第六章 繋がる記憶
アベルがルーエンへ戻ったのは、母の葬儀から数日後だった。
村に駐留する軍へ、以前ルーエンの工場で武器製造に従事していたことを伝え、精密加工の仕事ができるなら都市へ戻りたいと申し出ると、軍は輸送隊への同行を認めた。技術者が不足しているらしく、理由を詳しく聞かれることもなかった。
再び見るルーエンは、逃げ出した日のような混乱こそ収まっていたが、以前の街とは違っていた。東門には軍の検問が置かれ、通行人は一人ずつ身分を確認される。工場の並ぶ一帯では屋根を失った建物がいくつもあり、焼けた木材や瓦礫が道端へ寄せられていた。大通りでは軍用の荷車が行き交い、食料を扱う店の前には開店前から人が並んでいる。襲撃前まで営業していた店の中には戸板を打ちつけたままのものもあり、知っている顔を見かけない家もあった。
時計店のある通りへ入ったところで、店先から声をかけられた。
「アベルじゃないか」
振り向くと、以前、置時計の修理を頼まれた顔馴染みの女が立っていた。ルーエンを出る前と変わらない顔を見て、アベルは足を止めた。
「無事だったんですね」
「こっちはね。あんたも生きてたならよかったよ」
女はそう言ってから、通りの奥へ目を向けた。
「でも、角の靴屋の主人は亡くなったよ。襲撃の時に逃げ遅れたらしい」
「……そうですか」
「他にも街を出たまま戻ってない人がいる。誰が生きてて、誰がどこにいるのか、まだ全部は分からないね」
女はアベルの背後を見た。
「お母さんは?」
アベルは少し黙った。
「村で亡くなりました」
女の表情が変わった。
「……そうかい」
それ以上は聞かなかった。代わりに、時計店の方を指した。
「あんたの店なら残ってるよ。周りの店で、空き家になったところは一応みんなで見回ってたんだ。兵隊だけじゃ手が回らないからね」
「そんなことまでしてくれてたんですか」
「私が知る限りは人は入ってないよ。窓が一枚割れてるけど、荒らされてはいないはず」
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃないさ。戻ってくるかもしれないと思ってただけだよ」
アベルは頭を下げ、通りの先へ進んだ。
時計店は残っていた。外壁に小さな傷があり、窓の一枚が割れていたが、建物そのものに大きな損傷はない。アベルは扉の鍵を開け、店の中へ入った。
壁の時計はほとんど止まっていた。逃げた日に巻いたまま誰も手を入れていないのだから当然だった。店内には薄く埃が積もり、作業机の上には途中まで分解した時計が残されている。母と荷物をまとめた時に動かした椅子も、そのままの場所にあった。
アベルは店を通り抜け、奥の居住部分へ入った。母の部屋も、ほとんど変わっていなかった。寝台の脇に小さな棚があり、その上には読みかけの本と裁縫箱が置かれている。衣装箱、古い手紙を入れていた木箱、父が生きていた頃から使っていた小さな鏡。何を探せばいいのか、母は詳しく言わなかった。
昔から書き留めていたもの。アベルは棚から一冊ずつ本を取り出し、机の引き出しを開けた。衣装箱の底まで確認した後、寝台の下へ手を入れると、奥に薄い木箱があることに気づいた。
そっと箱を取り出す。中には数枚の手紙と、いくつかの古い紙束が紐でまとめられていた。最も新しい束には、母の字で文章が書かれている。アベルは床へ座り、その一枚目を開いた。
最初に書かれていたのは、母の両親についてだった。二人は村にいる頃、祈り所への供えを欠かしたことがなかったという。父親は毎朝、当番の日になると自分で料理の量を確認し、母親は二枚の皿へ同じだけ盛った。一度祈り所へ置いた後は決められた時間まで近づかず、残った料理は必ず炉へ入れた。
村の中でも、特に昔からの作法に厳しい二人だったらしい。だからこそ母自身も、両親が死ぬまで、あのお供えを危険なものだとは考えていなかった。
ある冬、村へ一人の旅人が流れ着いた。雪の中を何日も歩いてきたらしく、男はまともに立つこともできなかった。村にも余裕はなかったが、それでも家へ入れ、暖炉の近くで休ませた。
