第七章 飢えの果てに
ヘンリク・ライナーという名前を頼りに、アベルはまずルーエンの教会を訪れた。都市が整備され始めた頃からの出生、婚姻、死亡、転入者の記録が残されており、戦争によって礼拝堂の一部が負傷者の収容場所になった今も、古い帳簿は地下の記録庫に保管されていた。
八十年ほど前、東の山間にある村から移住してきた男。姓はライナー。アベルが事情を説明すると、司祭は古い住民名簿を数冊運んできた。ライナーという姓自体は珍しくなかった。アベルは一人ずつ出身地と年齢を確認し、年代の合わない者を除いていった。数冊目の名簿で、ようやく該当する名前を見つけた。
ヘンリク・ライナー。登録時二十八歳。妻と二人の子供を伴い、ルーエン東部の山間にある村から転入。
アベルはもう一度、年齢を計算した。母の手記に書かれていた通りなら、村で惨たらしい事件が起きた時、ヘンリクは十歳だったことになる。
記録をさらに追うと、ヘンリクは移住当初、商人の倉庫で荷の管理をしていた。数年後には家を持ち、子供の一人が商売を継いでいる。本人は四十年以上前に死亡していたが、ライナーの姓はその後も途切れていなかった。
教会の記録だけでは現在の居所まで追えず、アベルは商人組合の台帳や古い納税記録も調べた。戦争中に八十年前の住民を探して回る時計技師を不審がる者もいたが、何人かに尋ねるうち、現在のライナー家がルーエンの北西部で花屋を営んでいることが分かった。
店は閉まっていた。店先に花はなく、木製の看板も外されている。窓の内側には空の鉢が積まれ、戦争が始まってから営業していないことが一目で分かった。裏手の住居へ回って扉を叩くと、五十代ほどの男が顔を出した。
「突然すみません。ライナーさんのお宅ですか」
「そうだが」
「ヘンリク・ライナーという人について聞きたいことがあります」
男はアベルを見た。
「……曽祖父だな。何の用だ?」
「その方が昔住んでいた村について調べていまして」
「村?」
「ルーエンから東へ行った、山の麓の村です」
男の眉がわずかに動いた。
「……入れ」
家には男の妻と、成人した娘がいた。花屋は襲撃以来休業しており、今は軍や治療所から依頼された薬草の栽培だけを続けているという。
アベルは母の手記について必要な範囲だけ説明した。自分の母がその村の出身であること。母の祖母が、若い頃のヘンリクから村で起きた出来事を聞いていたこと。そして、ヘンリクが後にルーエンへ移ったと記録されていたこと。
「曽祖父が山の方から来たのは知ってる」
男は言った。
「でも、故郷の話はほとんど聞いてないな」
「ご家族にも?」
「祖父から聞いたのは、昔ひどい飢饉があったってことくらいだ。だから村を出たんだろうって」
「お供えについては聞いたことがありますか」
「お供え?」
男は妻を見た。妻も首を振った。
「そんな話は聞いたことがありません」
「昔の手紙や、何か書き残したものは?」
「古いものなら倉にあるが……そういう物が残ってるかは分からん」
裏手の倉には、花屋を始めてからの仕入れ帳、土地の証書、家族宛ての手紙などがいくつもの箱に分けて置かれていた。男と娘も手伝い、埃を払いながら中身を確認していく。しばらくして奥から出てきた小さな木箱だけは、他のものと違っていた。蓋に錠が付いている。
「これは?」
「ああ、昔からある。鍵がなくなってて開かないんだ」
男は古い鍵束を持ってきたが、どれも合わなかった。
「壊していいなら開けられるが、中身を傷つけそうでな」
アベルは錠へ顔を近づけた。
「壊さなくても開けられるかもしれません」
「できるのか?」
「実は時計屋をしていまして。細かい作業は得意なんです」
細い工具を差し込み、内部の形を確かめた。錠は錆びついていたが、部品そのものは残っている。力を加えず、指先へ返ってくる抵抗だけを頼りに少しずつ位置を変えていく。小さな音がして、錠が外れた。
「本当に器用なんだな」
男が感心したように言った。
「最近は時計の方をあまり触れていませんけどね」
箱の中には数通の手紙と、一冊の厚い帳面が入っていた。表紙に題名はなかった。革紐を外して開くと、最初の数頁にはルーエンへ移住してからの暮らしが書かれている。仕事を得たこと、子供が病気になったこと、商売を始めるために金を貯めたこと。筆跡は途中から変わり、日々の記録ではなく、過去をまとめ直した文章になった。
