第9話 「たぶん」は禁止語ではありません
王宮の奥深くに位置する国王の私室には、公務の合間のつかの間の平穏が訪れていた。
豪奢な刺繍が施された寝椅子に深く背中を預け、アルノルト二世は上質な茶葉の香りが漂うティーカップを傾けていた。日々の激務に加え、自身の言葉が引き起こす物理的災害を未然に防ぐため、彼は常に極度の緊張状態に置かれている。こうして政務から離れた私的な休憩時間だけが、彼の精神を保つ唯一の命綱であった。
そんなアルノルトの視線の先には、臨時王命校正官のユリウス・ヴェルナーが立っていた。
ユリウスは王の私室であろうと姿勢を崩さず、手元の報告書を黙々と読み込んでいる。彼もまた、過酷な激務をこなす身であるが、その鉄面皮からは疲労の色を読み取ることは難しい。
アルノルトはティーカップをソーサーに置き、ふと、いじわるな笑みを浮かべた。
「なあ、ユリウス」
アルノルトは、私的な場であるため、堅苦しい役職名ではなく彼の名を呼んだ。
「なんでしょうか、陛下」
「お前、先ほど廊下で給仕の侍女に話しかけられていたな。なんと言って答えていたか、覚えているか?」
ユリウスは報告書から目を上げ、記憶を巡らせるようにわずかに眉を寄せた。
「『お茶はあとで、たぶん飲むから少し置いておいてくれ』と答えましたが。それが何か?」
「大ありだ」
アルノルトは寝椅子から身を乗り出し、まるで鬼の首を取ったかのように指を突きつけた。
「お前は常日頃、余の言葉の曖昧さを親の仇のように責め立てているな。だが、今の自分の言葉を聞いてみろ。『あとで』とは具体的に何分後だ? 『たぶん』とは確率にして何パーセントだ? 『少し』とは、距離のことか、それとも時間のことか? まったくもって定義が不明確な、危険極まりない抽象語のオンパレードではないか」
日頃、さんざん言葉を赤ペンで修正され、制限され続けているアルノルトからの、ささやかな逆襲だった。
ユリウスは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ひどく不快そうな顔をした。
「……陛下。それは完全なる詭弁です。私は王命校正官として、国家を動かす『公的な発言』の厳密さを担保しています。一介の役人が、業務外の日常会話においてまで厳密な定義を侍女に求めるのは、コミュニケーションの阻害であり、極めて非効率です」
「ほう、非効率か。他人に厳しく自分に甘い男だな、お前は」
「私的な会話における『たぶん』は禁止語ではありません。常識の範疇です」
ユリウスが平然と自分を棚に上げるのを見て、アルノルトは鼻で笑った。
「なるほどな。私的な雑談の文脈であれば、言葉が曖昧でも、比喩にまみれていても構わないということだな」
アルノルトは立ち上がり、両手を大きく広げた。
「ああ! 余の心は今、大海原を漂う小舟のように晴れやかだ! 腹の虫が雷鳴のように鳴っている! 誰か、余の喉の渇きを癒すために言葉の雨を降らせてはくれまいか!」
アルノルトは、ここぞとばかりに大げさな比喩や慣用句を連発した。
公務中ならば、周囲の水桶や照明が反応するかもしれない言葉だ。だが今、王は気に入った詩の話をしている。
しかし、アルノルトの頭上に載る王冠は、魔力の光一つ放つことなく、沈黙を保っていた。
部屋には、アルノルトの響きの良い声だけが空しくこだましている。
ユリウスは、痛いものを見るような目で王を見つめていた。
「……聞いていて非常に見苦しいですが、事実として何も起きませんね」
「見苦しいとはなんだ。これでも余は、王立学院の詩作の授業で最高評価を得たことがあるのだぞ」
「王冠の仕様上、公的文脈でない私的雑談は起動候補になりません。陛下が今、どれほど奇天烈な比喩を叫ぼうとも、ルール上は完全に安全です」
ユリウスは渋々といった様子で認めた。
アルノルトは満足げにうなずき、再び寝椅子に腰を下ろした。
「ふっ。公私の区別は『場所』で決まるということか。ここが余の私室であり、雑談の場であるから、王冠も空気を読んで休んでいるのだな」
「場所が絶対条件であるとは限りませんが、現在の文脈が『私室での休息』であることは王冠にも認識されているのでしょう」
ユリウスが報告書に視線を戻したその時、私室の重厚な扉が控えめにノックされた。
「陛下、失礼いたします」
入室してきたのは、中年の侍従だった。彼の両手には、革表紙で閉じられた分厚い書類の束がうず高く積まれている。
「なんだ、今は休憩中のはずだが」
「申し訳ございません。法務局から、明日の評議会までにどうしても陛下の決裁を仰ぎたい追加案件が上がりまして……」
侍従は恐縮しきった様子で歩み寄り、アルノルトの前のローテーブルに、ドサリと音を立てて書類の束を置いた。
アルノルトは、その書類の厚みを見てげんなりとした。
先ほどまでの比喩を連発しても安全だったという気の緩みと、私室という空間がもたらす安心感。それらが、アルノルトの口をわずかに滑らせた。
「ああ、ご苦労。だが、今は言った通り休憩中だ。その件はいったん横に置こう」
――その件は、横に置こう。
公務の決裁案件を「後回しにする」「保留にする」という意味で使われる、ごくありふれた官僚的な慣用句である。
しかし、ユリウスの顔色が一瞬にして変わった。
「陛下!」
ユリウスが叫んだ瞬間、アルノルトの頭上の王冠が、わずかに銀色の魔力を帯びて明滅した。
「えっ?」
書類を置いたばかりの侍従が、間の抜けた声を漏らす。
ズザーーーッ!
