第二章 扉を叩く音
戦争が始まってから、ルーエンを出入りする兵士の数はさらに増えていた。都市の北側にある倉庫には武器や火薬が運び込まれ、東へ延びる街道では周辺の村や集落を巡回する部隊も見られるようになった。そのうちの一隊が、ルーエンから東へ二日ほど離れた山麓の村へ立ち寄ったのは、まだ雪の降り始める前のことだった。
村には宿屋と呼べるほどのものはなく、旅人や兵士が来れば空いている納屋や集会所を貸す程度だった。若い兵士たちは水と食料を受け取り、しばらく休んだ後、村外れにある石造りの小さな祈り所を見つけた。中には二枚の皿が並べられていた。同じ大きさのパンと、豆を煮たものが同じ量ずつ盛られている。
「こんなところに食事を置いてどうするんだ?」
兵士の一人が尋ねると、近くにいた老人が祈り所へ目を向けた。
「供え物だ」
「誰に?」
「この土地の神様にだよ」
「そんな神いたか?」
「ここにはいる」
「しかも二人分も。夫婦の神か何かか?」
「知らんでもいい。触るな」
老人はそれだけ答えた。兵士たちは顔を見合わせた。戦争が始まり、ルーエンでは食料の値段が上がっている。軍でも配給量が以前より細かく管理されるようになり、保存食を残しておくよう命じられていた。そのような中で、誰も食べない料理が二人分置かれている。
「毎日やってるのか?」
「毎日だ」
「もったいないな」
若い兵士の一人が祈り所へ近づいた。
老人が眉を寄せた。
「触るな」
「見るだけだって」
「見るならそこから見ろ」
兵士は笑った。石造りの台に並べられた二枚の皿には、特別な装飾もない。料理も村人が食べているものと変わらず、神へ捧げるものとしては質素だった。
「毒でも入ってるのか?」
一人が皿を持ち上げた。
「やめろと言っとるだろう」
老人の声が強くなった。別の兵士が横から手を伸ばし、もう一方の皿を持ち上げた。
「ちゃんと同じところに戻せばいいだろ」
「置け」
「分かったよ」
兵士は皿を元へ戻した。
出発の時間になると一隊は村を離れ、その日のうちにルーエンへ向かう街道へ戻った。村人たちは兵士の姿が見えなくなってから祈り所へ集まり、皿の位置を確認した。料理が減っていないことを確かめ、動かされた皿を元の場所へ戻す。年寄りの一人は新しく用意し直すべきだと主張したが、当番をしていた家の者は、食べられてはいないのだからそのままでいいだろうと言った。結局、その日のお供えは決められた時間までそのまま置かれ、その後、いつものように祈り所脇の炉で焚き上げられた。
それから数日が過ぎた。ルーエンへ戻った兵士たちは、村で見た祈り所のことなどほとんど忘れていた。
軍の宿舎では、決められた時刻になると食事が配られる。人数を確認し、それぞれの皿へパンと肉、薄いスープを分けていく。食料の量が以前より減ったため、配給を担当する兵士は一人分ずつ数を合わせていた。その日の夕食時、一人だけ戻ってこない兵士がいた。
「またあいつか」
同僚の一人が、誰も座っていない席を見た。訓練の後に道具の片付けを命じられたらしく、食事の時刻には間に合わないらしい。皿にはすでに一人分のパンと肉が置かれていた。
「冷めるぞ」
「戻るまで置いとけばいいだろ」
「昨日も遅かったじゃないか」
一人が空席の前へ座り、その兵士の肉を一切れ取った。
「遅刻した罰だ」
「おい、怒るぞ」
「代わりに俺の保存食をやるよ」
それを聞いて、別の兵士もパンをちぎった。最初は一口だけだった。誰かが食べると、それを見ていた者も手を伸ばした。皿に残っていた肉が減り、最後にはパンまでなくなった。
「全部食ったのか」
「ちゃんと代わりは置いとくって」
