第五章 母のスープ
人が続けて死んでから、村人たちは以前にも増して食事の扱いを気にするようになった。
軍による管理そのものは続いていたが、二人の指揮官が相次いで死亡したことで兵士たちにも動揺が広がり、少なくとも一度各家庭へ渡した食料を気軽に取り上げる者はいなくなった。村人の側でも、年寄りが昔から言っていた作法を急に守り始める者が増えた。自分の皿へ置かれたものは自分で食べる。余っても他人へ渡さない。子供が欲しがっても渡さない。
理由を説明できる者はいなかった。ただ、配給を取り上げた軍人が死に、自分の食事を子供へ渡した親も死んだ。その事実だけが皆を動かしていた。
祈り所にはまだお供えはない。軍は村人が再開を求めても認めず、食料はすべて管理下に置いたままだった。最初に供物を止めた部隊長が死亡したことで、兵士の中には祈り所を避ける者も出ていたが、迷信を理由に命令を変更したと受け取られることを恐れているのか、新しい責任者もお供えについては判断を保留していた。
アベルは村の作業に加え、軍からも呼ばれるようになっていた。荷車の金具が壊れた、銃の部品が噛み合わない、倉庫の錠が動かない。時計技師だと知られてからは、細かな道具を扱う仕事なら何でも回される。村人の仕事を手伝った後に兵士の道具を修理する日もあり、朝に家を出て夜まで戻れないことも珍しくなくなった。
その日は、軍が使っていた荷車の車軸を直す作業が長引いた。昼には戻れると思っていたが、部品を作り直す必要が出たため、食事を取る機会も逃した。村へ戻った時には、既に夜になっていた。老人の家では食事も終わりかけていた。
「俺の分は?」
アベルが尋ねると、老人が首を振った。
「今日は配給の時におらんかっただろう。最初から出とらん」
「そうか」
軍の管理が始まってから、食事は配給の時刻にその場にいる者へ取り分けられるようになっていた。以前なら帰りが遅くなっても誰かが残してくれたが、今は勝手に人数を増やすこともできない。母の皿には、薄いスープと一切れの黒パンが残っていた。
「まあ、何も残ってないよね?」
アベルが尋ねると、老人は首を振った。
「明日の朝までない」
「分かった」
アベルは水だけ飲み、椅子から立ち上がった。その瞬間、視界が暗くなった。机へ手をつこうとしたが間に合わず、膝から力が抜けた。
「アベル!」
母が駆け寄る。アベルは返事をしなかった。老人が肩を叩き、呼びかける。呼吸はしていたが、顔色はひどく悪かった。
「朝から何も食べとらんのか」
「そういえば、今日は朝も少しだけでした」
母は答えながら、自分の皿を見た。薄いスープが残っていた。配給が減ってから、母自身も十分には食べていなかった。それでも、そのスープは母の分として取り分けられたものだった。しかし、アベルもまた、少ない食事のまま連日の作業に出ており、疲労が溜まっていた。老人が母の視線に気づいた。
「やめとけ」
「もう……いい……」
「何を言ってる?朝になればまた配給がある」
「こんな状態なのに?」
「それでもだ」
母は動かなかった。アベルの頬を叩いても反応は弱い。名前を呼ぶと、わずかに眉が動く程度だった。
「アベル、聞こえる?」
返事はない。母はしばらくスープを見ていた。それから匙を取った。
「やめろ」
「分かっています」
「分かっとるなら」
「この子を、このままにはできません」
母はアベルの身体を支え、少しだけ上体を起こした。匙に取ったスープを唇へ触れさせる。最初は流れ落ちた。二度目に、アベルの喉がわずかに動いた。母はもう一匙を口へ運んだ。
「もうやめろ」
「まだです」
少しずつ飲ませていくと、アベルの呼吸が落ち着き始めた。やがて目が薄く開いた。
「……母さん?」
「喋らなくていいわ」
「これ……」
アベルは母の手にある匙を見た。そして、何を飲まされたのか理解した。
「母さんの、だろ」
「ええ」
「何で……」
「いいのよ」
アベルは起き上がろうとしたが、まだ力が入らなかった。
「もういい、いらない」
「いいの。飲んで」
母はそう言って、もう一匙をアベルの口元へ運んだ。
