↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァルデン地方の正しい食卓  作者: 巴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/15

第一章 北部都市ルーエン

 王国最北端、ヴァルデン地方の都市ルーエンは、古い街ではない。


 建設されたのは、およそ八十年前のことだった。北には海があり、東には山と森林が続き、そのさらに奥には小さな村々が点在している。冬になれば雪に閉ざされる土地ではあったが、港と街道が整えられてからは南部から穀物や塩が運ばれるようになり、周辺の村で採れた木材や毛皮、薬草はルーエンを経由して王国各地へ流れるようになった。


 それ以前のヴァルデン地方では、冬を越せるだけの食料を蓄えられるかどうかが、その年の最大の問題だったという。今でも年寄りは昔の冬を語りたがるが、アベルがルーエンへ移り住んでから三年の間に、飢えに直面したことは一度もなかった。


 冬になれば野菜の種類は減り、小麦の値段も上がる。それでも金を払えばパンが買えた。肉屋には塩漬け肉が吊られ、港には魚が上がり、保存庫には秋のうちに運び込まれた穀物が積まれている。


 アベルは大通りから一本入った通りで、小さな時計店を営んでいた。店の正面には振り子時計が一つ置かれ、壁には大小の時計が十数個並んでいる。どれも時刻が少しずつ違っているように見えるが、実際にはほとんど同じだった。秒を刻む仕組みが違うため、音だけが重なりきらず、店の中では朝から晩まで細かな金属音が途切れない。アベルはその音を気にしたことがない。幼い頃から聞いていたからだった。


「これ、また止まってしまってね」

 常連の女が持ち込んだ置時計を受け取り、アベルは裏蓋を開いた。針を動かし、巻き上げ部分を確認し、細い工具で歯車を一つずつ押していく。大きな破損はない。油が固まり、歯車の動きを悪くしているだけだった。


「壊れてはいません。掃除すれば動きます」

「買い替えなくていい?」

「まだ使えますよ」

「商売が下手ねえ。新しいのを売ればいいのに」

「まだ使えるものですし、新しいのを勧めるのも変でしょう」

女は笑い、アベルは分解した部品を小皿へ並べた。


 父なら、この程度の故障は客の目の前で直したかもしれない。時計技師だった父は、仕事となるとひどくせっかちな人だった。工具を置く場所、部品を並べる順番、油を差す量まで決めており、幼いアベルが一本でも違う場所へ置けばすぐに注意された。


 父が事故で亡くなった時、アベルはすでに一人で仕事を任される程度には技術を身につけていた。それでも父の店をそのまま継ぐことはせず、母とともに南部を離れた。


 母の故郷がヴァルデン地方にあったからだった。正確にはルーエンではなく、そこから東へ二日ほど進んだ山の麓の村だという。父が生きていた頃、母は故郷についてほとんど話さなかった。村の名前を口にすることも少なく、アベルが知っていたのは北部の生まれであることと、両親が農業をしていたことくらいだった。ルーエンへ移住してしばらくした頃、アベルは一度だけ母に尋ねたことがある。


「ここまで来たなら、村にも行ってみる?」

母は食器を拭いていた手を止めた。

「行かなくていいわ」

「遠いの?」

「歩けば二日はかかるでしょうね」

「じゃあ春にでも。馬車が出るならもっと早いだろうし」

「行かなくていいの」

二度目は少し強い言い方だった。


 アベルは母の顔を見たが、怒っているわけではなかった。ただ、それ以上話を続けるつもりがないことだけは分かった。それ以来、アベルから村の話を出したことはない。母方の祖父母についても同じだった。二人ともすでに亡くなっているらしいが、いつ亡くなったのか、何が原因だったのか、アベルは詳しく知らない。少なくとも自分が葬儀へ連れて行かれた記憶はなかった。


 父が亡くなった後、母がルーエンを移住先に選んだため、故郷そのものを嫌っているわけでもないのだろうと考えていた。知り合いがいる土地の近くで暮らしたかったのかもしれないし、南部の家に一人で残ることが嫌だっただけかもしれない。理由を尋ねる必要もなかった。アベルは父ほど細かなことを気にしない性格だった。ただし母は、昔から妙なところだけは細かかった。夕食のパンを切る時もそうだった。

 

「やった。俺の方が大きい」

アベルが自分の皿のパンを見て言うと、母はすぐに手を伸ばした。

「どっちが?」

「俺の方。ほら、こっちの方が厚い」

母は二切れを並べ、少し考えてから厚い方を切り直した。それから二人分をそれぞれの皿へ戻した。

「これで同じ」

「そこまでしなくてもいいのに」

アベルが自分の肉を一切れ母の皿へ置こうとした時も、同じだった。

「いらないわ」

「今日、俺の方が多いから」

「あなたの分でしょう」

「一切れくらい」

「戻しなさい」

 声を荒らげることはない。それでも母は譲らなかった。幼い頃からそうだったため、アベルも深く考えなくなっていた。父が工具の位置に厳しかったように、母は食事の分け方に細かい。それだけのことだと思っていた。