兵士の一人が荷物から干し肉を取り出し、空になった皿へ置いた。別の者も固い保存用のパンを出した。しばらくして、遅れていた兵士が戻ってきた。
「俺の飯は?」
「あるだろ」
「これ俺のじゃないだろ」
「いいものに替えてやったんだ」
「勝手に食うなよ」
「遅刻した罰だ」
「片付け押しつけられてたんだよ」
文句を言いながらも、兵士は置かれていた保存食を食べた。
「腹にはたまるけど、あんまり美味くないんだよ」
ぼやきながらも食べ切り、それ以上問題になることもなかった。
その夜、宿舎の灯りが落ちてしばらくした頃だった。一人の兵士の部屋の扉が叩かれた。最初に音を聞いた兵士は、隣室の誰かがふざけているのだと思った。三度、間を置いて、また三度。その合間に、扉の向こうから微かな男の声がした。
「……たべたか」
「誰だ!」
返事はない。兵士は寝台から起き上がり、扉へ近づいた。また叩かれた。今度は強かった。拳で殴りつけているような音が廊下へ響いた。
「何の用だ!」
兵士が扉を開けた。誰もいなかった。薄暗い廊下が伸びているだけだった。向かい側の部屋でも扉が開いた。
「お前か?」
「違う。そっちだと思った」
「今、叩いただろ」
「俺のところもだ」
さらに奥の扉が開いた。
「誰だよ、こんな夜中に」
同じ音を聞いた者が次々と部屋から出てきた。
翌朝になると、宿舎では誰かの悪戯だろうということで話はまとまった。複数の部屋を順番に回ったのだろうと言う者もいれば、酔った兵士が覚えていないだけだと言う者もいた。しかし、誰がやったのかは分からなかった。
それから似た話が兵士の間で広がり始めた。夜中に扉を叩かれた。開けても誰もいなかった。廊下を見ても足音すら聞こえなかった。
アベルがその話を初めて聞いたのは、軍の工場で昼食を取っている時だった。
「幽霊だってさ」
隣に座っていた職人が笑った。
アベルは支給されたパンをちぎりながら顔を上げた。
「何が?」
「宿舎で夜中に扉を叩くらしい。開けても誰もいないんだと」
「誰かがふざけてるんじゃないですか」
「それが、何人も同じこと言うらしいぞ」
「兵士も暇じゃないでしょう」
「だから幽霊なんだって」
職人は面白がっていた。アベルも、その時はそれ以上考えなかった。それよりも、工場へ運び込まれる仕事の量の方が現実的な問題だった。
時計店を開けられる時間は日に日に短くなった。アベルは朝から工場へ入り、銃の機構に使われる小さな金属部品を削り、寸法を測り、使えないものを選別した。軍から求められる数は増え続けていた。ある日、工場へ入ると職人たちが入口付近に集まっていた。
「どうしたんです?」
アベルが尋ねると、年上の職人が声を落とした。
「倉庫が一つやられたらしい」
「火事ですか?」
「帝国だ」
アベルは相手の顔を見た。
「昨夜、北東の監視所が襲われた。さっきその先の倉庫も一つやられた。こっちへ来るかもしれん」
それまで戦争は、ルーエンへ物資を運び込み、職人を働かせるものだった。戦場はもっと遠くにあるはずだった。
その日の午後、工場では作業が中止された。軍の命令が飛び交い、完成した武器を倉庫から運び出す兵士が走り回っていた。職人たちは帰宅を命じられたが、その時点でも市民には詳しい説明はなかった。
アベルが工場を出た直後、遠くで音がした。雷とは違った。低い音が続き、その後で建物の窓が震えた。通りにいた人々が足を止めた。次の音はさらに近かった。誰かが叫び、軍の鐘が鳴り始めた。
「帝国軍だ!」
その声が聞こえた瞬間、人の流れが変わった。市場から人が走り出し、店主たちは戸口の商品を中へ入れ始めた。軍用の荷車が道を塞ぎ、兵士が住民を脇へ寄せる。