アベルは母の皿から、自分のものではない食事を口にしていた。
母は残っていたスープを少しずつアベルの口へ運び、皿が空になるまで飲ませた。それから空になった皿を重ね、いつも通り洗い始めた。老人は何も言わず、椅子へ戻った。アベルは横になったまま、その様子を見ていた。
「どうして」
「もう寝なさい」
アベルはそれ以上聞けないまま、横になって目を閉じた。身体にはまだ力が戻らず、そのままいつの間にか眠りに落ちていた。
どれほど経ったのかは分からなかった。激しい音で目を覚ました。扉が叩かれていた。一度や二度ではない。拳で壊そうとしているような音が、家中へ響いていた。アベルは毛布を跳ねのけた。
「誰だ!」
隣の部屋から老人が出てきた。母はすでに起きていた。扉の前から離れた場所に立ち、音を聞いている。
「母さん」
「来ないで」
「何?」
「そこにいて」
「誰かいるんだろ」
アベルが扉へ向かおうとすると、母の声が強くなった。
「触らないで!」
アベルは足を止めた。扉はまた激しく叩かれた。外から声はしない。
「兵士を呼んでくる」
老人が言うと、母は首を振った。
「行かないでください」
「このままにはできん」
「外へ出ないで」
母は二人を見た。
「私です」
アベルは眉を寄せた。
「何が?」
「私のところに来ているの」
「どういう意味だよ」
「さっきのスープよ」
扉が叩かれた。アベルは母を見た。
「あのスープを飲ませたから?」
「ええ」
「そんなことで人が死ぬわけないだろ」
「もう何人も死んだでしょう」
「じゃあ何で!」
母は答えなかった。アベルが一歩近づくと、母は後ろへ下がった。
「来ないで」
「スープを返せばいいのか?」
「もう食べたでしょう」
「じゃあ俺の明日の分を母さんに――」
「違うの。そういうことじゃない」
「何が違うんだよ」
「自分に出されたものは、自分で食べるの。人のものを取っても、自分の分を人へ渡してもいけないの」
「何で?」
「分からないわ。私も理由までは知らない。でも、そうすると、あれが来る」
扉を叩く音が続いていた。
「村で神様って呼ばれているものは、神様じゃないわ」
母は言った。
「じゃあ、何なんだ」
「私にも全部分からない。でも、食事のことだけは知ってる。決まりを破れば、あれが来る」
「じゃあ祈り所は?」
「あのお供えが続いている間は、あれは出てこなかった。私はそう教えられてきたの。軍が止めてから、人が死に始めた」
「そんなこと知ってたなら、最初から言ってくれればよかっただろ!」
母はしばらく黙った。
「あなたまで、この村のことを背負わせたくなかったの」
アベルは言葉を失った。
「知ったら、食事をするたびに気にするでしょう。誰かにものを渡すたびに思い出すでしょう。私はそうやって生きてきたから、あなたにはそうなってほしくなかった」
「でも今は」
「今は、もう知らないままでは済まないかもしれない」
母は一呼吸置いて言った。
「ルーエンの家に、残してきたものがあるの」
「何を?」
「昔から書き留めていたの。必要になるなんて思わなかったけど」
「何が書いてあるの?」
「私が祖母から聞いたこと。私の両親に起きたこと。私が知っていることは全部そこに書いた」
アベルが口を開こうとすると、母は先に続けた。
「でも、探さなくてもいい」
「何で?」
「知らなくて済むなら、その方がいいこともあるから」
扉が大きく鳴った。母は音の方を見なかった。
「もしルーエンへ戻ることがあって、それでも知りたいと思ったなら探しなさい。知った後も、それを抱えて生きる覚悟があるなら」
「母さんも一緒だ」
母は答えなかった。
「こんなの、何とかすれば――」
「アベル」
「お供えを戻せばいいんだろ」
「今夜のことには間に合わない」
「何で分かるんだよ」
「私の両親も同じことをしたから」
アベルは母を見た。
「じいさんと、ばあさん?」
「ええ」
「どういうこと?」
「それも書いてあるわ」
扉が叩かれた。今度は、それまでより近く聞こえた。アベルが反射的に振り返った。扉は閉まっている。閂もかかったままだった。老人が息を呑んだ。アベルが母へ視線を戻す。