その最初に、ヘンリク自身の断り書きがあった。『ここには、私が十歳の冬に自分で見たことと、その後、生き残った者たちから聞いたことを書き残す。あの冬について私が今も考えていることも、できる限りそのまま残すつもりだ。思いのままに書けば、冷静とは言えない箇所もあるだろう。それでも、分かったことも分からなかったことも含めて、なるべく真実に近い形で残したい。こんなことを書き残すのが良いことなのか、今でも分からない。それでも、いつか必要になる時が来るかもしれないと思っている。できるなら、これが必要になる日など来ないでほしい。必要がないのなら、読まずに閉じてほしい。』
アベルはその文章を二度読んだ。ヘンリク自身、この記録が読まれることを望んでいたわけではない。それでも、何も残さず消してしまうこともできなかったのだろう。
「ここから読ませてもらっても?」
アベルが尋ねると、男は記録を見た。
「家のことが書いてあるんじゃないんだな」
「最初はそうですが、村について書かれた部分からだけです」
男は冒頭の一文へ目を落とした。
「読まないでほしい、なんて随分物騒なことを書いてるな」
「まだ読んでいませんが……ここだけは、やめておいた方がいいかもしれません」
「なんだそれ」
男は少し呆れたように笑った。
「そこまで言われたら、逆に気になるだろ」
「俺もそう思います」
「持っていかないなら構わない。読むならここで読んでくれ」
「分かりました」
アベルは椅子を借り、村の記録が始まる頁を開いた。百年前、その場所にルーエンはなかった。村から西へ進んでも、今のような石畳の街道はない。森を抜け、いくつかの小さな集落を経て、さらに何日も歩かなければ大きな市場へは出られなかった。春から秋には行商人が訪れ、村人も山を下りたが、冬になると雪で道が塞がれることは珍しくなかった。しかし、それは毎年のことだった。今年も同じように、自分たちで冬を越すだけの穀物を蓄え、野菜を保存し、家畜を飼えばよいはずだった。
ところが、その年は不運が重なった。麦の出来が悪く、長雨で豆と根菜も十分に育たなかった。夏の終わりには例年より早く冷え込み、収穫そのものが大きく減った。村人たちは秋のうちから冬を警戒した。食べる量を少しずつ減らし、保存できるものはできるだけ残した。家畜を早めに処分して飼料を節約し、足りなくなることを見越して近隣の村へ穀物を買いに行く者も出した。
しかし、近隣の村も同じように不作だった。売れるほどの穀物はないと断られ、別の村へ向かった者も手ぶらで戻ってきた。さらに遠くの町へ買い付けに行く準備を始めた頃、例年より一月近く早く雪が降った。最初の雪が解ける前に次の雪が積もり、山道は急速に塞がっていった。
共同倉の麦が開けられた。最初は、冬の後半に使う予定だった分を少し早く出しただけだった。やがて家畜が減った。鶏がいなくなり、山羊がいなくなった。春まで残す予定だった種籾にも手をつけた。保存していた根菜がなくなると、森から木の実を集め、樹皮を削り、普段なら食べない草まで長く煮た。
ヘンリクが最初に覚えていた変化は、村から食事の匂いが消えていったことだった。それまでは夕方になれば、どの家からも何かを煮る匂いがした。麦粥、豆、肉、焼いた根菜。冬は窓を閉めていても煙と一緒に匂いが流れ、外を歩けばどの家が何を食べているのか分かるほどだった。それが少しずつなくなった。夕方になっても煙突から煙が出ない家が増えた。
一日に食べる回数も減った。朝を食べない家が増え、夕食も薄い粥だけで終わるようになった。子供たちは初めのうちは腹が減ったと訴えたが、何度言っても鍋の中身が増えないことを覚えると、次第に聞かなくなった。ヘンリク自身もそうだったと書いている。
共同倉の食料は村で管理されるようになった。各家庭へ勝手に持ち帰らせず、その日に必要な分だけを渡す。最初は人数を基準にしていたが、食料が減るにつれて、誰へどれだけ渡すかが毎日のように話し合われるようになった。
その頃から老人や病人が死に始めた。誰が最初だったのか、ヘンリクは覚えていない。最初のうちは、それまでと同じように教会で祈り、墓地へ運んだ。冬の土は固く、一つの穴を掘るだけでも何人もの大人が交代しなければならなかった。それでも死者が出るたびに墓を作った。
やがて、それが追いつかなくなった。食べるものが少ないため、村人たちは日に日に力を失っていた。薪を集め、雪を除け、生きている者のための水を運ぶだけでも精一杯だった。凍った地面を掘るために半日を使えば、その日の仕事が一つできなくなる。