アベルは工場へ引き返した。入口には兵士がいた。
「戻るな!」
「家に母がいるんです」
「なら家へ行け! ここは閉鎖する!」
アベルは立ち止まり、工場の中を見た。壁際の棚に、組み立て前の銃が並んでいた。
「一本持っていきます」
「何?」
「家まで戻るのに必要です」
「待て」
アベルは近くにあった銃を取った。扱い方は工場で見ていた。試射をしたこともある。自分が作った部品が正しく動くか確認するためだったが、それを人へ向けたことはない。兵士は止めようとしたが、外でもう一度大きな音が響いた。
「弾も持っていけ! 帝国兵に渡すなよ!」
小さな弾薬袋を投げられ、アベルは受け取った。
「ありがとうございます!」
家までの道は、朝とは別の街のようになっていた。人が多いのに店は閉まり始めている。荷車が逆方向へ走り、泣いている子供を抱えた女が道端で立ち尽くしていた。帝国軍が狙っているのは工場と軍の倉庫らしく、住宅地で戦闘が始まっているわけではなかった。それでも、どこまで敵が入り込んでいるのか誰にも分からなかった。アベルは走った。時計店の扉は閉まっていた。
「母さん!」
鍵を開けて中へ入る。
母は店の奥にいた。
「アベル」
「怪我してない?」
「大丈夫よ。外で何が起きてるの?」
「帝国軍が来た。工場と倉庫が狙われてるみたいだ」
母はアベルが持っている銃を見た。
「それは?」
「工場から持ってきた。念のため」
母は何も言わなかった。外で再び鐘が鳴った。アベルは窓から通りを確認した。市街地へ帝国兵が入ったという情報はまだなかったが、工場側から煙が上がっている。王国軍が迎撃している以上、戦闘がどちらへ動くかは分からない。
「ここを出よう」
母はアベルを見た。
「どこへ?」
「東へ行く。村なら軍事施設もないし、帝国軍がわざわざ追ってくる理由もない」
「村って……」
「母さんの村」
母は黙った。
「他に行く場所がない。南へ行く街道は軍が使ってるし、港も危ない。ここに残って戦闘が広がる方がまずい」
母はまだ答えなかった。アベルは銃を机へ置き、棚から袋を取り出した。
「今日中に街を出る。暗くなってからじゃ道が分からない」
「アベル」
「何?」
「本当に、あの村へ行くの?」
それまで母が村について話す時とは声が違っていた。嫌がっているだけではなかった。アベルは手を止めた。
「他に安全そうな場所があるなら、そっちでもいい」
母はしばらく何も言わなかった。
「……ないわ」
「なら行こう」
母は時計店の奥を見た。三年間暮らした家だった。父の死後、南から持ってきた家具もあり、思い出の品も残されている。しかしすべてを持ち出すことはできない。衣類を数枚、保存食、水筒、火を起こすための道具、毛布。アベルは自分の工具から必要なものだけを選び、小さな箱へ詰めた。母も荷物をまとめた。
「それだけ?」
「二日でしょう」
「途中で道が塞がってるかもしれない」
「増やしたら歩けないわ」
アベルは店の中を見回した。壁には時計が並んでいる。どれも変わらず動いていた。振り子が左右へ揺れ、それぞれ少しずつ違う音を立てている。
「閉めていけばいいよ」
アベルはそう言って店の戸締まりをした。二人がルーエンを出たのは、日が傾き始めた頃だった。東門には同じように都市を離れようとする人々が集まっていた。軍は住民を完全には止めておらず、荷物を確認した後、順番に外へ通している。
門を抜ける前に、アベルは一度だけ振り返った。遠くに煙が上がっていた。その下には、自分の店がある。戻れるかどうかは分からなかった。母は振り返らず、東へ続く街道を見ていた。
その先にあるのは、母がこの三年間、一度も訪れようとしなかった故郷だった。




