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ヴァルデン地方の正しい食卓  作者: 巴


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第十二章 百年越しの説得

 その時、部屋の扉が叩かれた。一度。少し間を置いて、もう一度。

 

 ケストナーの顔から笑いが消えた。アベルは立ったまま扉を見た。廊下には衛兵がいる。将軍の執務室の前から持ち場を離れるはずがない。ヴァイゲルトが扉へ向かって声を上げた。

「誰だ」

 返事はなかった。もう一度、扉が叩かれた。

「衛兵」

 ヴァイゲルトの声にも反応はない。ケストナーが鼻で息を吐いた。

「誰かが聞いていたんでしょう。くだらん」

「少佐、開けないでください」

「なぜだ。幽霊がいるからか」

ケストナーは扉へ歩いた。

「待ってください」

アベルが追いかけようとした時、ケストナーの手が取っ手へかかった。

「母を食べたか」

 男の声だった。近い。扉の向こうから聞こえたようにも、部屋の中で聞こえたようにも思えた。ケストナーの手が止まった。ヴァイゲルトは腰の銃へ手を伸ばした。アベルの背中を冷たいものが走った。知っている。村で聞いたものと同じだった。

「扉から離れてください」

 アベルが言った。ケストナーは振り返った。

「今のが?」

「はい」

「誰かいるだけだろう」

「いません」

「見てもいないのに分かるのか」

「そういうものなんです」


 アベルはそう答えながら部屋を見回した。窓は閉じている。机。椅子。書棚。壁際の地図。誰もいない。そのはずだった。

 部屋の隅に、男が立っていた。アベルは息を止めた。いつからいたのか分からない。そこには先ほどまで何もなかった。痩せた男だった。服は古く、肩から腕にかけて擦り切れている。頬は落ち、髪も乱れていた。百年前の人間だと説明されなくても、今を生きている者には見えなかった。

「そこです!」

 アベルが指した。ヴァイゲルトとケストナーが同時に振り返る。二人にも見えていた。ケストナーは一歩後ろへ下がり、腰の剣へ手をかけた。ヴァイゲルトは銃を抜いたまま男へ向ける。

「誰だ」

当然、返事はなかった。

「衛兵!」

 ヴァイゲルトが外へ叫んだ。誰も入ってこない。

「聞こえていないのか」

 再び呼んでも返答はなかった。扉一枚の向こうに人がいるはずなのに、何の気配もない。アベルは扉へ近づこうとしたが、ヴァイゲルトが片手で制した。

「動くな」

「でも」

「今はあれから目を離すな」

 アベルも男へ視線を戻した。男は動いていなかった。ただ三人を見ている。ケストナーも剣を抜いた。

「さっきの声はお前か」

男は答えない。

「百年前から食事を見張っている神様とやらか?」

「煽らないでください」

「黙ってろ」

 ケストナーがそう言った直後だった。肩が小さく跳ねた。

「触るな!」

 怒鳴ってから、ケストナーは自分の右肩を振り払うように腕を動かした。アベルは一瞬、何をしているのか分からなかった。アベルとヴァイゲルトが同時にケストナーの背後へ視線を向けた。ケストナーのすぐ後ろに、男が立っていた。

「少佐、動かないで」

アベルの声が低くなった。

「何だ」

「後ろにいます」


 ケストナーの顔から血の気が引いた。そのまま身体を強張らせ、振り返ることもできずに立ち尽くした。

 アベルは男を見た。母を失った男。百年前、大勢を殺した男。そして死んだ後も、母を探して村人の扉を叩き続けた男。ヘンリクの記録を読んだ時から、ずっと考えていたことがあった。この男に、人間だった頃の意識は残っているのか。今の怪異は百年の祈りによって変わったのではないかと考えていた。それでも、すべてが失われたとは限らない。アベルは口を開いた。


「お母さんを亡くしたんですよね」

男の目がアベルへ向いたように見えた。

ケストナーがわずかに眉を寄せる。

「何をしてる」

「話します」

「何を」

「分かりません。でも、やってみます」

アベルは男から目を離さなかった。

「村の人たちは、お母さんの食事を減らした。あなたは反対した。自分の分を渡そうとした。それも止められた」

男は動かない。

「腹が立ったと思います。自分の母親なのに、食べさせるなと言われた。自分は食べろ、働けと言われた。納得できなかったでしょう」

ヴァイゲルトもケストナーも何も言わなかった。

「あなたが食料を探しに行っている間に、お母さんは死んだ。戻った時には、遺体もなかった。それで、村の人たちを信じられなくなった」

 男の唇が、わずかに動いた。アベルは続けた。

「でも、村の人たちはお母さんを食べていません」

男の目が動いた。

「病気と飢えで亡くなったんです。火葬したのも、粗末に扱ったからじゃない。ほかの死者と一緒に弔った。あなたが死んだ後も、村の人たちは自分たちがしたことを後悔した」

 男の口元が震えた。アベルは一歩も動かずに話した。

「だから、あなたとお母さんへ食事を供えた。百年近く、毎日です。あなたが生きている時に渡せなかった分まで、ずっと」

 男は黙っていた。アベルの話を聞いているように見えた。少なくとも、祈り所でただ祈りを受けているだけの存在ではない。アベルはそう思った。まだ何か残っている。母を失った人間だった頃の何かが。