ローテーブルの上に置かれていた分厚い書類の束が、まるで自ら意思を持ったかのように、テーブルの表面を滑走した。
書類は勢いよくテーブルの端を飛び出し、そのまま空中の見えないレールの上を滑るようにして横へ移動し、数メートル離れた場所にあるサイドテーブルの上に、寸分の狂いもなくピタリと積み重なった。
「ひっ!?」
侍従が幽霊でも見たかのように悲鳴を上げ、腰を抜かして床にへたり込む。
アルノルトは、空になった目の前のローテーブルと、横のサイドテーブルに綺麗に移動した書類の束を交互に見比べ、目を丸くして固まっていた。
「……動いた」
「ええ。見事に動きましたね」
ユリウスは深くため息をつきながら、懐からメモ帳を取り出し、黒いインクで素早く状況を書き留め始めた。
「『その件(法務局の公的決裁書類)』を『横に置く(物理的な横方向への移動)』。対象物の限定と、指示語の字義通りの解釈による物理現象。人員は操作せず、既存の資源のみを移動させた。王冠のルールに完全に合致しています」
「ま、待て、ユリウス! 余は先ほどまで、ここが私室だから安全だと言っていたではないか! なぜ急に発動したのだ!」
アルノルトが抗議するが、ユリウスは眼鏡を冷たく光らせた。
「これで証明されましたね。王冠は『場所』で公私を判定しているわけではありません。その瞬間の『役割・文脈』で判定しているのです」
ユリウスは、床で震えている侍従を一瞥した。
「先ほどまで、ここは完全に『私室での雑談』という文脈でした。しかし、侍従が『法務局の決裁書類』という公的な案件を持ち込み、陛下がそれに対して返答をした。その一瞬で、この空間の文脈は『公務』へと切り替わったのです。だからこそ、陛下の発言は王の公的な断定として王冠に受理された」
「文脈で……切り替わる……」
アルノルトは、自身の言葉が持つ強制力が、空間の性質すらも上書きしてしまう事実に、改めて恐れを抱いた。
「場所がどこであろうと、陛下が王としての役割を求められ、それに応じた発言をした瞬間、そこは公の場となるのです。油断しないでください」
ユリウスの容赦ない言葉に、アルノルトは項垂れた。
だが、すぐに顔を上げ、ある一つの恐ろしい可能性に思い至った。
「……待てよ。なら、もし余が昼食をとっている最中に、大臣から政務の相談を受けたらどうなるのだ?」
「どうなるとは?」
「食事という『私的』な行為の最中に、政務という『公的』な文脈が混ざることになる。その状態で余が、『このパンを取ってくれ』と言った場合、それは食事の要求なのか、それとも公務の命令なのか? もし王冠が命令だと解釈すれば、パンを取るという行動にまでいちいち物理現象や行政処理が伴うことになるのではないか?」
アルノルトの指摘に、ユリウスの持つペンの動きがピタリと止まった。
公私の境界が曖昧な状況において、王冠がどのように発話の区分を判定し、どこまでを直接的な作用の対象とするのか。もし、食事中の何気ない所作の一つ一つが「公務の文脈」として処理され、そこに制度や安全確保の網を掛けなければならないとしたら。
ユリウスは、自らが設定しなければならないであろう、果てしなく複雑で狂気じみた「昼食時の王言発動区分と安全確認フロー」を想像した。
常に冷静沈着な校正官の顔が、この時ばかりは、答えたくなさそうな、ひどく渋い顔に歪んだ。




