたのが、ちょうど村の夕食時だったそうです。母親はいない。遺体もない。でも、村の人たちは食事をしている。それを見て、男は村人が母親を食べたと思い込んだ」

ヴァイゲルトの眉がわずかに動いた。

「実際に食べたわけではないんだな」

「違います。母親は病気と飢えで死んだだけです。村人たちはきちんと弔っています」

「それでも男は信じなかった」

「はい。『母を食べたか』と聞いて回って、大勢を殺しました」


 アベルはヘンリクの記録から知った惨劇を話した。男は最初こそ母親の死に関わった者を探しているように見えたが、途中から誰が何をしたのかなど関係なくなった。村人を無差別に襲い、翌朝までに生き残った者たちによって殺された。

「問題は、その後です」

ヴァイゲルトは黙ったまま続きを促した。

「男の死体は村の端に置かれました。死んでいることも確認されています。でも、その夜から扉を叩く音が始まった」

「『母を食べたか』か」

「そうです」

アベルは机の上にある一枚の紙を指した。

「閉じた家の中で首を折られて死ぬ。翌朝になっても男の死体は村の端に残っている。何日も続いた。それで村人たちは、男を母親と同じように火葬しました。その時、生きている間に母親へ食事を渡すことを許さなかったことを悔やんで、男と母親へ同じ食事を供えたんです」

「それで止まった」

「はい。供えている間は何も起こらなかった。お供えをやめると、また人が死んだ。再開すると止まった。それから百年近く、村では毎日二人分を供え続けています」

ヴァイゲルトは椅子へ深く座り直した。

「それだけなら、昔の村でそういうことがあったという話だ」

「俺も最初はそう思っていました」

「今は違う?」

アベルは頷いた。

「村人たちは、その怪異が何を嫌っているのか分からなかった。それで、死んだ人たちが何をしていたのかを考えたんです。男の母親の配給を減らすことに賛成した人。人の食事を取った人。逆に、自分の食事を子供や病人に渡した人もいた。それを、生前の男と食事を巡って争ったことと結びつけた」

「結びつけた?」

「食事を奪ってはいけない。自分へ出されたものを他人へ渡してはいけない。最初から公平に分ける。そういう決まりを、村人たちが後から作ったんです」

ヴァイゲルトは資料の一枚へ目を落とした。

「男が言ったわけではない」

「一度も言っていません。むしろ男自身は、自分の食事を母親へ渡そうとしていました」

「なら、なぜ今の死者はその決まりに沿っている」

「そこです」

アベルは身を乗り出しかけ、すぐに姿勢を戻した。

「百年の間に話が変わっていったんです。最初は人を殺す恐ろしいものだった。それが、いつの間にか食事を公平にするよう教えた存在になった。誰も飢えないように見守る神になった。村では毎日、そんな願いを向けて祈ってきた」

「祈ったから変わったと?」

「俺はそう考えています」

ヴァイゲルトは何も言わなかった。

アベルは続けた。

「今死んでいる人たちは、村人たちが後から作った食卓の決まりに反することをしています。人の食事を取る。自分の分を人に渡す。一度配ったものを取り上げて別の人へ回す。百年前には無差別だったものが、今は人が作った決まりを守らせようとしている」

「そして、それがルーエンにも来た」

「はい」

 

 村を訪れた兵士たちがお供えへ干渉したこと。その兵士たちがルーエンへ戻った後から、兵舎で扉を叩く音と「食べたか」という声が聞かれるようになったこと。さらに、軍がお供えを止めてから村だけでなくルーエンでも被害が増えたことを説明した。

「兵士たちを介して、怪異とルーエンの間に縁ができたんだと思います」

「縁」

「ほかに言い方が分からないんです。でも、百年前には村から出ていなかった。それが今はルーエンにも現れている。最初に変わったのは、村の外から来た兵士がお供えへ触ったことです」

「触っただけで?」

「正確には、一度供えたものへ、いたずらに手を出した。村でも、それは昔から避けられていました」

ヴァイゲルトはしばらく考えていた。

「それで、お前は何をしろと言う」

ようやく問われ、アベルは息を整えた。

「村のお供えを再開してください」

ヴァイゲルトは黙っている。

「それと、ルーエンにも祈り所を作って、男と母親へ毎日同じ食事を供えてほしいです」

「軍の食料を使って?」

「はい」

「百年前に死んだ人間へ?」

「はい」

「それで全部解決するのか」

「しません」

ヴァイゲルトの目が細くなった。

「しないのか」

「怪異そのものは消えません。百年前も消えていない。お供えを続けている間、出てこなくなっただけです」

「なら、根本的な解決ではない」

「その通りです。でも、人は死ななくなった」

アベルは机の上の資料を見た。

「今も人が死んでいます。何かを完全に解決する方法を探している間にも、また誰かが死ぬ。だったら、まず止められるものを止めたいんです」

ヴァイゲルトは指先で机を一度叩いた。

「ルーエンにも供えれば止まるという根拠は」

「ありません」

アベルはすぐに答えた。

「ただ、怪異とルーエンの間にも縁ができたのなら、村だけ再開しても足りない可能性がある。だから両方でやってほしい」

「ずいぶん都合のいい話だな」

「分かっています」

「軍に祈り所を作らせ、毎日食料を使わせる。戦時中にだ」


 アベルは黙った。言われなくても分かっている。村でさえ軍は食料の無駄だとしてお供えを止めた。その軍へ、今度はルーエンにも新しく作れと言っている。ヴァイゲルトは椅子から立った。窓の外へ一度目を向けてから、アベルへ背を向けたまま言った。