その日は、母の家が祈り所の当番だった。お供えはすでにされていた。旅人はひどく衰弱しており、新しく料理を作るのを待たせるより、まず何かを口にさせる必要があるように見えた。すぐに食べられるものはと考えた時、母の両親は相談した末、祈り所に供えた料理を食べさせることにした。
母は止めたと書いてあった。祖母から、一度供えたものには触れてはいけないと何度も教えられていたからだった。
しかし父親は、「人が死にそうなのに、そんな時まで守る決まりではない」と言った。母親も、「食べさせた後で、同じものをもう一度用意すればいい」と答えた。二人は祈り所へ向かった。父親と母親がお供えを一人分ずつ持った。旅人のところまで運び、そのままそれを与えた。男はほとんど噛まずに食べ、残ったスープまで飲み干したという。
二人は直後に新しい料理を作った。先ほどと同じものを、同じ量だけ用意し、二枚の皿を祈り所へ置き直した。
何も起きないように見えた。その日の夜、家の扉が激しく叩かれた。
母が両親とともに音を聞いていると、扉は閉じたままなのに、いつの間にか部屋の中に男が立っていた。男はまず父親へ近づき、その首を一度の動作で捻った。母親が駆け寄るより早く、今度はそちらへ手を伸ばした。母は、両親が目の前で続けて殺されるのを見た。男は母には目もくれず、二人が倒れた後、いつの間にか姿を消していた。
アベルはそこで一度、紙から目を離した。母が死ぬ前に言った言葉を思い出した。私の両親も同じことをした。誰かを助けるために、自分たちのものではない食事を渡した。そして、後から同じものを用意しても戻らなかった。
アベルは続きを読んだ。母は両親の死をきっかけに、祖母から教えられていた作法が、単なる神への礼儀ではなかったことを理解した。両親は旅人を助けるためにお供えを与え、すぐに同じ料理を供え直した。それでも、あれは来た。なぜなのか、母にも分からなかった。ただ、祖母が繰り返していた「人のものを取るな、自分のものを人へ渡すな」という言葉だけは、それまでとは違う意味を持つようになった。
『父と母は、旅人を助けようとした。悪いことをしたとは思わない。私も、同じ状況なら、助けたいと思うだろう。それでも、あれには関係がなかった。善いことか悪いことかを見ているわけではないのだと思う。父と母は食べ物を人へ渡した。それで、あれは来た。私には、それ以上の理由は分からない。
アベルは紙を持ったまま、しばらく動かなかった。母は知っていた。だから家でも、自分の皿からアベルへ食べ物を渡さなかった。アベルが自分の分を母へ置こうとすれば戻させた。同じ量に分けることまで気にしていたのも、村で教え込まれた昔の作法をそのまま守っていたからなのだろう。
母は両親の死後、やがて村を離れた。手記には、その理由についても書かれていた。村そのものを嫌いになったわけではなかった。祈り所を馬鹿にしたわけでもない。むしろ、祈り所が何のためにあるのか、その危険性を理解したからこそ、そこから離れた。毎日お供えがされている限り、何も起きない。だが、また何か間違いが起きれば、あれは現れる。母はその可能性がある場所で暮らし続けることを恐れた。
南部へ移った後も、食事の習慣だけは変えなかった。父と結婚し、アベルが生まれてからも同じだった。その一方で、家族には理由を話さなかった。
『知っていれば、避けられることもある。でも、知ったからこそ一生気にし続けることもある。私は食卓に料理が並ぶたび、誰のものかを考える。誰かが自分の分を譲ろうとするだけで怖くなる。祈り所から何日も離れているのに、それでも忘れられない。』
その次の一文だけ、少し字が乱れていた。
『アベルには、そんなふうに食事をしてほしくない。』
アベルはそこで紙を伏せた。あの夜、母が言ったことと同じだった。知らなければ、普通の食事として食べられる。自分の皿に何が入っているのかだけを見て、誰のものだったかまで考えずに済む。だから母は話さなかった。危険なものを隠していたのではなく、危険そのものがアベルの生活へ入り込まないようにしていた。それでも最後には、自分のスープを飲ませた。自分がどうなるかを知った上で。
