第四章 祈りが途切れた日
村へ来てから数日が過ぎた頃、夕食の席でルーエンの話になった。
老人の家では、その日も豆と根菜を煮たものが人数分に分けられていた。アベルたちが避難してから食卓につく人数は増えていたが、村にはまだ備蓄があり、少なくとも食事を抜かなければならない者はいない。
ルーエンから避難してきた親子の男の子が、前日に父親から聞いた話を思い出したらしく、軍の兵士には幽霊が出るのかとアベルへ尋ねた。
「幽霊?」
「お父さんが、兵隊の宿舎で出たって聞いたって」
父親が苦笑した。
「俺が聞いたんじゃない。村の連中が話してたんだよ。ルーエンから来た兵士がそんな話をしてたって」
「それなら、工場でも聞いたことがあります」
アベルが言うと、母が顔を上げた。
「どんな話?」
「夜中に扉を叩かれるっていう話だよ」
「それだけ?」
「いや……声も聞いたって話だったかな」
「声?」
「男の声で『食べたか』って。何を食べたのかまでは知らないけど」
母の手が止まった。
「……食事のことは?」
「食事?」
「その前に、誰かの食べ物を取ったとか、分けたとか……そういう話はなかった?」
アベルは眉を寄せた。
「そこまでは聞いてないよ。何で食事?」
母は答えなかった。
「母さん?」
「その人たち、いつ頃の話?」
「ルーエンを出る何日か前だったと思う」
「その人たちは……村へ来た兵隊と同じ人たちなの?」
「知らないよ」
母はしばらくアベルを見ていた。
「……もしかして、あれはルーエンにまで行ってしまったの?」
「何が?」
老人が器を置いた。
「その話はもういい」
アベルは老人を見た。
「でも母さん、今――」
「くだらん兵隊の怪談だ。飯の時にする話じゃない」
「怪談かどうかじゃなくて、母さんが何か知ってるみたいだから」
「今は、そんな気味の悪い話はやめろ。飯がまずくなる」
老人はそれ以上話すつもりがないらしく、パンをちぎった。母も何も言わなかった。アベルは納得できなかったが、食卓で問い続けることはしなかった。
母が「あれ」と呼んだものが、祈り所に供えられている土地神を指しているのか、それとも別の何かなのかも分からない。ただ、兵士が祈り所の皿へ触れたと聞いた時の母と、今の母が同じ顔をしていることだけは分かった。
その数日後、王国軍が村へ入った。ルーエンは帝国軍の襲撃を受けたものの陥落せず、工場や倉庫の一部を失った後も王国軍が都市を維持しているという。帝国側が再び攻撃する可能性があるため、軍はルーエン周辺の街道と集落を直接管理し、食料や物資についても把握する方針を取った。
村へ来たのは二十人ほどの兵士だった。指揮を執る部隊長は教会前へ村人を集め、今後は村にある穀物、塩漬け肉、豆、家畜の数を軍へ届け出るよう命じた。必要な量は村人へ配給するが、余剰分については軍が使用する可能性があるという。
「余剰なんてありませんよ」
村人の一人が言った。
「冬を越す分を残して、余るものなんてない」
「それを判断するのはこちらだ」
「俺たちが食べる分まで持っていくのか」
「必要量は残すと言っている」
不満は出たが、武装した兵士を前に拒否できる者はいなかった。保存庫の中身が数えられ、各家庭の備蓄も確認された。翌日からは軍が全体量を管理し、その日に必要な食料を各家庭へ渡すことになった。村人が勝手に隠せば軍への物資隠匿とみなすとも告げられた。
話が終わりかけた時、祈り所の当番をしていた年配の女が前へ出た。
「二人分だけ、別にしてもらえませんか」
部隊長が女を見た。
「何の二人分だ」
「村外れに祈り所があります。毎日、二膳のお供えをする決まりなんです」
「誰に食わせる」
「食べさせるんじゃありません」
「なら必要ない」
「そういうものじゃないんですよ。百年近く続けてるんです」
「百年続けていようが、食わないものに食料は出せん」
別の老人も口を挟んだ。
「そこだけは触らんでください。二膳だけでいい」
「戦時中だぞ」