「私は、お前の話を信じたわけではない」

「はい」

「参謀部で人が死んだ。扉の外には衛兵がいた。窓も閉じていた。誰も入っていない。似た死者がほかにもいる。だから、今までなら聞く価値もないと思った話を聞いているだけだ」

「それで十分です」

ヴァイゲルトが振り返った。

「十分?」

「話を聞いてもらえたので」

「まだ何も決めていない」

「分かっています」

ヴァイゲルトはアベルをしばらく見た。

「仮に、お前の言う通りにするとしよう」

アベルは思わず背筋を伸ばした。

「村のお供えを戻す。ルーエンにも場所を作る。軍の食料を使う。兵士にも配給の扱いを変えろと命じる。そこまでして何も変わらなかったらどうする」

アベルは答えられなかった。

ヴァイゲルトは淡々と続けた。

「お前のくだらん怪談で軍を動かしたことになる。食料を無駄にし、軍内部へ不安を広げた。戦時下だ。お前一人を処刑して済むなら安いくらいだと思っておけ」


 喉が鳴った。冗談ではない。この男なら、本当にそうするのだろう。アベルは膝の上で手を握った。指が震えているのが自分でも分かった。それでも、ここで引けば何も変わらない。

「……分かりました」

ヴァイゲルトは眉を上げた。

「分かったとは」

「今も、どこかで人が死んでいるんです」

 声が震えた。アベルは一度息を吸った。

「俺が間違っていて処刑されたところで、死体が一つ増えるだけです。今と大して変わりません」

 部屋が静かになった。言ってから、自分でも随分なことを口にしたと思った。死にたいわけではない。処刑などされたくない。できるなら今すぐ帰りたい。それでも、母はもう死んでいる。村でも、ルーエンでも人が死んでいる。

 

 ヴァイゲルトはしばらく何も言わなかった。やがて机へ戻ると、呼び鈴を鳴らした。入ってきた兵士へ短く命じる。

「ケストナーを呼べ」

兵士が出ていった後、アベルは尋ねた。

「ケストナー?」

「兵站少佐だ。食料を動かすなら、あいつを通さずには何もできん」

 しばらくして、扉が開いた。入ってきた男は四十代ほどで、軍服に乱れはなく、脇に何枚かの書類を抱えていた。

「お呼びでしょうか、将軍」

ロルフ・ケストナー兵站少佐はそう言ってから、部屋にいるアベルへ目を向けた。

「そいつは?」

「例の時計技師だ」

ケストナーの顔に、あからさまな納得が浮かんだ。

「ああ。幽霊の話で軍を嗅ぎ回っていたという」

アベルは反論しかけたが、ヴァイゲルトが先に口を開いた。

「話を聞け」

ケストナーは将軍を見た。

「まさか、本気で?」

「聞けと言った」


 仕方なく、ケストナーはアベルの向かいへ立った。アベルはもう一度、必要な部分だけを説明した。村のお供え。百年前の怪異。ルーエンで起きている同じ現象。そして、食事の扱いに関する現在の規則性。最後まで聞く前から、ケストナーは何度も鼻で笑っていた。

「つまり、百年前の死人が村やルーエンの食事を見張っている?」

「そういう言い方をすると変ですけど」

「変なのは言い方じゃない。お前の頭だ」 ケストナーはヴァイゲルトへ向き直った。

「将軍、不可解な死者が出ていることは事実です。ですが、それとこんな村の迷信を結びつける理由はありません」

「理由ならこいつが並べた」

「偶然を並べれば、何でもそれらしく見えます」

アベルは口を挟んだ。

「でも、村のお供えが止まってから実際に被害が増えています」

「戦争が激しくなってから人が増えた。配給も増えた。事故も揉め事も増えた。当然だろう」

「首を折られて、誰も入っていない部屋で死ぬのも?」

ケストナーはアベルを見た。

「だから、それは軍が調べる。幽霊に飯を食わせる理由にはならん」

 机の端には、先ほど兵士が置いていった茶があった。アベルの前に一つ。ヴァイゲルトの前に一つ。ケストナーはそのうち、アベルの前に置かれていたカップへ視線を落とした。

「人に出された食事へ手を出すと死ぬんだったな」

「食事だけかは分かりません。俺もまだ――」

「これもお前に出されたものだろう」

ケストナーはアベルのカップを取った。

「少佐」

アベルは立ち上がった。

「やめてください」

「なぜだ」

「試す必要なんてないでしょう」

「試さなければ分からんと言っていたのはお前たちじゃないのか」

ケストナーは笑った。

ヴァイゲルトは止めなかった。

「将軍まで」

「私は何も命じていない」

 その間に、ケストナーは窓際へ歩いた。アベルは回り込もうとしたが間に合わなかった。ケストナーはカップを傾け、中の茶を床へ捨てた。

「これで、お前の言う『出されたものを俺が勝手に取り上げた』ことになるな」

空になったカップを机へ戻す。

「さて。どうなる?」

アベルは何も答えなかった。ケストナーは肩をすくめた。

「何も起きない」

 

その時、部屋の扉が叩かれた。

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