第十三章 誰が神なのか
「母を食べたか」
喉を締めつけられたアベルは、答えることもできなかった。男の指がさらに食い込む。息を吸おうとしても空気が入らず、視界が暗くなり始めた。両手で男の腕を掴んでいるが、びくともしない。その時。乾いた銃声が響いた。
男の身体がわずかに揺れた。ヴァイゲルトが撃ったのだと分かったのは、男の胸を抜けた弾丸がそのまま背後の壁へ当たったからだった。血は出ない。傷もない。男はアベルの上にいた。ヴァイゲルトはもう一度銃口を向けた。
「離れろ」
男は反応しない。
「聞こえているだろう」
二発目を撃とうとした、その瞬間だった。男の姿が消えた。アベルの首を締めていた手もなくなり、身体の上から重みが消える。アベルは咳き込みながら横を向いた。喉が焼けるように痛み、空気を吸うたびに咳が出た。同時に、廊下の向こうが急に騒がしくなった。
「将軍!」
扉が開き、何人もの兵士がなだれ込んでくる。
「何がありました!」
「銃声が――」
兵士たちは室内を見回し、すぐに床へ倒れているケストナーに気づいた。一人が駆け寄り、別の兵士がアベルを見た。ケストナーは首を折られて死んでいる。アベルは床に倒れ、首には指の痕が残っている。ヴァイゲルトは銃を持ったままだ。事情を知らない者から見れば、何が起きたのか分からない光景だった。
「そいつを押さえろ」
兵士の一人がアベルへ向かった。
「待て」
ヴァイゲルトが止めた。
「ですが」
「アベルに責任はない」
「少佐が死んでいます」
「見れば分かる」
ヴァイゲルトは銃を下ろした。
「昨今発生している不可解な死亡事故が、この部屋でも発生した。私自身が目撃した」
兵士たちは黙った。
「外から誰か入ったか」
「いえ」
「扉を叩いた者は」
兵士は困惑した顔をした。
「誰も叩いていません」
「呼ぶ声は聞こえたか」
「何も。銃声がするまで、こちらでは異常はありませんでした」
ヴァイゲルトは一度だけアベルを見た。
「少佐を運べ。アベルには医者を」
「拘束は」
「必要ない」
兵士がなおも迷っていると、ヴァイゲルトの声が低くなった。
「私の命令だ」
それで誰も反論しなくなった。アベルは兵士の肩を借りながら立ち上がった。喉が痛み、まともに声が出ない。運び出される直前、床に横たわるケストナーが目に入った。自分の仮説を試すために茶を取り上げた。そして死んだ。アベル自身も、間違っていれば処刑されても構わないと言った。命を賭けて試した結果が、これだった。
数日後、アベルは再びヴァイゲルトに呼ばれた。首にはまだ薄い痣が残っていたが、声は戻っていた。今度は拘束されているわけではない。衛兵に案内されて将軍の部屋へ入ると、ケストナーが死んだ時に倒れた椅子も、床へこぼれた茶もすでに片づけられていた。壁には弾痕だけが残っていた。ヴァイゲルトは机の向こうで書類を読んでいた。
「座れ」
アベルは椅子へ腰を下ろした。
「少佐のことは」
「軍の中では私が処理した」
「どう説明したんですか」
「説明できることだけ説明した。外部から侵入した者はいない。私の目の前で、これまでと同じ不可解な死が起きた。それだけだ」
「怪異のことは?」
「見てもいない人間へ話したところで、余計な混乱を招くだけだ」
ヴァイゲルトは書類を閉じた。
「村のお供えを再開させる」
アベルは顔を上げた。
「本当ですか」
「すでに村にいる部隊へ、祈り所への毎日のお供えを認めるよう命令した」
「二人分を?」
「お前がそう言っただろう」
「はい」
「ルーエンにも同じ場所を作る」
アベルはしばらく何も言えなかった。
「……信じるんですか」
「見たものまで否定する趣味はない」
ヴァイゲルトは淡々と言った。
「それで正しいのかは、まだ分からん。だが、百年間お供えが続いていた間は村で大きな被害が出ず、それを止めてから死者が増えた。ルーエンにも同じものが現れているなら、試す価値はある」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。少佐が死んだ」
アベルは口を閉じた。
「それに、これで終わりではない。お供えは対策であって解決ではないんだろう」
「はい」
「なら、原因を探すのは続けろ」
ヴァイゲルトは別の書類をアベルの前へ置いた。
「当面、軍の配給についても、一度渡した食事を不用意に取り上げたり、別の者へ回したりしないよう通達を出す。ただし戦時中だ。完全に守れるとは思うな」
「分かっています」
「食料が足りなくなれば、どうしても配り直す必要は出る。怪異の都合に合わせて軍を飢えさせるわけにもいかん」
「それでも、知っているだけで避けられることはあると思います」
「そうだな」
ヴァイゲルトはそこで話を終えず、しばらくアベルを見ていた。
「一つ聞きたい」
「何ですか」
「あの男は、いつから神になった」
アベルは少し考えた。
「いつから、というのは分かりません」
「最初から神ではなかったんだろう」
「はい。最初は、人を殺す怪異として恐れられていただけです」
