第十四章 親子の会話
女は、昔からこの村が嫌いだった。
家の窓から見えるのは、畑と森と、どこへ行っても似たような石造りの家ばかりだった。春になれば土の匂いがして、夏には虫が飛び、冬になれば雪で道が塞がる。若い頃に夫と結婚してこの村へ来てから、何十年経っても好きになれなかった。
「また豆かい」
夕食の皿を見た女は、露骨に顔をしかめた。
「昼も豆だったじゃないか」
夫は黙って自分の皿を食べている。
「少しくらい肉を買ってきたらどうなんだい。隣の家はこの前、鶏を潰したっていうじゃないか」
「うちはまだ潰す必要がない」
「そうやって何でも先延ばしにする。昔からそうだよ、お前は」
夫は何も返さなかった。
「私がこんなものを食べて喜ぶ女に見えるのかい。もっとまともな家へ嫁いでいたら、こんな食卓じゃなかっただろうね」
向かいに座っていた幼い息子が、母親と父親を交互に見た。女はその顔を見ると、すぐに声を柔らかくした。
「お前は食べなさい。育ち盛りなんだから」
「母さんは?」
「私はいいよ。こんなもの、食べたって仕方がないもの」
「じゃあ、僕のをあげる」
「まあ」
女は嬉しそうに笑った。
「優しいねえ。誰に似たんだろう」
夫が顔を上げたが、何も言わなかった。女は息子から差し出された豆を本当に取ることはせず、頭を撫でた。
「お前だけだよ。母さんのことを考えてくれるのは」
息子は嬉しそうに笑った。
それからも、女はよく息子へ話をした。洗濯場で会った女が挨拶をしなかった。教会で隣に座った女が、自分の服を見て笑った気がする。近所の男が、夫より稼ぎがいいことをわざと聞こえるように話していた。市場で買った野菜が悪かったのは、よそ者だから粗末なものを押しつけられたに違いない。
「みんな、私のことが嫌いなんだよ」
ある日、女は寝台に横になりながら言った。
「そんなことないよ」
息子は椅子を寝台のそばまで運んできた。
「お前はまだ子供だから分からないんだよ。あの人たちは表では笑っていても、腹の中じゃ何を考えてるか知れたもんじゃない」
「誰が母さんに意地悪したの?」
「みんなだよ」
女はため息をついた。
「私がこの村の女たちとは違うから気に入らないんだろうね。昔からそうだった。私が少し綺麗な服を着れば嫌味を言うし、町の話をすれば気取ってると言う。自分たちが一生この村から出られないから、外の話をする人間が嫌なんだよ」
息子は黙って聞いていた。
「本当ならね、母さんはこんなところで一生を終えるような女じゃなかったんだよ。もっと大きな町へ行って、綺麗な服を着て、いろんな人に会って。そういう人生だってあったはずなんだ」
女は窓の外を見た。
見えるのは、いつもの村だった。
「父さんと結婚したから?」
息子が聞いた。
女はすぐには答えなかった。
「父さんが悪い人だとは言ってないよ」
そう言いながら、女は笑った。
「ただ、あの人は私を理解できてなかったのさ。母さんが何をしたかったのか、何を嫌がっていたのか、何一つ分からなかった。ここへ連れてきて、家があって飯が食えればそれで幸せだろうって顔をしていた」
息子は父親がいる方の部屋を見た。
「母さん、幸せじゃないの?」
「お前がいるから幸せだよ」
女はすぐに息子の手を握った。
「お前だけは違う。お前だけは母さんのことを分かってくれるもの」
それは、息子にとって褒め言葉だった。女が誰かに腹を立てるたび、息子は理由を聞いた。誰が母親を傷つけたのか、何を言われたのか、何をされたのか。女が詳しく話せば話すほど、息子も一緒になって怒った。
隣家の女が野菜を分けてくれなかった。
「あの家だって余ってるくせにね」
教会で席を詰めてもらえなかった。
「私が座るのが嫌だったんだよ」
夫が医者を呼ぶほどではないと言った。
「私が死んでも構わないんだろうね」
そのたびに息子は否定した。
「僕がいるよ」
「そうだね」
女は満足そうに笑った。
「お前がいるものね」
一度だけ、成長した息子が母親へ言い返したことがあった。村の女が女の悪口を言っていたという話を聞かされている途中だった。
「でも、その人、昨日は母さんにパンを持ってきてくれたよ」
女の顔から笑みが消えた。
「だから何だい」
「意地悪なら、持ってこないんじゃないかな」
「お前まであの女の肩を持つのかい」
