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ヴァルデン地方の正しい食卓  作者: 巴


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第八章 畏れか祈りか

 鐘が鳴り始めた時、ヘンリクは母親と家にいた。


 祈りの時刻ではなかった。最初の一度だけなら、誰かが誤って綱へ触れたと思ったかもしれない。だが鐘は続けて鳴った。村中へ危険を知らせるように、けたたましい音が何度も響いた。母親は窓へ近づいたが、鎧戸を開けなかった。外では人の声がしていた。誰かが走っている。何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、一人ではなかった。やがて、近くの家の扉を叩く音がした。

「母を食べたか」

先程から村を回っていた男の声だった。

返事は聞こえなかった。

「母を食べたか」

 もう一度聞こえた。その後に男の声ではない叫び声があり、何か重いものが床へ落ちる音がした。母親はヘンリクを奥の部屋へ連れていき、戸口に置いてあった棚を動かした。壁との間には、子供一人なら身体を入れられる隙間があった。

「ここから出るんじゃないよ」

「母さんは?」

「私もここにいるから」

 母親は棚を戻し、上から毛布を押し込んだ。ヘンリクがその夜に自分の目で見たものは多くない。記録に残されている惨事の大半は、夜が明けてから見たものと、その後、生き残った者たちから聞いた話をもとに書かれていた。


 男は母親のことを尋ねていたという。最初に入った家には夫婦がいた。男は戸口に出た夫へ「母を食べたか」と聞いた。夫が否定すると、その身体を押し倒した。床へ倒れた夫の頭を片手で押さえ、もう一方の手を首へかけると、力任せに横へ捻った。夫の身体が一度大きく動き、そのまま動かなくなった。妻はそれを奥から見ていた。別の家では、母親の火葬を手伝った男が殺された。

「弔っただけだ。食べてなんかいない」

 そう何度も言ったという。男は聞かなかった。何を答えれば助かったのかは分からなかった。食べていないと答えた者も死んだ。何も知らないと言った者も死んだ。母親の死とは何の関係もなかった者まで襲われた。途中から、男は相手の話など聞かなくなった。扉を叩き、人が出れば襲った。逃げる者を追った。止めようとした者も殺した。

 鍬を持っていた者からそれを奪い、そのまま振り回した。家の中へ逃げ込んだ者を追って扉を壊した。武器を持っていない時には、相手を倒して首へ手をかけた。

 村人たちも抵抗した。しかし、大人の多くは飢えで弱っていた。突然、昨日まで同じ村で働いていた男が人を殺し始めたことにも、すぐには対応できなかった。男自身も痩せ、傷を負っていた。それでも、どこからそんな力が残っているのか分からないほど暴れ続けた。


 ヘンリクは後に、その夜についてこう書いている。『最初、あの人は母親を殺した者を探していたのだと思う。あるいは、本当に母親を食べた者がいると信じていたのだろう。だが、途中から違っていた。誰が何をしたのかなど、もう関係がなかった。母親がいなくなったことそのものを、村全体の罪だと思うようになっていたのかもしれない。』


 鐘は途中で一度止まって、しばらくしてまた鳴り始め、今度は二度鳴ったところで途切れた。それ以降は、人の声の方がよく聞こえた。男を止めろと叫ぶ声があった。家から出るなという声もあった。どこかで犬が長く吠え続けていた。ヘンリクの母親は、一度だけ棚を動かして水の入った器を渡した。

「まだいるの?」

ヘンリクが尋ねると、母親はしばらく答えなかった。

「いるよ」

「誰か死んだ?」

「静かに」

 それから朝まで、母親はほとんど何も話さなかった。


 夜明け前になって、男は村の中央に近いところまで戻ってきたという。何人かの村人が農具や薪割りの道具を持って待っていた。逃げ続けても、次の家が襲われるだけだった。男はすでに全身に傷を負っていた。服は破れ、片腕から血を流していた。それでも村人を見ると向かってきた。数人が同時に男へ襲いかかった。男は一人を突き飛ばし、別の者へ掴みかかった。鍬の柄で殴られても倒れず、刃物で肩を切られても手を離さなかった。最後は何人もの男が身体へしがみつき、地面へ押さえ込んだ。それでも暴れ続けたため、さらに何度も打った。どの一撃で死んだのかは分からなかった。

 男が動かなくなってからも、しばらくは誰も近づかなかった。長い棒で身体を押し、それでも動かないことを確かめた。胸へ耳を当てた者もいた。息はなかった。朝になり、身体が冷たくなってから、ようやく死んだものとして扱われた。


