第三章 山麓の村
ルーエンを出てから一日目は、街道沿いの小さな集落で夜を明かした。
都市から離れるにつれて、行き交う人間の数は減っていった。反対方向から来る荷車の中には、家財を積んだものもあれば、軍へ納める薪や穀物を運んでいるものもある。途中で何度か王国軍の兵士に呼び止められたが、アベルが工場で働いていた職人であることと、母の故郷へ避難する途中だと説明すると通された。
母は歩く速度が次第に落ちていた。普段なら二日で着く道だというが、初日の夕方にはこれ以上進ませるのは難しいとアベルが判断した。街道から少し外れた集落で空いている納屋を借り、持ってきた毛布を敷いて休むことにした。
「足、大丈夫?」
「少し痛いだけよ」
「明日はもっと休みながら行こう」
「そんなことしてたら日が暮れるわ」
「日が暮れたらまた休めばいい。着けばいいんだから」
母は靴を脱ぎ、足首をさすった。
「昔はもう少し近かった気がするんだけど」
「道の長さは変わらないよ」
「私が年を取ったのよ」
翌朝は日が昇ってから出発した。東へ進むにつれて街道は狭くなり、舗装された道も次第に土の道へ変わった。北側には低い丘が続き、南東には森林が広がっている。その向こうに山が見え始めた頃、母はようやく見覚えのある場所が増えてきたらしく、分かれ道のたびに迷わず進む方向を示した。
「まだ覚えてるんだね」
「生まれたところだもの」
「じゃあ迷う心配はないか」
「道が変わっていなければね」
昼を過ぎてから、小さな川を渡った。そこからさらに山側へ進むと、畑が見え始めた。収穫を終えた後らしく、多くは土がむき出しになっており、ところどころに刈り取った麦の茎が残っている。畑の向こうには石と木で造られた家々がまとまり、その奥に小さな教会の鐘楼が見えた。母が足を止めた。
「ここよ」
「ここが?」
「ええ」
アベルは村を見た。ルーエンと比べれば小さい。大通りも市場もなく、家の数もそれほど多くない。村の周囲には畑と牧草地が広がり、そのさらに外側を森が囲んでいた。母はしばらく村を見たまま動かなかった。
「行こうか」
アベルが言うと、母は頷いた。村へ入ると、最初に気づいたのは人の視線だった。見慣れない男が銃を背負い、荷物を持って入ってきたのだから当然だった。畑仕事をしていた者が手を止め、家の前にいた女がこちらを見る。母の顔を見て気づいた者がいたらしく、やがて年配の女が近づいてきた。
「あんた……」
母も相手を見た。
「久しぶりです」
「本当に戻ってきたのかい」
女は母の顔をしばらく見た後、アベルへ視線を移した。
「息子かい?」
「そうです。アベル」
「父親によく似てる」
アベルは少し驚いた。
「父を知ってるんですか?」
「結婚する前に一度だけ連れてきたんだよ。この人が」
「そんなこと、一度も聞いてない」
「話してないもの」
母はそれ以上説明しなかった。ルーエンが襲撃されたことはすでに村にも伝わっていた。数日前にも避難してきた家族があり、村では空いている部屋や納屋を使って受け入れているという。アベルと母も追い返されることはなく、母の親族にあたる老人の家へ案内された。老人は母より二十歳ほど年上に見えた。
「今さら戻ってくるとは思わなんだ」
母は荷物を床へ置いた。
「私も思っていませんでした」
「ルーエンは?」
「まだ陥ちてはいません」
「なら、落ち着いたら戻るのか」
母は一瞬黙った。
「そのつもりです」
老人はそれ以上聞かなかった。家にはすでにもう一組、ルーエンから避難してきた親子が身を寄せていた。三十代ほどの夫婦と、まだ十歳にもならない男の子だった。父親は港で荷運びをしていたらしく、襲撃が始まる前日に仕事で村近くまで来ており、そのまま妻子を呼び寄せたという。