「だからこそです」
「祈れば帝国軍が帰るのか?」
誰も答えなかった。
部隊長は鼻で笑った。
「食料は人間に食わせる。神だろうが何だろうが、食わない者の分はない」
母がアベルの隣で小さく息を吸った。
「駄目です」
村人たちが振り返った。
普段、大勢の前で意見を言うことのない母だった。
「お供えだけは、今まで通りにしてください」
部隊長が母を見た。
「理由は?」
母はすぐには答えなかった。
「……昔から、そう決まっています」
「それは理由にならん」
「お願いします」
「却下だ」
その日のお供えはもうされていたので、軍もそのままにした。だが当番の家では、翌日の供物にする黒パンと豆が二人分だけ別に取り分けられていた。部隊長はそれを見つけると、軍の管理分へ戻すと言った。
「待ってください。それは明日のお供えの分です」
「まだ供えてもいないだろう」
「でも、これは使ってはいけないんです」
「食料があるなら人間に食わせる」
部隊長は二人分のパンを自ら軍の食料箱へ放り込み、豆の入った容器も兵士たちの食料の側へ移した。翌日、祈り所には何も置かれなかった。
老人たちは何度も軍へ頼みに行ったが、命令は変わらなかった。若い村人の中には、これを機会に古い習慣をやめてもいいのではないかと言う者もいた。これまで百年近く続けてきたのだから、一日や二日抜けても何も起きないだろうという者もいた。母だけは、日が落ちてからも祈り所の方角を気にしていた。
「母さん」
「今日は自分の皿のものだけ食べなさい」
「何?」
「誰かにあげないで。誰かのものも、もらわないで」
「どうしたんだよ」
「今は、それだけ守って」
「理由を教えてよ」
母は答えなかった。
「お願い」
その声を聞いて、アベルはそれ以上尋ねなかった。
翌朝、部隊長が死んだ。夜明け前、村の教会を借りていた軍の詰所から兵士が飛び出し、軍医を呼んだ。やがて村人にも、部隊長が自室で死亡したという話が伝わった。アベルが知ったのは、遺体が運び出される時だった。血は出ていなかった。ただ、頭が肩に対して明らかにおかしな方向を向いていた。
転倒して首を折ったのではないかという話も出たが、部屋の家具は倒れておらず、争った跡もない。夜中に同じ建物にいた兵士が、部隊長の部屋の扉が激しく叩かれる音を聞いたとも証言した。しかし廊下には誰もおらず、見張りも不審者を見ていなかった。
軍はすぐに村人を疑った。祈り所へのお供えを止めたことへの報復ではないかという話になり、数人の男が事情を聞かれた。村人は全員否定し、兵士も誰かが部隊長の部屋へ入った形跡を見つけられなかった。指揮を引き継いだ上官は、村人の反抗的な態度が事件を招いたと考えたらしい。
「今日から配給を減らす」
教会前で告げられた言葉に、村人たちがざわめいた。
「犯人が分かるまでだ。軍に逆らえばどうなるか覚えておけ」
「子供もいるんですよ」
「一日二日減ったところで死にはせん」
「そんな無茶な」
「黙れ」
すでにその日の食料は各家庭ごとに取り分けられていた。兵士は命令に従い、並べられていた袋からパンや豆を取り上げ、軍の食事へ回すため別の箱へ移し始めた。母がアベルの腕を掴んだ。
「見ないで」
「え?」
「離れて」
上官は村人たちの前に立ったまま、兵士へ指示を続けていた。その時、上官の身体が止まった。何かに気づいたように目を見開いたが、声は出なかった。両手がゆっくりと持ち上がり、自分の頭の両側へ触れる。まるで、そこにある見えない手を振りほどこうとしているようだった。
「何を――」
誰かが声をかけた。上官の顔が、ゆっくりと横を向き始めた。最初は、自分で振り返ろうとしているように見えた。しかし、肩は動いていない。首だけが回っていた。
上官の両手は頭の両側に添えられたまま、必死に何かへ逆らうように震えている。それでも顔は止まらない。人間が自分で動かせる範囲を越え、顎が肩の上を通り過ぎても、なお少しずつ横へ引かれていく。
