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ヴァルデン地方の正しい食卓  作者: 巴


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最終章 正しい食卓

 ルーエンに新しい祈り所が作られたのは、それから間もなくのことだった。


 軍が急いで用意した石造りの小さな建物で、中には二人分の食事を並べられる台があるだけだった。入口には兵士が立ち、誰でも自由に出入りできる場所にはしなかった。

 毎日、同じ時間に二人分の食事が運ばれた。男のための一皿と、その母親のための一皿。誰に供えているのか、軍が市民へ詳しく説明することはなかった。ただ、軍の管理する施設であり、置かれた食事には触れないようにという通達だけが出された。

 村のお供えも再開された。それから、村とルーエンで続いていた不可解な死は途絶えた。


 食事を巡る混乱そのものは、戦争が続いている以上なくならなかった。配給をやり直さなければならないこともあれば、誰かが自分の食事を別の者へ渡すこともあった。それでも、夜中に扉を叩く音は聞かれなくなり、閉ざされた部屋で首を折られて死ぬ者も出なくなった。

 村では、それまでと同じように二人分の食事が供えられ、村人たちは食卓の無事を祈り続けていた。ヴァイゲルトは、それを成功とは呼ばなかった。

「抑えているだけだ」

アベルにそう言った。

「終わったわけじゃない」

「分かっています」

「なら忘れるな。今やっていることは、正しいことではない」

「はい」

「人が死ぬのを止めるために、必要だから続けている。それだけだ」


 祈り所を増やし、お供えを続けることは、二人をさらに神として扱うことでもある。それでも今は、人が死ぬのを止めなければならなかった。アベルにも、ほかの方法は見つけられていなかった。

 軍は配給の扱いについても以前より慎重になった。一度渡した食事を不用意に取り上げない。余ったものを勝手に別の者へ回さない。必要な変更がある場合には、最初から配り直す。戦時中の軍隊で完全に守れる決まりではなかったが、知っているのと知らないのとでは違った。


 同時に、ヴァイゲルトたちは別の問題にも動き始めていた。戦争そのものだった。ルーエンはすでに何度も攻撃を受けていた。王国側にも帝国側にも死者が増え、食料も兵士も消耗している。北方の一都市だけでどうにかできる問題ではなかったが、このまま続ければ双方が耐えられなくなることは明らかだった。ヴァイゲルトは王都へ報告を送り、停戦を含めた交渉を進めるよう求めた。

 

 軍の動きは、当然、帝国側にも伝わった。帝国からルーエンへ入り込んでいた男は、それを調べるために動いていた。表向きは商人だった。荷物を運び、人と話し、酒場で噂を聞き、必要があれば金を払った。どの部隊が移動したのか。倉庫にはどれだけ物資が残っているのか。王国軍が何を修理し、何を運び、何を止めたのか。

 戦争が始まってから、何度も同じことをしてきた。最近になって、妙な話を耳にした。軍が市内の一角に小さな建物を作ったという。倉庫ではない。兵舎でもない。毎日、そこへ食事が運ばれている。男は夜のうちに場所を確認した。人通りの少ない場所に、簡素な石造りの建物があった。軍の管理下に置かれていたが、夜間は警備もそれほど厳しくない。何日か様子を見て、見張りの交代する時間を把握した後、男は中へ入った。

 中にあったのは、二人分の食事だけだった。特別なものではない。パンと煮込み。水。軍人が食べるものと大きく変わらなかった。男はしばらく皿を見た。祭壇らしい飾りはない。神の像もない。何かの名前が刻まれているわけでもない。ただ、二人分の食事だけが並べられている。軍需拠点で食料を使い、毎日これを続けている。

 何のためなのか。男は一方の皿を持ち上げた。下に何か隠されていないか確認する。何もない。皿を戻し、もう一方を少し横へずらした。台の表面を確かめ、それも元の位置へ戻した。


 数日後、男はルーエンを離れた。帝国へ戻るまでに何度も検問を避け、国境近くでは別の荷馬車へ乗り換えた。持ち帰った情報には、王国軍の兵站状況や部隊配置とともに、新しく作られた奇妙な施設についても含まれていた。