だからといって、死者を粗末に扱う者はいなかった。村の端に雪を除けた場所を作り、亡くなった者を一人ずつ布で包んで横たえた。家族のいる者には、できるだけ身内が使っていた布を掛けた。土が緩めば必ず埋葬する。それまではここで待っていてもらう。村人たちはそう決めた。
死者は少しずつ増えていった。飢えが深くなると、村では働ける者へ食料を多く残すべきだという話も出るようになった。薪を集める者、雪の中を歩ける者、狩りへ出られる者、壊れた道具を直せる者。そうした人間が倒れれば、残った者も生きられない。子供を優先するべきだという者もいた。その一方で、長く病んでいる者や、もう働けない老人へ同じ量を渡し続けることはできないという声も出た。
村外れに、母親と二人で暮らす男がいた。ヘンリクは、その男の名前を残していない。記録の余白には、後から書き足したらしい一文があった。『名前を書こうとしたことは何度かある。だが、やめた。あの男を神のように残すつもりも、稀代の罪人の名として残すつもりもない。あれは我々と同じ、ただ母親と暮らしていた一人の男だった。』
男は成人しており、村でもよく働く者だった。雪が積もれば道を開け、森へ薪を取りに行き、狩りにも加わった。壊れた柵を直すこともあった。ただ、母親のことになると、昔から少し様子が違ったという。
母親は長く病んでいた。その冬だけの病気ではなく、以前から寝込むことが多かった。男は仕事の合間にも何度も家へ戻り、母親が寒くないか、食事を取ったかを確かめた。誰かに世話を頼んでも自分でもう一度確かめ、母親が少し咳をすれば仕事を途中で切り上げることもあった。周囲から見れば、必要以上に母親へ執着しているところがあった。それでも、それまでは誰かに害を与えるようなものではなかった。
配給を減らさなければならなくなった時、村人たちは男を呼んだ。母親の取り分を減らしたい。話はそれだけだった。男は拒否した。これまで母親へ渡していた分を、そのまま渡してほしいと言った。村人は食料がないと説明した。男は、それなら自分の分を減らせと言った。
その日の食事から、男は自分へ渡された分の一部を母親へ持ち帰ろうとした。村人はそれも止めた。男は村でよく働く者だった。本人まで衰弱すれば、薪を取る人間が一人減る。狩りへ出る人間も減る。病人一人のために働ける者まで倒れれば、結局さらに多くの人間が死ぬ。
男は何度も同じことを尋ねたという。『母の食事を減らすなと言えば、皆が飢えると言う。ならば自分の分を母へ渡すと言えば、それも許さない。母には食わせるな。私は食え。それで働けと言うのか』その場にいた者の誰も、うまく答えられなかった。食料は本当に足りなかった。男が倒れれば困るのも事実だった。誰か一人を憎んで母親を飢えさせようとしたわけではない。それでも、母親の取り分は減らされた。男には、それまで通りの量が渡された。男が自分の分を母親へ持ち帰ろうとするたび、周囲は止めた。
ヘンリクが覚えているのは、共同倉の前で男が年長の村人と口論していた場面だった。男の手には小さな皿があった。皿には、その日の配給として渡された煮豆が残っていた。男はそれを家へ持ち帰ろうとしていた。年長の村人が腕を掴んだ。
「お前の分だ」
「母に食わせる」
「駄目だ」
「これは俺の分だろう」
「だからお前が食え」
「俺のものなら、誰にやろうが俺の勝手だ」
「今のお前に倒れられたら困る」
「なら母の分を戻せ」
「それはできん」
「俺のものも渡せない。母のものは減らす。何ならいいんだ」
ヘンリクは、その時の男の顔をよく覚えていなかった。怒鳴っていたことだけは覚えている。村人の方も怒鳴り返していた。結局、煮豆は男に戻された。男がその場で食べるまで、年長の村人は離れなかったという。
その後も同じようなことが何度か続いた。男は母親を死なせることを異様なほど恐れていた。病人だから仕方がないと言われれば怒った。老人なのだからと言われても怒った。春まで生きられる者を優先しなければならないと言われると、その言葉を言った者へ掴みかかったこともあった。
やがて男は、自分で食べ物を探してくると言い出した。森に獣が残っている可能性は低く、雪も深かった。近隣の村にも余分な食料はない。それでも男は、山のさらに向こうまで行けば何かあるかもしれないと言った。