夕食は大きな鍋で作った豆と根菜の煮込み、それに黒パンだった。老人の家の者が人数を数え、最初にそれぞれの皿へ煮込みをよそった。大人の男には少し多く、子供と母には少なめに盛られている。アベルは家で母が何でも同じように分けたことを思い出したが、この家では最初から全員同量というわけではないらしい。食事を始めて少しすると、避難してきた男の子が父親の皿を見た。
「お父さん、それ一個ちょうだい」
父親は煮込まれた芋を匙ですくった。
「これか?」
「うん」
男が息子の皿へ移そうとした時、老人が顔を上げた。
「やめとけ」
父親の手が止まった。
「え?」
「自分の皿に入ったものを他人へやるな」
「芋一つですよ」
「なら最初から子供の方へ入れてもらえ」
男の妻が苦笑した。
「この子、さっきいらないって言ったんですよ」
「なら今日はなしだ」
「別にいいじゃないですか」
「昔からそういう決まりだ」
男の子は不満そうな顔をしたが、父親は芋を自分の皿へ戻した。母は何も言わなかった。
翌朝、別の家で食事を手伝っていた時には、若い母親が自分のパンを半分に割り、幼い娘へ渡しているのをアベルは見た。
「昨日は止められたけど」
アベルが言うと、女は笑った。
「年寄りは細かいのよ」
「村の決まりじゃないの?」
「昔はそうだったらしいけどね。今は気にする人の方が少ないわ」
女は娘の皿へパンを置いた。
「お腹が空いてるなら食べさせるでしょう、普通」
娘はパンを食べ、女もそのまま仕事を続けた。
同じようなことは他の家でもあった。父親の皿には最初から肉を多く盛り、幼い子供には少なくする家もある。子供が嫌いな野菜を兄弟へ渡すこともあり、親が自分の食べ物を一口分けることもあった。
それでも年配者だけは違った。一度それぞれの皿へ分けた後に食べ物を動かそうとすると嫌な顔をする。交換しようとすれば止める者もいる。理由を尋ねても、答えは曖昧だった。
「昔からそうするもんだ」
「食べ物を粗末にすると神様が怒る」
「決めたものは決めたまま食べりゃいい」
それ以上の説明をできる者はいなかった。アベルは母にも尋ねてみた。
「母さんも同じことするよね」
母は洗った皿を布で拭いていた。
「何が?」
「きっちり分けるし、一度皿に置いたものを他の人に分けるのも嫌がるだろ」
「そうだったかしら」
「ずっとそうだよ」
「じゃあ、この村で覚えたんでしょうね」
「でも若い人は普通に分けてるよ」
母の手が一瞬止まった。
「若い人はね」
それだけだった。
村へ来て三日目、アベルは村外れで妙なものを見つけた。畑の端から森へ入る手前に、腰ほどの高さしかない石造りの建物があった。祠というほど装飾されたものではなく、三方を石壁で囲い、正面だけを開けた小さな祈り所だった。中には二人分の食事が置かれていた。その日の料理は黒パンと豆の煮込みだった。二枚の皿には同じ大きさのパンが置かれ、煮込みもほぼ同じ量ずつ盛られている。アベルは足を止めた。母も隣で立ち止まった。
「これ、前からあるの?」
「ええ」
「教会とは別?」
「別よ」
そこへ籠を持った年配の女が歩いてきた。お供えを用意した当番らしい。
「今日はうちの番なんだよ」
アベルは祈り所を見た。
「毎日お供えするんですか?」
「毎日」
「二人分?」
「そうだよ」
「誰に?」
女は少し考えた。
「この土地の神様と、そのお連れに」
「お連れ?」
「私もそう聞いただけだよ」
女は皿の位置を確認した。
「夕方までは触るんじゃないよ」
「夕方になったら?」
「燃やす」
「食べないんですか?」
「神様に出したものを人間が食べるもんじゃない」
祈り所の横には、小さな石造りの炉があった。決められた時間になると、供えていた料理はそこへ入れられ、焚き上げられるという。翌日には別の家が新しいお供えを用意する。それを毎日繰り返している。
「いつから?」
「さあね」
女は首を傾げた。
「私が生まれる前からだし、そのまた親が生まれる前からだろうよ」
アベルは二枚の皿を見た。パンの大きさも、煮込みの量も同じだった。
「戦争中でも続けるんですか?」