「そうじゃないよ」
「じゃあ何だい。私が嘘をついてるって言いたいのかい」
「違う」
「母さんがどんな目に遭ってきたか、お前はずっと見てきただろう。それなのに、あの人たちの方を信じるんだね」
「母さん」
「いいよ。お前まで私を嫌いになったなら、もう何も話さないから」
息子は慌てて首を振った。
「嫌いじゃない」
「じゃあ信じてくれる?」
「信じるよ」
「本当に?」
「うん」
女はしばらく黙った後、ようやく息子の手へ自分の手を重ねた。
「よかった。お前までいなくなったら、母さんには本当に誰もいなくなるところだったよ」
息子はその手を強く握った。それ以降、母親の話へ疑問を挟むことはほとんどなくなった。
夫が死んだ後、母と息子は二人だけで暮らすようになった。女は以前より息子へ頼るようになった。身体が弱ったこともあったが、それだけではない。薪を取ってくるのも、屋根を直すのも、買い物へ行くのも息子だった。女は息子が少し長く家を空けただけでも不機嫌になった。
「どこへ行ってたんだい」
「村長の家の屋根を直してた」
「そんなの、他の男にやらせればいいじゃないか」
「頼まれたから」
「みんな、お前が断らないのを知ってるんだよ。便利に使われてるだけさ」
「でも、代わりに小麦をもらったよ」
「小麦なんて少しじゃないか。お前の一日を安く買ったんだよ」
息子は何も言わなかった。
「母さんは、お前のためを思って言ってるんだよ。あの人たちはお前が倒れたって責任なんか取らない。最後に残るのは家族だけなんだから」
家族といっても、もう二人しかいない。女はそれを何度も息子へ言い聞かせた。
「私はお前だけいればいいよ」
「うん」
「お前もそうだろう?」
息子は少しだけ間を置いてから頷いた。
「うん」
「そうだよね」
女は満足そうに笑った。
「お前となら、何だってできそうな気がするよ」
その言葉を、女は何度も口にした。息子が子供の頃にも。青年になってからも。夫が死んで二人きりになった後も。
その頃には息子も、母親が悪く言う相手を、自分たち二人の敵ではないと考えることが難しくなっていた。母が嫌う者には理由があると思った。母が悪く言う相手には、それだけのことをしたのだと思った。
やがて、不作が始まった。初めの年は、少し収穫が悪いだけだった。翌年はさらに悪くなった。その次の年には雪が早く降った。村人たちが食料を数え、減らし、分けるようになるまでに、それほど時間はかからなかった。
女の身体は以前から弱っていた。若い者と同じだけ働くことはできない。畑へ出る日も減り、冬になると寝台から起きない日が増えた。だから、配給を減らされた。
「見ただろう」
女は自分の皿を見ながら息子へ言った。
「やっぱり、こうなるんだよ」
薄い粥の量は、息子のものより少なかった。
「年寄りだからだってさ。働けない人間には少なくていいんだと」
息子の顔が強張った。
「俺のを食べて」
「ほらね」
女は息子の皿を見た。
「母さんがずっと言ってた通りだろう。あの人たちは、私が邪魔なんだよ」
「そんなことさせない」
「お前だけだよ」
女は息子の腕へ縋った。
「お前だけが私を守ってくれる」
息子は村人に食ってかかった。母親の配給を戻せと要求した。拒まれると、自分の分を母親へ渡そうとした。それも止められた。「今のお前に倒れられたら困る」と村人に言われて帰ってきた息子は、家の扉を乱暴に閉めた。
「俺のものなのに」
女は寝台から身体を起こした。
「何があったんだい」
「俺の飯を母さんに渡すなって」
女はしばらく息子を見た後、小さく笑った。
「ひどいねえ」
「俺が働かないと困るからって」
「なるほど」
女は枕へ身体を預けた。
「私は食べなくていい。でも、お前は食べて働けってことかい」
息子は何も言わなかった。
「よく分かったよ。あの人たちにとって私は人間じゃないんだね。お前を働かせるために、死ぬまで邪魔にならないよう寝ていろってことだ」
「違う」
「何が違うんだい」
「俺が何とかする」
「どうやって?」
「食べ物を探してくる」
女は息子を見た。
「村の外へ?」
「まだどこかにあるかもしれない」
「雪が降ってるよ」
「ここにいたって、母さんの飯は増えない」
息子は準備を始めた。女は止めなかった。危険だとも言わなかった。ただ、出発する息子の頬へ手を当てた。