 ヘンリクが隠れていた場所から出されたのは、その後だった。外へ出ると、雪の上を多くの人間が歩いた跡が残っていた。赤黒くなった場所には新しい雪が薄く積もり始めていた。開いたままの扉がいくつもあり、呼ばれても返事のない家があった。

 村の大半の家で誰かが死んでいた。一人も残っていない家もあった。生き残った者の中には、ヘンリクのように大人に隠された子供が多かった。家から離れていた者や、物音を聞いて森へ逃げた者もいた。

 死者を埋葬する余裕はなかった。すでに村の端には、飢えや病気で亡くなった者を安置する場所が作られていた。そこへ、その夜に殺された者たちも運ばれた。

 男の身体も同じ場所へ置かれた。誰も男のそばへ近づきたがらなかったため、男だけは板の上へ載せ、何人かで遠くから押すようにして運んだという。それで終わるはずだった。


 最初に扉を叩く音がしたのは、その夜だった。生き残った者たちは、できるだけ数軒へ集まって眠っていた。怪我人も多く、一人で家に残ることを恐れる者もいた。

 夜が深くなった頃、一軒の扉が激しく叩かれた。中にいた者たちは身を寄せ合い、誰も返事をしなかった。音は何度も続いた。やがて止んだ。その後、閉じた扉の向こうから声がした。前の晩と同じ声だった。

「母を食べたか」

 家の中にいた者の一人が、男は死んだはずだと叫んだ。今朝、何人もの人間が死体を確認している。それでも、声は扉の向こうから聞こえた。

「母を食べたか」

 その家には、前の晩に男と争った老人がいた。老人は配給を決める話し合いにも参加していた。男の母親の食事を減らすことに賛成した一人でもあった。老人は何度も違うと繰り返した。

「食べていない。誰も食べていない。お前の母親は病気で死んだんだ」


 隣にいた者が老人を抱き抱え、声を出すなと止めた。腕の中で、老人の身体が一度だけ強く動いた。抱えていた者たちはすぐには手を離せず、しばらくそのまま固まっていたが、やがておそるおそる腕を緩めた。老人の首は不自然な方向へ曲がり、その身体は力を失ったまま床へ崩れた。恐怖のあまり、老人だったものを突き飛ばした。


 翌朝、村人たちは村の端へ走った。男の身体は、前日と同じ場所に残っていた。服も傷もそのままだった。身体は硬くなり、雪が薄く積もっていた。男が生き返るはずなどなかった。

 次の夜にも扉が叩かれた。その夜に死んだのは若い女だった。女は前日、自分の食事を、親を失った幼い子供へ分けていた。子供が泣いていたからだった。

 その次に死んだ男は、他人の家へ置かれていた食事を勝手に食べたことがあった。さらに次の夜には、母親の配給にも火葬にも関わっていなかった者が死んだ。何をすれば助かるのか、誰にも分からなかった。男の身体は、その間も村の端にあった。


 村人たちは祟りだと考えた。生きている間にあれほど母親へ執着し、死んだ後まで「母を食べたか」と聞いて回るのなら、母親と同じようにきちんと弔えば止まるのではないかという話が出た。

 男の身体を火葬することになった。死者をまとめて焼いた時と同じ場所へ木を積み、その上へ男を載せた。火をつける前、誰かが言った。母親と一緒に食事をさせてやろう。生きている時には、母親の分を減らした。男が自分の食事を渡すことまで止めた。せめて死んだ後くらい、二人に同じものを食べさせてやろうという話になった。麦を薄く煮たものと、少しの豆が用意された。二つの皿へ同じだけ分けた。一つを男へ。一つを母親へ。火葬する場所のそばへ並べた。


 その夜、扉は叩かれなかった。翌日も同じように二人分を用意した。何も起こらなかった。三日目も、村は静かだった。村人たちは、お供えが男を鎮めたのではないかと考えた。しかし、食料はほとんど残っていなかった。生きている者ですら一日を食いつなぐことが難しい中で、死者のために毎日二人分を使うことへ迷いが出るのは当然だった。

 何日か後、お供えが用意されなかった。その夜、扉が叩かれ、翌朝には一人が死んでいた。すぐに二人分を用意すると、また何日も何も起こらなかった。後にもう一度お供えを減らした時にも人が死に、それからは誰も止めようとは言わなくなった。

 

 ただ、村人たちにはまだ分からないことがあった。男は何に怒り、誰を殺すのか。何をすれば、もう扉を叩かれずに済むのか。話し合ううちに、誰からともなく食事のことが挙げられるようになった。