アベルは紙を戻し、続きを開いた。そこから先には、祈り所について母が祖母から教えられていたことがまとめられていた。
村では、冬の食卓を守る土地神へ二人分のお供えがされていると説明されている。しかし祖母は、その呼び方を嫌っていたという。『あれは神様ではない』母が幼い頃から何度尋ねても、祖母がはっきり答えたのはそこまでだった。
お供えは二人分、必ず同じ料理を同じ量だけ用意すること。決められた時刻に供えること。一度供えたものは決められた時間まで触れないこと。途中で持ち帰らないこと。誰かへ食べさせないこと。終われば炉で焼くこと。そして、一日も欠かさないこと。理由を尋ねても、「そうしなければならない」「絶対に決まりを変えてはいけない」と繰り返すだけだった。
母が、両親が祈り所のお供えを旅人へ与えようとした時に必死で止めたのも、そのためだった。何が起きるのかまでは知らなかった。ただ、祖母が冗談や迷信では済まされないほど、その決まりを恐れていることだけは知っていた。
両親の死後、祖母はそれまでより少しだけ多くを話したという。
村で昔、大きな飢饉があったことは母も知っていた。しかし祖母が話したのは、その飢饉の最中に、村で大勢が死ぬようなことがあり、それをきっかけに今のお供えが始まったということだった。祖母は、その惨事が起きた時、まだ二歳だった。本人に残っている記憶は、大人たちが騒いでいたこと、夜中に教会の鐘が鳴っていたこと、家族に抱えられて暗い場所へ隠されたことなど、ごく断片的なものしかなかった。
そこから祖母が十歳になる頃、村に居たヘンリク・ライナーという青年から、村で何が起き、その後なぜお供えをするようになったのかを聞いたらしい。ヘンリクは惨事が起きた時に十歳で、その夜のことを覚えていた数少ない生存者の一人だった。
しかし、祖母はその内容を母へすべて話そうとはしなかった。母の手記には、その時に言われた言葉が残されていた。
『全部知っていれば、お前の両親は死ななかったのかもしれない。そう思うことはあるよ』そこで一度、祖母は黙ったという。『でも、全部知ることが、その人のためになるとも思えないんだ。知らなければ、決まりを守るだけで生きていける。知ってしまえば、食卓を見るたびに思い出す。私は今でも、どちらが正しかったのか分からない』
アベルは、その部分をもう一度読んだ。曽祖母は、自分が詳しく語らなかったために、自分の子供夫婦を死なせたのかもしれないと考えていた。それでも、次の世代へすべてを背負わせることが正しいとは言い切れなかった。
母がアベルへしたことと同じだった。本当の事を知っていれば避けられることはある。それでも、知った後は、それを知らなかった頃の食卓には戻れない。だから曽祖母は母へすべてを話さず、母もまたアベルへ話さなかった。
母の手記には、祖母が最後まで繰り返していたことだけが残されていた。祈り所にいるものは神ではない。お供えを欠かしてはいけない。供えたものは誰にも食べさせてはいけない。昔からのやり方を変えてはいけない。そして、あの夜に本当は何があったのかを知っていたのは、ヘンリク・ライナーだった。
アベルはその名前をもう一度読んだ。ヘンリク・ライナー。その下には、母が後から加えたらしい短い記述があった。『ヘンリクは、ルーエンができて間もない頃に村を出たと祖母から聞いた。その後もルーエンで暮らしたらしい』惨事の時に十歳なら、今生きていれば百十歳ほどになる。本人がまだ生きているとは思えなかった。それでも、ルーエンへ移り住んだのなら、何か残っているかもしれない。家族がいるかもしれない。教会の記録や住民名簿に名前が残っているかもしれない。
アベルは母の紙束を丁寧にまとめ直した。母が知っていたことは、ここまでだった。だが、村で最初に何が起きたのかは分からない。アベルは別の紙を取り、ヘンリク・ライナーと書いた。
母が読むかどうかを自分に委ねたように、曽祖母もまた、すべてを語ることを選ばなかった。ならば、その先を知るには、自分で探すしかなかった。