 二人分の食事を毎日置く場所。王国軍が管理している。何のためなのかは不明。男は見たままを報告した。それ以上の意味など、知るはずもなかった。


 報告を終えた日の夕方、男は自宅へ帰った。扉を開けると、娘が先に気づいた。

「お父さん!」

廊下を走ってきた娘を、男は片腕で抱き上げた。

「重くなったな」

「なってないよ」

「なった」

「お父さんが弱くなったんじゃない?」

「それは困るな」

 奥から妻の声がした。

「帰って早々、何してるの」

「娘に弱ったと言われた」

「そのくらい言われるわよ。何日家を空けてたと思ってるの」

「仕事だ」

「知ってるわ」

 妻は呆れたように言いながらも笑っていた。男は娘を下ろし、荷物を置いた。


 夕食はすでに用意されていた。久しぶりに家族三人で囲む食卓だった。スープとパン。焼いた野菜。それから、娘の好物の肉があった。

「今日、お肉だよ」

席につく前から、娘は嬉しそうだった。

「見れば分かる」

「私が好きだから」

「お父さんが帰ってきたからよ」

妻が言った。

「じゃあ私のお祝いじゃないの?」

「半分ずつ」

「半分かあ」

 男は笑いながら椅子へ座った。食事が始まる。娘は真っ先に肉へ手を伸ばした。

「ゆっくり食べなさい」

妻に言われ、慌てて噛む速度を落とす。

「おいしい?」

「うん!」

 男は自分の皿を見た。娘の肉はもう半分ほどなくなっている。自分の方にはまだ残っていた。娘は肉が好きだった。食べ終われば、こちらの皿を見てくることも知っていた。男はナイフで自分の肉を一切れ切った。

「ほら」

そのまま娘の皿へ載せた。

娘の顔が明るくなる。

「いいの?」

「食べたいんだろ」

「うん」

「じゃあ食べろ」

「ありがとう」

 娘はすぐに肉へ手を伸ばした。妻が男を見た。

「甘いんだから」

「一切れくらいだ」

「この前もそう言ってたわよ」

「覚えてない」

「都合がいいわね」

「そういう仕事だからな」

「何の仕事よ、それ」

 娘が笑った。男も笑った。娘が喜び、母親が笑った。どこにでもある家族の食卓だった。


 食事が終わると、娘は眠くなるまで父親のそばを離れなかった。何をしていたのかと何度も聞かれたが、男は仕事の詳しい話をしなかった。

「遠いところ?」

「ああ」

「どのくらい?」

「馬で何日もかかる」

「そこにも子供いる?」

「いるだろうな」

「お肉食べる?」

「食べるんじゃないか」

「私みたいに?」

「たぶんな」

 娘はそれで満足したらしく、やがて妻に連れられて寝室へ行った。男も遅れて寝床へ入った。久しぶりの自宅だった。隣では妻が眠っている。別の部屋には娘がいる。外は静かだった。


 夜が深くなった頃、扉が叩かれた。男は目を開けた。しばらくして、もう一度鳴った。隣で妻が身じろぎをする。

「……誰かしら」

「俺が見る」

 男は寝台から起き、暗い廊下を歩いた。こんな時間に訪ねてくる者などいない。玄関まで行き、しばらく扉の前で耳を澄ませたが、もう音はしなかった。

 男は鍵を外し、扉を開けた。誰もいない。家の前の道にも、人影はなかった。冷たい夜気だけが入り込んでくる。男が扉を閉めようとした時、背後で別の扉が開く音がした。振り返ると、娘が自分の部屋から顔を出していた。

「お父さん?」

「起きたのか」

「何か音がした」

「誰かが扉を叩いたみたいだ。でも、誰もいない」

娘は眠そうに目をこすった。

「怖い」

「大丈夫だよ」

男は玄関の扉を閉め、鍵を掛けた。

「戻って寝よう」

「お父さんも?」

「ああ」

娘は自分の部屋へ戻ろうとせず、その場で男を見上げた。

「一緒に寝る」

「今日だけだぞ」

 男は娘を抱き上げ、寝室に戻った。


 百年前、一人の女は何度も息子へ言っていた。自分はこんな村で終わるような女ではない。もっと大きな町へ行けたはずだった。もっと多くの人に知られ、もっと大切にされる人生があったはずだった。

 今、女が生きている間には辿り着くことのなかった場所に、かすかな縁が生まれた。


 一度できた縁は、紙に落ちた一滴の水のように、ゆっくりと周囲へ滲んでいく。人から人へ、食卓から食卓へ、少しずつその範囲を広げていく。やがてこの国にも、ヴァルデン地方からやってきた「正しい食卓」が入り込んでくる。


 村からルーエンへ。ルーエンから帝国へ。その縁が、国境を越えた瞬間だった。

【続編】二部作で完結します。

ヴァルデン地方の始まりの晩餐

https://ncode.syosetu.com/n6054mr/


短編ホラーもあり〼

聖女はまだ燃えているか

https://ncode.syosetu.com/n4369mp/

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― 新着の感想 ―
食卓と平和を守る美魔女戦士()が誕生しちゃったよ せっかく止まってたのにまた再開した呪いの原因を探ってる時に帝国でも不審死が相次いでることが判明したおかげで停戦交渉に入ることになるんですね 今までは村…
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