 生前の男が争っていたのも食事だった。母親の取り分を減らされた。自分の分を母親へ渡そうとして止められた。そして死んだ後も、「母を食べたか」と聞いている。ならば食べ物を奪うことを怒っているのではないか。自分に与えられたものを他人へ渡すことも嫌うのではないか。一度決めた取り分を変えることを許さないのではないか。

 あの時、男が自分の食事を母親へ渡すことを止めなければよかった。今さらそう思っても、もう何も戻らなかった。それでも、同じことだけは繰り返したくないと村人たちは考えた。

 誰からも食事を奪わない。誰か一人だけへ多く渡すこともしない。最初から同じだけ分ける。自分へ出されたものは自分で食べる。他人の皿へ手を出さない。男と母親にも、自分たちと同じ食事を同じだけ用意する。そう決めた。


 その生活を続けると、誰も死ななかった。男と母親へのお供えも欠かさなかった。食卓の決まりも破らなかった。どちらが男を鎮めているのかは、まだ誰にも分からなかった。だから村人たちは、両方を守り続けることにした。

 供えた食事は、決めた時間が過ぎても誰も食べなかった。飢えていた。食べられるものを捨てる余裕などなかった。それでも、男と母親へ出したものを自分たちの食事へ戻す気にはなれなかった。最初のうちは、火葬に使った場所へ持っていき、そのまま火へ入れた。男も、母親も、あそこで焼かれた。二人へ出した食事も同じ火へ返せばよい。誰が最初にそう考えたのかは、ヘンリクも知らなかった。やがて、そこには食事を焼くための簡単な炉が作られた。

 『食べ物を燃やすのを、私はあの冬に初めて見た。あれほど飢えていたのだから、本来なら一粒の麦でも拾ったはずだ。それでも、供えたものを火から取り戻そうとする者はいなかった。男と母親へ渡した食事を、また人間が食べることを皆が恐れていたのだと思う。』


 冬が終わった。雪が少しずつ解け、ようやく外の村との行き来が戻った。食料も入るようになった。村人たちは、少しずつ飢えから解放された。それでも、お供えは止めなかった。食卓の作法も、すぐには変わらなかった。

 

 数年が過ぎると、変化が起きた。子供が父親の皿から一口もらった。何も起こらなかった。働きに出る者だけが少し多く食べた日があった。何も起こらなかった。病気の子供へ家族が食事を分けた。それでも、扉は叩かれなかった。男と母親へのお供えだけは、その間も一日も欠かしていなかった。

 若い者たちは、家の中でまで昔と同じように食べる必要はないのではないかと考え始めた。しかし、あの夜を知る者は簡単には変えられなかった。昨日大丈夫だったからといって、今日も大丈夫だとは限らない。自分が試して、その夜に子供が死んだらどうする。そう言われれば、誰も強く反対できなかった。

 だから、食卓の作法は少しずつ緩みながらも、形を変えて残った。誰かのものを勝手に取ってはいけない。自分の分をむやみに人へ渡してはいけない。食べ物は、できるだけ公平に分ける。そして、お供えだけは絶対に欠かさない。

 火葬した場所のそばには、雪や雨からお供えを守るため、簡単な屋根が作られた。木で囲われ、後には石が積まれた。さらに年月が経つと建て直され、現在の祈り所に近い形になった。ヘンリクは、最初からそこが祈りの場所だったとは書いていない。初めは誰も祈っていなかった。ただ、食事を置いた。男と母親のために。そして、自分たちが殺されないために。


 変わったのは、惨事を直接知らない子供たちが育ってからだった。生き残った者の中には、ヘンリクのように当時まだ子供だった者が多かった。大人になり、自分たちにも子供が生まれると、あの冬についてどこまで話すべきなのか迷うようになった。幼い子供へそのまま聞かせるには、あまりにも惨たらしい話だった。

 それに、詳しく知らなくても、お供えと決まりを守っていれば何も起こらない。だから少しずつ、話されない部分が増えていった。

 大きな飢饉があった。その時、母親を亡くした男がいた。食べ物を巡って村で争いが起きた。それ以来、食事は公平に分けるようになった。男と母親へ毎日お供えをする。最初は、それだけだった。

 やがて、そこに意味が加わった。男は食べ物の大切さを教えた。誰かだけが飢えることを許さなかった。皆が同じ食卓を囲めるよう見守っている。男と母親へ食事を供えれば、家族は無事に食卓を囲むことができる。恐ろしいものを鎮めるために置いていた食事が、いつの間にか祈りと一緒に置かれるようになった。