「もう、誰かを殺さなくてもいいんです」

 男がゆっくりとアベルの方を向いた。反応した。アベルは息を詰めた。これまでとは違う。ただ立っているだけではない。自分の言葉を聞いて、こちらを見た。

「村の人たちは、あなたのお母さんを食べていません。あなたを騙したわけでもない。みんな、生きるために必死だったんです」

 男は動かなかった。それでも、視線はアベルへ向いたままだった。

「あなたが怒ったことまで間違いだとは言いません。お母さんに食べさせたかった。それを止められた。戻った時には亡くなっていて、遺体までなかった。信じられなくなったのも分かります」

 アベルは一歩だけ前へ出た。ヴァイゲルトが何か言いかけたが、止めなかった。

「でも、もう百年です。村の人たちはあなたとお母さんへ食事を供え続けた。あなたたちを忘れなかった。だから、もう終わりにしてもいいんじゃないですか」

 男はアベルを見ていた。いけるかもしれない。まだ人間だった頃の意識が残っているのなら、言葉が届くかもしれない。アベルはもう一歩進めた。

「誰かを殺さなくても、お母さんのことを忘れさせない方法はあります。だから――」

 男が口を開いた。

 

「みんなが平等にご飯を食べられますように」

 アベルは言葉を止めた。男の声だった。だが、それだけではなかった。同じ言葉の奥に、別の声が重なっている。子供の声。女性の声。老人の声。男性の声。いくつもの声が、同じ言葉を何度も繰り返している。

「みんなが平等にご飯を食べられますように」

 村人たちが祈り所へ向けてきた願いだった。男の目はアベルを見ているのに、アベルへ答えているようには見えなかった。

「誰かのご飯を奪ってはいけません」

 また声が重なる。アベルは息を呑んだ。百年もの間、毎日、同じ場所で、人々はこの男へ同じ願いを向け続けてきた。男が神になったのではない。男は、自分が神であるかのように振る舞っていた。百年間そう扱われ、祈られ続けたことで、本当にその祈りを自分の使命として受け入れてしまったように見えた。アベルが立てた仮説が、目の前で形になっていた。

「そういうことか……」

 アベルが呟いた。ヴァイゲルトがアベルを見る。

「何がだ」

「この人の言葉じゃない」

男はまた口を開く。

「みんなで仲良く食卓を囲めますように」

声の奥で、無数の人間が同じ言葉を唱えている。

「これは、村の人たちが祈ってきた言葉です」

 アベルは男を見た。百年前の男は、こんなことを一度も言っていない。自分の食事を母親へ渡そうとした。公平な食卓など説かなかった。それなのに今は、村人たちが後から作った教えを口にしている。

 説得できる相手だと思ったが、それは間違いだった。アベルがそう理解した瞬間、鈍い音がした。ケストナーの身体が傾いた。一瞬、何が起きたのか分からなかった。顔が横を向いている。身体は正面を向いたままだった。ケストナーはそのまま床へ崩れ落ちた。

「少佐!」

 ヴァイゲルトが駆け寄る。アベルも動きかけたが、男を見て止まった。ケストナーの首は、不自然な方向へ折れていた。男は何もしていないように見える。ただそこに立っている。

「死んでいる」

 ヴァイゲルトが低く言った。アベルは返事をしなかった。ケストナーが目の前で死んだ。自分が言った通りのことが起きた。それでも、何も解決していない。ここで終われば、分かったのは怪異が実在することだけだった。

 男がなぜこうなったのか。なぜ「母を食べたか」と言い続けるのか。百年経ってなお残っているものは何なのか。アベルは男から目を離さなかった。

「お前は、本当にそれでいいのか」

男は答えない。

「お母さんに食べさせたかったんだろ」

反応はない。

「自分の食事を渡したかった。それを止められたから怒ったんだろ。それなのに今は、自分の食事を誰かに渡した人まで殺してる」

男の顔に変化はなかった。

「それがお前の望んだことなのか」

「誰かのご飯を奪ってはいけません」

 返ってきたのは、また同じ祈りの言葉だった。違う。このままでは何も出てこない。アベルは考えた。男が生前、何に最も強く反応したのか。村でも食事でもない。母親だった。それ以外のことは、最後にはどうでもよくなっていた。アベルは息を吸った。

 

「今のお前を見て、お母さんはどう思う!」

 男の声が止まった。男は初めて、自分の意志でアベルを見た。それまで祈りの言葉を繰り返していた時とは違う。今、アベルを見ているのは男自身だった。アベルの背中に冷たい汗が流れた。男の唇が動く。

「母を食べたか?」

 その声には、先ほどまで重なっていた大勢の声がなかった。一人の男の声だった。アベルは答えなかった。男は少しだけ首を傾け、そして言った。

「母が、そう言ったのだ」

 アベルは目を見開いた。次の瞬間、男が目の前にいた。身体へ強い衝撃を受け、アベルは床へ倒れた。背中を打ち、息が詰まる。男がその上へ馬乗りになる。

「アベル!」

 ヴァイゲルトの声が聞こえた。男の両手がアベルの首へかかった。冷たい手ではなかった。人間の手と同じだった。指が喉へ食い込み、息ができなくなる。アベルは両手で男の腕を掴んだ。動かない。怪異が首を捻る時のような、何が起きたのかすら分からない死ではない。力で押さえつけている。絞め殺そうとしている。百年前、生きていた男が村人へしたのと同じように。アベルは男の手首を引き剥がそうとした。

 視界の端でヴァイゲルトが銃を構えた。男はアベルから目を離さない。

「母を食べたか」


 喉を締めつけられたアベルは、答えることもできなかった。

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