「それが百年で、食卓を守る神になった」
「少しずつです。事件を直接知る人がいなくなって、話が変わっていった。大勢を殺した男だという部分が薄れて、食べ物を巡って争いがあったことだけが残った。そのうち、男が公平な食事の大切さを教えたように語られるようになったんです」
「本人はそんなことを言っていない」
「一度も」
ヴァイゲルトは椅子へ背を預けた。
「だが、あの部屋では言っていた」
「はい」
「『みんなが平等にご飯を食べられますように』」
「村の人たちが後から祈るようになった言葉です」
「お前は、それを百年祈りを聞かされ続けたせいだと考えている」
「そうだと思います」
ヴァイゲルトはしばらく黙っていた。やがて、唐突に言った。
「私は、生まれた時から将軍だったわけではない」
「……はい」
何の話が始まったのか分からず、アベルはヴァイゲルトを見た。
「若い頃は、一人の兵士だった。命令されれば動けばよかった。自分が何をしたいかより、言われた仕事をこなす方が先だった」
「はい」
「それが部下を持つようになった。判断を求められるようになった。何人をどこへ送るか決めれば、その判断で人が死ぬようになった」
ヴァイゲルトは机の上で指を組んだ。
「将軍になってからは、もっと増えた。兵士は私を見ると、私が答えを持っていると思う。実際には分からないことでも、将軍なら決めなければならん」
アベルは黙って聞いた。
「最初は、そのたびに自分ならどうするか考えていた。それがいつからか、将軍ならどうするべきかを考えるようになった」
ヴァイゲルトはわずかに笑った。
「今では、個人として嫌なことでも、将軍として必要ならやる。自分がそうしたいかどうかは、後回しだ」
アベルはようやく、話の向かう先が少し見えた。
「役割に合わせるようになった、ということですか」
「そういうことだ」
「周囲から何年も同じものとして扱われれば、人間でもその役割を自分のものとして受け入れる。まして、あの男はもう人間ではない。百年も同じ役割を与えられ続ければ、何かが変わっても不思議ではない」
「公平な食卓を守る神として扱われ続けたから、本当にそれを自分の役目だと思うようになった」
「お前が見たものは、そういうことじゃないのか」
アベルは、あの時男が口にした祈りを思い出した。百年間、毎日、同じ場所で、この男へ向けられてきた願い。男はそれを、自分の使命として受け入れてしまったように見えた。
「たぶん、そうです」
「なら、お供えを再開することにも少し懸念がある」
アベルは顔を上げた。
「懸念?」
「さらに神として扱うことになる」
「……あ」
考えていなかった。怪異を鎮めるためには、お供えが必要だ。しかし、お供えを続け、祈り所を増やすことは、同時に怪異へ祈りを向ける人間を増やすことでもある。ヴァイゲルトはアベルの表情を見て言った。
「今は死者を止める方が先だ。だからやる。だが、それで何が起きるかは考え続けろ」
「はい」
アベルが考え込んでいると、ヴァイゲルトが言った。
「もう一つある」
「何ですか」
「少佐が殺された時のことだ」
ヴァイゲルトの声音が変わった。アベルは顔を上げた。
「男のことですか」
「違う」
ヴァイゲルトは少し間を置いた。
「あの部屋には、もう一人いた」
アベルはすぐには意味を理解できなかった。
「もう一人?」
「お前には見えていなかったのか」
「男しかいませんでした」
「そうか」
ヴァイゲルトは確かめるようにアベルを見た。
「私は見た」
「誰をですか」
「女だ」
「女?」
「年寄りだった。かなり高齢に見えたな」
アベルの背中に、あの時とは別の寒気が走った。ヴァイゲルトは記憶を辿るように話した。
「最初からいたのかは分からん。男を見た時には、私はあいつしか見ていなかった。ただ、少佐が死ぬ少し前から、男の近くに女が立っていた」
「どこに」
「すぐそばだ」
「何をしていたんですか」
ヴァイゲルトは答えるまでに少し間を置いた。
「ずっと、男へ何か囁いていた」
アベルは動かなかった。頭の中で、男の声が蘇る。
『母を食べたか?』そして、その後に続いた言葉。『母が、そう言ったのだ』アベルはゆっくり息を吐いた。
「……その女は、男に何を言っていたんですか」
「聞き取れなかった。口元は動いていたが、声は聞こえなかった」
「男は、その女を見ていましたか」
「分からん。ただ、離れてはいなかった」
アベルは机の上へ目を落とした。百年前、村人たちは男だけに食事を供えたのではない。男と、その母親へ供えた。最初から二人分だった。そのまま百年間、一度も変わっていない。村人たちは、男と母を一緒に祀ってきた。
「アベル」
ヴァイゲルトに呼ばれ、アベルは顔を上げた。
「母親だと思うか?」
「まだ、分かりません」
そう答えながらも、一つだけ前提が崩れ始めていた。怪異として残ったのは、本当に男一人だったのか。男を動かしていたのは、本当に男自身の意思だけだったのか。アベルは、もう一度あの言葉を思い出した。
『母が、そう言ったのだ』