止める者もいた。男が戻らなければ、母親は一人になる。それでも男は出ていった。自分へ配られたものの中から少しずつ残していた乾物を母親の寝台のそばへ置き、近所の者にも様子を見るよう頼んだという。村も、男がいないからといって母親への配給を止めることはしなかった。
男が村を離れて三日が過ぎた。四日目にも戻らなかった。五日目になると、村人たちは男自身が山で死んだ可能性を口にし始めた。
それでも母親の家には少ないながらも毎日食事が運ばれた。六日目の朝、様子を見に行った女が、母親が寝台の上で動かなくなっているのを見つけた。医者はいなかった。だが、前日からほとんど水も飲めなくなっていたという。高齢で、長く病み、その上に寒さと飢えが重なっていた。誰かが何かをしたわけではなかった。ただ、老いで死んだ。
その頃、村の端にはすでに何人もの死者が並んでいた。土が緩むまでそのままにするつもりだったが、雪の中へ遺体を置き続けることを気にする者も増えていた。家族をそこへ残した者から、せめてきちんと弔いたいという声が上がった。
そこで、木を集め簡素な箱を作り、何人かずつ納めて火葬することになった。男の母親も、その中に入れられた。誰かが男の帰りを待つべきだと言った。しかし、すでに一週間近く戻っていない。生きているのかも分からなかった。いつ戻るか分からない男のために、母親だけを残すこともできなかった。祈りが捧げられた。火がつけられた。
そこから2日後の夕方、男は村へ戻ってきた。食べ物はほとんど持っていなかった。服には雪がこびりつき、顔は痩せ、唇は切れていた。片方の靴には布が巻きつけられ、指先は赤黒く腫れていた。村人が声をかけても、ほとんど返事をしなかったという。男はそのまま家へ向かった。しばらくして、家から飛び出してきた。
「母はどこだ」
近くにいた者が、母親は亡くなったと伝えた。男はすぐには理解しなかった。いつ死んだのかと聞いた。男が出ていって六日目の朝だと答えた。誰が食事を持っていったのかと聞いた。何人かが交代で運んだと答えた。それでも男は納得しなかった。
「食わせなかったんだろう」
違うと言われても聞かなかった。
「俺がいない間に、食わせなかったんだろう」
村人は、母親にも食事を渡していたと説明した。家に残していった乾物もなくなっていた。最後の日にはほとんど口にできなかったが、それは食事を与えなかったからではない。
男は母親の身体を見せろと言った。そこで初めて、火葬したことを知らされた。男は黙った。どこへ埋めたのかと聞いた。遺体が増えたため、他の死者と一緒に火葬したのだと説明された。男はしばらく何も言わなかったという。
ちょうど夕食の時刻だった。食事の量はわずかだったが、それでも家々には鍋が置かれ、人々はその日の配給を食べていた。外を歩けば、久しぶりに煮た豆や麦の匂いがした。
一週間近く山を歩き、最後の3日間はほとんど何も食べずに戻ってきた男が、その匂いを嗅いだ。
母親はいない。身体もない。目の前では、村人たちが食べている。ヘンリクは、男がその時に何を考えたのかは分からないと書いている。ただ、それから少し言い合いをして、男が言い始めた言葉だけは、多くの者が覚えていた。
「母を食べたか」
最初に聞かれた者は、何を言われたのか分からなかったという。
「何を言ってるんだ」
「母を食べたか」
村人は否定した。母親は火葬した。誰も食べていない。そんなことをするはずがない。男は聞かなかった。
「母を食べたか」
その家の食卓へ近づいた。鍋の中を見た。座っていた男の腕を掴み、口元へ顔を寄せた。何を食べている、と聞いた。麦と豆だと答えられると、男は突然その腕へ噛みついた。男は引き離された。何人かが取り押さえたが、飢えきっているとは思えないほど暴れた。倒されても起き上がり、近くにあった農具を掴んだ。
そこから先のことを、ヘンリクは一つの証言だけでは書いていなかった。誰が最初に殺されたのかも、はっきりしていない。ただ、男は村の中を歩き始めた。一軒ずつ扉を叩いた。
「母を食べたか」
否定されても、次の家へ行った。
「母を食べたか」
知らないと言われても、聞いた。
「母を食べたか」
やがて、答えを待たなくなった。その時、十歳だったヘンリクは家の中にいた。外から男の声が聞こえた。一軒目。二軒目。遠ざかったと思うと、また近くで聞こえる。誰かが泣き出した。母親がヘンリクを奥の部屋へ入れ、外を見るなと言った。それでも男の声は聞こえた。
「母を食べたか」
誰かが教会へ走った。その夜、教会の鐘が鳴った。