「お前なら見つけられるよ」
「絶対戻ってくる」
「母さんは待ってるからね」
「うん」
「私を一人にしないでおくれ」
息子が出ていった後、女は何度も扉を見た。三日たっても、息子は戻らなかった。その間、配給は届いた。村人も様子を見に来た。薪を足してくれる者も、水を汲んでくれる女もいた。女は礼を言うこともあれば、黙って受け取ることもあった。自分から話しかけることはほとんどなく、何か聞かれても短く答えるだけだった。村人たちも、もともと愛想のない女だと思っていた。扉が閉まり、足音が遠ざかってから、女は小さく呟いた。
「息子がいない時だけ、よくやるよ」
水の入った桶を見て、鼻で笑う。
「私が死んだら、あの子に何て言うつもりなんだろうね。ちゃんと面倒を見ていましたとでも言うのかい」
誰もいなくなった家の中で、女は一人でそう言い続けた。
「あの子がいないからって、好きにできると思ってるんだ」
何日かすると、起き上がることも難しくなった。息をするだけで胸が痛んだ。食事は運ばれてきた。だが、身体が受けつけなくなっていた。女は最後まで、息子が帰ってくると思っていた。自分を置いていくはずがない。あの子だけは違う。あの子だけは自分を見捨てない。女は息子の名前を何度も呼びながら、誰もいない家で息を引き取った。
死んだ後も、女はそこにいた。自分の身体が寝台に横たわっているのが見えた。村人が入ってきた。女の口元へ手を当て、胸へ耳を寄せた。死んでいると確認すると、布で身体を包んだ。
『触るんじゃないよ』
女が怒鳴っても、誰も振り返らなかった。身体は家から運び出された。女も後を追った。村の端には、同じように布で包まれた死者が並んでいた。
『こんなところへ置く気かい』
誰も答えない。
数日後、死者たちはまとめて火葬された。自分の身体も、その中にあった。火が上がる。女はそれを見ていた。
『随分なことをしてくれるね』
生きていた頃から、自分が軽く扱われていると思っていた。死んでも同じだった。息子がいない間に食事を減らされ、死んだら身体まで勝手に焼かれた。やはり自分は正しかった。この村の人間は、自分を嫌っていた。息子だけが知らなかった。だから、教えなければならない。
一週間ほどして、息子が戻った。痩せていた。頬は落ち、唇は切れ、足を引きずっていた。食料はほとんど持っていなかった。女は息子を見つけると、そのそばへ行った。息子は村人から母親の死を聞かされた。
「病気と衰弱だ。できることはした」
村人はそう説明した。
『嘘だよ』
女はさらにその耳元へ顔を寄せた。
『嘘だよ』
息子が顔を上げた。村人は話を続けている。
「食事も運んでいた。薪も水も届けて――」
『見殺しにされたんだよ』
女は囁いた。息子の目が動いた。
「母さん?」
村人が怪訝そうに息子を見た。
「どうした」
息子は周囲を見回した。女の姿を探している。見えている。女には分かった。
『あの人たちが私を殺したんだよ』
息子の呼吸が乱れた。
「母さん、どこにいる」
「おい、大丈夫か」
「触るな!」
息子が村人の手を払いのけた。女は笑った。やはり、この子だけは違う。
『私は見殺しにされた』
女は言った。
『お前がいなくなった途端、食べ物を減らされた。誰も助けてくれなかった』
本当は、村人は食事を運んでいた。水も薪も運んだ。だが、女にとってはどうでもよかった。息子がいなかった。それだけで、自分は見捨てられたのだ。
「食わせなかったんだろう」
違うと言われても聞かなかった。
「俺がいない間に、食わせなかったんだろう」
それでも男は納得しなかった。
「母はどこだ」
村人が答えた。
「ほかの者と一緒に火葬した」
息子の顔から表情が消え、そしてしばらく呆然としていた。女は息子の耳元で囁いた。
『食べようとしたんだよ』
息子の目が見開かれた。
「母さん?」
『私を食べようとしたんだ』
女はさらに囁いた。生前からそうだった。自分が傷ついたなら、誰かが傷つけた。自分が不幸なら、誰かが奪った。自分が嫌な思いをしたなら、必ず悪い人間がいる。女の中では、それが真実だった。
『村の人間は悪い奴らばかりだ』
息子の顔が歪んだ。女はさらに言った。
『お前がいない間に、みんなで焼いて食べようとしたんだよ』