 ルーエンへ移住して三年が経つ頃には、時計店にも固定客がついていた。大きく儲かる商売ではない。安い時計は買い替えた方が早い場合もあり、裕福な家が所有する精巧な時計ほど修理には時間がかかる。それでも壊れた留め金や錠前、小型の機械部品まで持ち込まれるようになり、アベルは時計以外の仕事も断らなかった。

「時計屋なのに何でも直すのね」

そう言われることも増えた。

「中は大体似たようなものです」

 実際には似ていないものも多かったが、構造を見ればある程度は分かった。その技術が、数か月後には別の用途で使われることになる。


 夏の終わり頃から、店に来る客の話題が変わり始めた。最初は南の商人が遅れているという話だった。帝国との国境付近で検問が増え、一部の街道を軍が優先して使用しているらしい。そのため荷馬車の到着が数日ずれ、小麦や油の値段が少し上がった。次に、港へ入る船が減った。店の前を通る商人たちが立ち話をし、酒場では戦争になるらしいという話が出るようになった。

「また始まるのかね」

時計を受け取りに来た老人が言った。

「まだ決まったわけじゃないでしょう」

「決まってから準備したって遅いさ」

 

 老人は修理代を払い、帰りに保存食を買っていくと言った。同じように考える者は多かったらしい。数日後には市場で干し肉や豆をまとめ買いする人間が増え、商人たちは一人あたりの販売量を制限し始めた。食料がなくなったわけではない。ただ、以前なら翌週に買えばよかったものを、今のうちに買っておこうとする者が増えただけだった。その程度の変化でも、母は保存庫を確認する回数を増やした。

「買い足す?」

アベルが尋ねると、母は棚の中を確認した。

「少しだけ。買い占める必要はないわ」

「値段は上がりそうだけど」

「他の人も必要でしょう」

 母は小麦と豆を普段より少し多く買っただけだった。その日の夕食も、二人分がきっちり分けられていた。


 帝国との情勢が決定的に悪化したという知らせが入ったのは、それから間もなくのことだった。王国軍の兵士がルーエンへ入り始めた。北部は帝国との主戦場から離れている。海に面しているとはいえ、大規模な軍を冬のヴァルデンへ進める利点も少なく、都市そのものが攻撃される可能性は低いと考えられていたのだが、王国はその条件を逆手に取った。ルーエンの倉庫が軍に接収され、港には軍用物資が運び込まれた。


 鍛冶屋や木工職人には軍から仕事が回り、やがて時計店にも兵士が来た。男は店の壁に並ぶ時計を一度見回した後、机の上に書類を置いた。

「アベル・ヴァイスで間違いないか」

「はい」

「精密加工を扱えると職人組合から聞いている」

「時計なら」

「時計だけでなくていい。細かな金属部品を作れるか」

「物によります」

兵士は持っていた布包みを開いた。

中に入っていたのは、時計の部品ではなかった。

アベルは手に取らず、形だけを確認した。

「同じものを作れるか」

「寸法が分かれば」

「なら明日、工場へ来てもらう」

依頼ではなかった。

アベルは書類を一度読み、顔を上げた。

「店は?」

「空いた時間に開ければいい。軍の仕事が優先だ」

「断った場合は?」

「職人組合に聞いてくれ」

それで十分理解できた。

「分かりました」


 翌日からアベルは、ルーエンに設けられた軍の工場へ通うことになった。時計の歯車とは違い、作るものが何に使われるのかは分かっていた。細かな部品を削り、寸法を測り、合わなければやり直す。作業そのものは父から教わった仕事と大きく変わらない。違うのは、完成したものが人を殺す道具の一部になることだった。


 アベルはそれについて口には出さなかった。拒否しても別の職人が作るだけであり、軍の命令に逆らえば時計店を続けられる保証もない。工場で働く職人には食料が支給されるという現実的な利点もあった。初めて軍から支給されたパンと干し肉を家へ持ち帰ると、母は包みを開き、中身を確認した。


「二人分?」

「俺が工場で働いてる間は、家族の分も出るらしい」

「そう」

母はパンを二つに切った。片方が少し大きかったため、さらに端を薄く切り落とし、小さい方へ重ねた。

「そこまで合わせなくてもいいって」

「同じ方がいいでしょう」

「俺、昼も工場で食べてるよ」

「それとこれは別よ」

母は二つの皿を食卓へ置いた。


 窓の外では、軍用の荷車が通りを進んでいた。以前は商人の馬車が並んでいた道を、木箱を積んだ荷車と兵士が行き来するようになり、鐘楼の向こうには新しく軍の旗が見えていた。


 ルーエンの食料はまだ尽きていない。店も開いている。パンも買える。人々は働き、夜になれば家へ帰る。それでも、街の中で食べ物の流れだけが、少しずつ変わり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。