誰にも触れられていなかった。それなのに、頭だけが、誰かに両手で掴まれているように動いていた。小さく、軋むような音がした。上官の口が開いた。悲鳴は出なかった。目だけが大きく開かれていた。何かを訴えるでもなく、助けを求めるでもない。恐怖さえ消えてしまったような眼球が、顔の向きとは関係なく、しばらく正面にいる村人たちを見ていた。
誰も動けなかった。止めなければならないと分かっているのに、兵士たちでさえ手を伸ばせなかった。もう一度、嫌な音がした。今度は、誰の耳にもはっきりと聞こえた。
上官の顔は、とうとう真後ろを向いた。その背後に立っていた兵士と、目が合った。兵士は息を呑んだ。上官の目は大きく開かれていたが、そこにはもう助けを求める色も、痛みに耐える表情もなかった。ただ、感情の抜け落ちた眼球だけが、兵士を見ていた。
次の瞬間、見えない両手が上官の頭から離れたように、その身体が急に力を失った。捻られた首を残したまま、上官は地面へ崩れ落ちた。
倒れた後も、誰もすぐには近づかなかった。兵士たちでさえ、しばらくその場から動けなかった。
その日から、村の空気が変わった。軍は食料管理を解除しなかった。指揮官が短期間に二人死亡したため命令系統は混乱し、村人の中に犯人がいる可能性を捨てきれず、見張りを増やした。祈り所には、お供えはされていないままだった。
数日後、ルーエンから避難してきた親子の父親が死んだ。その日の配給は少なかった。男の子が食事を終えても腹が減ったと言い、父親は自分の皿に残っていたパンを半分に割って渡した。老人は止めた。
「やめろ」
「子供が腹を空かせてるんです」
「自分の分をやるな」
「前にも言われましたけど、こんな時に何を言ってるんですか」
「いいから戻せ」
「俺は大人ですよ。一食くらい減ったって平気です」
父親は息子へパンを渡し、男の子は食べた。
その夜、老人の家の扉が激しく叩かれた。そのまま外へ出た父親は、物置の前で倒れているところを見つけられた。首には外傷がなく、血も出ていなかったが、部隊長と同じように、頭は不自然な方向を向いていた。
さらに二日後、別の家でも同じことが起きた。早朝、近所の者が子供の泣き声を聞いて家へ向かった。中では母親が倒れており、すでに死んでいた。そばにいた子供は、母親に配られていたはずのパンを手に持ったまま泣いていた。
アベルは老人たちの言葉を思い出した。自分の皿へ出されたものは人へやるな。人のものを勝手に取るな。食事は平等にしろ。理由を尋ねても、「昔からそうするものだ」としか返ってこない、この村の古い作法だった。
死んだ者たちは、どれもそれを破っていた。最初の部隊長は、祈り所へ使うはずだった食料を取り上げた。次の上官は、村人へ渡された配給を取り上げた。避難してきた父親や、おそらく若い母親も、自分のパンを分け与えた。奪った者も死んだ。与えた者も死んだ。理由も行動も正反対なのに、昔から年寄りたちが止めていたことばかりだった。
偶然だと言ってしまえば、それまでだった。しかし、祈り所へのお供えが途切れた直後から人が死に始めている。母は兵士たちの扉が叩かれた話を聞いた時、「あれはルーエンにまで行ってしまったの」と言った。そして今、この村では食卓の古い決まりを破った者が続けて死んでいる。
アベルは村外れの祈り所を思い浮かべた。村人たちは、あそこにいるものを土地の神だと言っていた。冬の食卓を守る神。食べ物を大切にすることを教えた神。誰も飢えないように、食事は公平に分けるのだと。けれど、いくら皆が食べられるようにと願い、平等に分けることを教える神だと言われても、子供へ自分のパンを与えた父親まで神は殺すものだろうか。何をすれば死ぬのかも、なぜお供えをすれば何も起きなかったのかも、まだはっきりとは分からなかった。
ただ一つ、これまで意味のない因習にしか見えなかった村の作法が、今回の一連の死と無関係ではないように思え始めていた。