女がアベルを見た。
「そりゃ続けるよ」
「食料、足りなくなるかもしれないのに?」
「二人分くらいで村が飢えるなら、減らしたところで同じさ」
別の若い男が通りかかり、話を聞いて笑った。
「婆さんたちはこうなんだよ」
「何だい」
「今年くらいやめても神様も怒らないって」
「馬鹿言うんじゃない」
「だって毎日燃やすんだぞ。ルーエンじゃ食べ物が高くなってるっていうのに」
「だから何だ」
「もったいないって話だよ」
女は男を睨んだ。
「お供えだけは欠かすなって、昔から決まっとる」
「何で?」
「決まっとるからだ」
若い男は肩をすくめ、そのまま歩いていった。母は二人のやり取りを黙って聞いていた。
「まだ続いているのね」
小さな声だった。
アベルは母を見た。
「知ってた?」
「子供の頃は、私も当番をやったことがあるわ」
「じゃあ母さんもこれ作ったの?」
「家族と一緒にね」
「神様のことも知ってる?」
「昔からいる……土地の神様よ」
答えはそれだけだった。しかし母の表情は、村へ到着してから初めて少し安心しているように見えた。
その日の午後だった。アベルが老人の家で壊れた戸棚の蝶番を直していると、外から話し声が聞こえた。祈り所の当番をしていた女が母と話していた。
「そういえば、少し前に兵隊が来た時は困ったよ」
母の手が止まった。
「兵隊?」
「ルーエンの方から来た若いのが何人か。あれを見て笑ってね」
「あれって、祈り所を?」
「そう。食べもしないものを供えるのはもったいないとか言って」
母は女を見た。
「何をしたの?」
「お供えを持ち上げたりして、まじまじと見てたわ。食べちゃいない」
「触ったの?」
「大丈夫だよ。ちゃんと戻したから」
「誰が触ったの」
女は少し驚いた。
「さあ。若い兵隊が二、三人」
「その人たちは、その後どこへ?」
「ルーエンへ戻ったんじゃないかね。こっちへ来る途中だって言ってたから」
母は黙った。アベルは蝶番を持ったまま母を見た。女は母の様子に気づかなかったらしい。
「年寄り連中は大騒ぎだったけど、何も起きなかったよ。お供えも減ってなかったし」
「……そう」
母は祈り所のある方角を見た。
「本当に、何もなかった?」
「何もないよ」
「その後も?」
「だから大丈夫だって」
女は笑ったが、母は笑わなかった。
その日の夕方、アベルは村人たちと保存庫の修理へ向かった。戦争がいつまで続くか分からない以上、村でも冬支度を急ぐ必要があった。穀物を入れる木箱の隙間を埋め、壊れた棚を補強し、鼠が入った跡のある壁を修理する。時計ほど細かな仕事ではなかったが、工具を扱える人間は重宝された。
別の日には薪を運び、狩りから戻った男たちが持ち帰った肉を燻製にする作業も手伝った。塩は以前より貴重になっており、保存に使う量も細かく決められていた。
村人たちは避難してきたアベルたちを特別扱いしなかった。働ける者は働き、食事の時にはその場にいる人数に応じて取り分ける。体の悪い老人にも食事は出され、幼い子供の分が削られることもなかった。ルーエンから来た親子にも、村人と同じように食料が渡されている。ただし、余裕があるわけではなかった。
「あと何人来たら厳しい?」
保存庫でアベルが尋ねると、穀物を数えていた男が手を止めた。
「あと何人、なんて分からんよ」
「今いる人数なら冬は越せる?」
「予定通りならな」
「予定通り?」
「雪が早くなけりゃいい。家畜が病気にならなきゃいい。兵隊に持っていかれなきゃいい。それだけ全部うまくいけば、だ」
男は袋の口を縛った。
「昔ほどじゃない。街道もあるし、ルーエンが無事なら春まで何とかなる。でも戦争になると、どこから何を持っていかれるか分からん」
アベルは保存庫の中を見た。麦、豆、干した根菜、塩漬け肉。少なくはない。しかし、無限にあるわけでもなかった。
村外れでは、その日も二人分の食事が石の祈り所へ運ばれていた。