母の背後には、男が立っていた。いつ入ったのか分からなかった。粗末な衣服を着た、背の高い、痩せた男だった。髪も顔も特別なものではなく、村のどこにでもいそうな人間に見える。ただ、その視線は母にだけ向けられていた。
「母さん!」
アベルが駆け寄ろうとした。母は手を上げた。
「来ないで」
男が母へ一歩近づいた。母は逃げなかった。
「私が渡したの。だから、あなたは何も悪くない」
母はアベルを見て言った。
「あとね、もう疲れたの。こんなおかしな食卓の決まりを、ずっと守って生きるのに」
男の手が母の頭へ伸びた。アベルには、その動きだけが妙にゆっくり見えた。男の指が母のこめかみから髪へ触れ、もう片方の手が首の後ろへ回る。母は抵抗しなかった。ただ最後までアベルを見ていた。
「母さん!」
駆け出そうとした瞬間、男の腕がわずかに動いた。母の顔が横を向く。肩は動いていないのに、首だけがさらにその先へ回った。
乾いた音が、一度だけした。母の膝から力が抜け、身体が崩れ落ちる。
「行くな!」
アベルが手を伸ばした時には、老人が後ろからその腕を掴んでいた。
男は倒れた母を見下ろしていた。アベルを見ることはなかった。アベルは急に目の前が揺れるような感覚に襲われ、思わず視線を落とした。ほんの一瞬だった。再び顔を上げた時には、男はもうそこにいなかった。扉は最後まで開かなかった。
母の葬儀は、翌々日に行われた。同じ時期に死亡した村人たちも相次いで埋葬され、村の墓地には新しい土の色が並んだ。軍の兵士も、今では夜になると一人で歩こうとしなかった。
アベルは葬儀が終わった後、老人の家へ戻った。母が使っていた寝台には毛布だけが残っていた。老人は暖炉の前に座っていた。
「聞きたいことがある」
アベルが言うと、老人は顔を上げた。
「祈り所の神様について、知ってることを全部教えてほしい」
老人はしばらく黙っていた。
「全部と言われても、わしが知っとることなんぞ大したことじゃない」
「それでもいい」
「お前の母親の方が、何か知っとったんだろう」
「俺にはほとんど話さなかった」
「そうか」
老人は火へ薪を一本入れた。
「ずっと昔、百年ほど前か。この村でひどい飢饉があったそうだ」
「百年前?」
「そうだ。冬が長くて、食うものがなくなった。その時、一人の男が母親を亡くした」
「それから?」
「食べ物は誰か一人が多く取っちゃいかん、皆で公平に分けなきゃいかんと村の者に教えたそうだ。男は死んだ後、この土地の食卓を守る神になった」
「それだけ?」
「わしが聞いたのはな」
「なら、お供えは何で二人分なんだ?」
「男と、その母親の分だ。二人を食卓から外さないために毎日供えるんだと聞いた」
「神様になったのは男だけなのに?」
「知らん。昔から二人分なんだ」
アベルは黙った。母が死ぬ前に話した内容とは、まるで違っていた。
「一度取り分けたものを人に渡すなっていうのは?」
老人は眉を寄せた。
「わしが子供の頃は、もっと厳しかったな。供えたものは絶対に触るな、食事も一度取り分けたら、渡すな取るなとよく言われた」
「何で?」
「聞いても、そういう決まりだからとしか言われんかった」
「後で戻せばいい場合は?」
老人は首を振った。
「それも駄目だと教えられた。『後で戻せばよいとは考えるな』とな」
「誰に?」
「親にも祖父母にもだ。あの頃の年寄りは、そこだけは妙に厳しかった」
老人は火を見た。
「今になって思えば、何か知っとったのかもしれんな。わしらには話さなかっただけで」
アベルは母の言葉を思い出した。ルーエンの家に、母が書き残したものがある。探さなくてもいい。それでも知りたいなら、知った後も抱えて生きる覚悟があるなら探せ。
アベルは暖炉の火を見つめた。今すぐ答えを出すことはできなかった。
その日の夕方にも、食事は出た。母はもういない。それでもアベルは、自分に取り分けられたパンと薄いスープを食べなければならなかった。母が自分へスープを飲ませ、そのために死んだことを思えば、食欲などあるはずもない。何を食べても、味はしなかった。
それでもアベルは残さず、口へかき込んだ。