その時、どこかの家から夕食の匂いがした。息子がそちらを見た。窓の向こうでは、村人が食卓を囲んでいる。母親はいない。身体もない。だが、村人たちは食べている。
「母を食べたか」
息子が尋ねた。
村人たちは意味を理解できなかった。
「何を言ってる」
「母を食べたか」
女は息子のそばに立っていた。
『聞いておいで』
息子は村を歩いた。
「母を食べたか」
否定されても、次の家へ行った。
「母を食べたか」
女はずっとついていった。
『嘘だよ』
『その人も知ってる』
『みんな一緒なんだよ』
息子はやがて、人の腕へ噛みついた。止めようとした者を殴った。農具を掴んだ。血が流れた。悲鳴が上がった。教会の鐘が鳴った。それでも女は止めなかった。
『そうだよ』
『その人もだ』
『母さんを一人にした人たちだ』
息子は殺し続けた。女にとっては、全員が自分の嫌っていた村の人間だった。夜が明ける頃、息子も殺された。村人たちに囲まれ、何度も殴られ、刃物で傷つけられ、最後には雪の中へ倒れた。女は息子のそばにしゃがんだ。
『大丈夫だよ』
死んだ息子が目を開けた。
女は笑った。
『これで、ずっと一緒だね』
その夜、息子は村人の家の扉を叩いた。
『母を食べたか』
扉の向こうで人が怯えている。女は息子の後ろに立っていた。
『聞いてごらん』
息子はもう一度扉を叩いた。人が死んだ。翌日も。その次の日も。
やがて、村人たちは二人を火葬した場所へ食事を置いた。男のための皿と、その母親のための皿。母親の分まで用意されたのは、村人たちなりの善意だった。生前、息子が母親へ食事を渡すことを止めた。そのことを悔やみ、せめて死後は二人で同じものを食べられるようにと考えた。女は二つの皿を見て、息子へ言った。
『ほら。ようやくみんな分かったんだよ』
その夜、女は息子をどの家へも行かせなかった。村人たちは食料に余裕がなかったため、男と母親のために用意した食事は、そのまま数日置かれ、腐ったり乾ききったりして、もうお供えとは呼べない状態になるまで残された。それが片づけられ、新しい食事も置かれなかった夜、女はお供えが置かれていた場所に立った。
『もう忘れたのか』
息子が扉を叩きに行った。翌日には、また二人分の食事が置かれた。
それから村人たちは、なぜ人が殺されるのか、その理由を探し始めた。誰かの食事を取ったから。自分のものを別の人間へ渡したから。一度決めた配分を変えたから。そう考え、食卓の作法を決めていった。食事を奪ってはいけない。自分へ与えられたものを人へ渡してはいけない。最初から公平に分けなければならない。
やがて、お供えをする時には、その作法と結びついた願いまで二人へ向けられるようになった。誰も飢えませんように。皆が同じように食べられますように。家族が仲良く食卓を囲めますように。
女は、その願いを聞いていた。生きていた頃、自分を理解する者など息子しかいないと思っていた。村の人間は自分を邪魔者にし、軽く扱い、最後には見捨てたのだと信じていた。
それが今は違う。村人たちは繰り返し、自分たちのために食事を運んでくる。頭を下げる。食卓が正しく保たれるよう祈る。自分たちは必要とされている。自分たちがいなければ、この村の食卓は正しく保たれない。自分たちが見ていなければならない。
『やっぱり、そうだっただろう』
女は息子へ言った。
『母さんたちは、こんな村で邪険にされるような人間じゃなかったんだよ』
息子は黙って母親を見ていた。
『みんな、私たちを必要としてる。私たちが見ていてやらないと駄目なんだ』
女はお供えの前へ集まる村人たちを見た。
『食卓を守ってやらないとね』
息子も、いつしかその言葉に従うようになった。村人が後から作った食卓の作法を守らせる。誰かが人の食事を取れば、息子が現れる。誰かが自分の食事を他人へ渡せば、息子が現れる。
生きていた頃には二人とも口にしたことのない決まりだった。それでも、何十年も祈られ続けるうちに、その役目は二人のものになっていった。
女は、生きている間には得られなかったものを死後に手に入れた。必要とされること。畏れられること。自分の言葉で人が動くこと。そして、崇められること。
男が手となり、母が声となった。村人たちは、自分たちが作り上げた「正しい食卓」を守る存在へ祈り続けた。
その祈りを受けていたのは、男一人ではなかった。