 ヘンリクは、その言葉を聞くたびに違和感を覚えたという。それは、生前の男が言ったことではなかった。男が望んでいたのは、自分の母親へ食事を渡すことだった。村全体へ公平を説いたことなど一度もない。それどころか、最後には誰が母親の死に関わったのかも確かめず、村人を無差別に殺した。それでも、祈りは男へ向けられるようになった。毎日食事が置かれ、そのたびに同じような願いが繰り返された。

 男はいつしか、母親を失って狂った者ではなく、食卓を守る者として語られるようになった。ヘンリクが二十歳を過ぎる頃には、男を神と呼ぶ者まで現れていた。最初にそれを聞いた時、ヘンリクは否定したという。

「あれは神じゃない」

「じゃあ、何なんだ」

「……人を殺した男だ」

「殺しただなんて、飢饉ではたくさん人が死んだ」

話をしていた相手は、惨事の後に生まれた若い男だった。

「人が死んだなら、多少の恨み辛みはあるもんだ。お供えをすれば何も起きないんだろう」

「そうだ」

「食事を粗末にしなければいい。俺たちはそう教えられてる」

若い男は、不思議そうにヘンリクを見た。

「なら、食卓を守ってくれてるんじゃないか」


 ヘンリクは、それ以上何を言えばよいのか分からなかったと書いている。ヘンリクも、どこまで伝えるべきなのか答えを出せずにいた。あの惨事をすべて話し、食卓の一つ一つを恐れながら生きるよう後の世代へ求めることが、本当に正しいとも思えなかったからだ。知らなければ、ただお供えをするだけで暮らしていける。


 それでも、ヘンリクは誰に対しても真実を隠したわけではなかった。知ろうとする者がいれば、相手が子供であっても話したことがあるという。その中の一人が、後にアベルの曽祖母となる少女だった。少女は惨事のあった冬にはまだ二歳だったが、大人たちが騒いでいたことや、夜に教会の鐘が鳴ったこと、家の奥へ隠されたことだけを覚えていた。八年後、十歳になった少女は、自分が覚えているあの夜に何があったのかを、当時十八歳だったヘンリクへ尋ねたという。


 二十八歳になった頃、村から西へ離れた場所で新しい都市の整備が始まった。後にルーエンと呼ばれる場所だった。街道が作られ、商人が集まり、倉庫が建ち始めた。ヘンリクは妻と二人の子供を連れて村を出た。

 最後に近い頁には、自分は逃げたのだと書かれていた。『私は、全部に疲れたのだと思う。あの村で起きたことにも、それを語るか隠すか考え続けることにも、あの人が神になっていくのを見ることにも疲れた。お供えを止める勇気もなく、食卓の決まりを捨てることもできなかった。だから私は、村から離れたかった。逃げたのだ。』


 村を離れた後も、ヘンリクは故郷から来た者に会えば話を聞いていた。祈り所は残っている。お供えも毎日続いている。古くなったお供えは炉で焚き上げる。食卓の決まりは昔ほど厳しくない。それでも、年寄りほど昔のやり方を守っている。そんな話を書き足していた。『すべてを話せば、あの人を神と呼ぶ者はいなくなるのかもしれない。それならば良いと思うこともある。だが、話を聞いた者の中には、そんなものは昔の人間が恐れて作った決まりにすぎないと言う者も出るだろう。お供えを止める者がいるかもしれない。私は、それを試すことができない。試して間違っていた時、誰かが死ぬかもしれないからだ。』


 その後には、別の時期に書いたと思われる文章が続いていた。『知らない方がよいこともあるのだと思う。決まりだけを知っていれば、その通りに暮らせる。なぜ守るのかまで知れば、食卓へ座るたびに、あの夜のことを思い出す者もいるだろう。それでも、何もなかったことにしてよいとも思えない。私は今でも迷っている。』

 ヘンリクはルーエンで暮らし、故郷について家族へ詳しく話すことはなかった。その一方で、この帳面だけは捨てなかった。年月が経つにつれて書き足し、生き残った者に会う機会があれば話を聞き、自分の記憶と違う話も消さずに残した。

 帳面はその後も家族のもとに残り、いつからか木箱へ収められたまま保管されていた。最後の頁には、冒頭とよく似た言葉がもう一度書かれていた。『必要がないのなら、読まずに閉じてほしい。』アベルはそこで帳面から目を離した。


 ヘンリクが恐れていた日は、もう来ていた。

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