第8話 王冠を便利に使おう
「南部のミレド村付近で河川が氾濫しました。幸い死傷者は出ておりませんが、村の家屋の三割が床上浸水。夜半の冷え込みに備え、至急、防寒用の毛布と支援物資を搬送する必要があります」
王宮の執務室で、物流局の役人が緊迫した声で報告を読み上げた。
卓を囲むのは、国王アルノルト二世、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナー、そして言語魔術研究者のミラ・フェルベック博士である。
「被害が少ないのは不幸中の幸いだが、日が落ちれば村人は凍えるぞ。すぐに手配しろ」
アルノルトが指示を出すが、役人は申し訳なさそうに首を振った。
「それが、通常の手配手順ですと、各倉庫の在庫確認と馬車の配備、御者への辞令発行だけで半日はかかります。今からでは、村への到着は深夜になってしまいます」
「遅すぎる」
アルノルトは小さく舌打ちをした。彼は机の上で指を組み、少し思案した後、頭上の王冠を指差した。
「ヴェルナー。これを使おう」
「却下します」
ユリウスは一秒も経たずに即答した。
「昨日の『風通しのよい宮廷』による全窓開放事故を忘れたとは言わせません。王冠を実務の道具として安易に利用するのは危険すぎます」
「だが、緊急事態だ。余が『ミレド村へ王宮の余剰毛布を送れ』と命じれば、王冠の力で瞬時に輸送の手筈が整うはずだ。違うか?」
「言葉の定義が甘すぎます。余剰とは何枚ですか? どの馬車を使いますか? 曖昧な命令の恐ろしさは、陛下ご自身が一番よくご存じのはずです」
ユリウスの厳しい視線に、アルノルトも真っ直ぐに視線を返した。
「だから、お前がいるのだろう。余がお前の書いた原稿を一言一句違わずに読めば、事故は起きない。そうだな?」
アルノルトの目には、王としての責任感と、前日の事故を経て培われたユリウスへの奇妙な信頼が宿っていた。
ユリウスは小さく息を吐いた。
「……分かりました。ただし、私が一切の穴がない完璧な実行条件を設計します。発言はそれまでお待ちください」
ユリウスは即座に羊皮紙を引き寄せ、赤ペンではなく黒インクの羽ペンを握った。
「フェルベック博士。王冠の仕様について、再確認を」
「はいはい」
呼ばれたミラが、メモ帳を開きながら答える。
「王冠は王国管理の資源にのみ直接作用します。また『最小実現』の原則に従い、無から物は作りません。そして重要な点ですが、王冠は『人そのもの』を物理的に強制移動させることはありません。人の自由意思を奪うのは最小の範囲を超えるからです」
「では、馬車や毛布は動いても、御者はどうなるのですか?」
「そこが王冠の賢いところです。必要であれば、備え付けの紙とインクを使って『辞令』や『配車指示書』を作成し、対象者の手元に届けます。それに従うかどうかは、受け取った本人の意思に委ねられます」
「なるほど。ならば……」
ユリウスのペンが、猛烈な速度で走り始めた。
三十分後。
執務室に集められた物流局の役人たちは、アルノルトの手にある羊皮紙の束を見て、呆れたような笑いを漏らしていた。
「校正官殿……たかが毛布を五百枚、村に運ぶだけですよ? なぜ指示書が羊皮紙三枚にも及ぶのですか」
役人の一人が、あからさまな苦笑を浮かべる。
「これでは通常の手配より面倒です。除外条項だけで二枚もあるではないですか。『……ただし、以下の条件に該当する車両は動員対象から除外する。第一項、車輪にひび割れが確認されたもの。第二項……』等々。細かすぎます」
「笑い事ではありません」
ユリウスは冷徹な声で一蹴した。
「魔法による強制執行だからこそ、例外なく条件を指定しなければならないのです。陛下、準備はよろしいですか」
「ああ」
アルノルトはコホンと咳払いをし、ユリウスの書いた長大な命令文を読み上げ始めた。
「この命令の対象から、施療院の救急馬車、薬品輸送便、故障車、別の緊急業務に割り当て済みの車両と人員を除く。毛布も、施療院向けと配布済みの物は除く」
除外の条件を最後まで読み、王は一度息を継いだ。
「そのうえで、第三・第四倉庫の未配分の防寒用毛布から、製造三年以内で状態の良好な五百枚を選び、条件に適合する王宮の輸送馬車五台に積載せよ。物流局第二班の待機中の御者へ、南部ミレド村へ本日日没までに搬送する指示書を交付せよ。手当は緊急配送規程の額とする」
アルノルトの声が響くにつれ、王冠の奥で魔力が静かに脈動した。
直後、執務室の窓の外、王宮の中庭で驚嘆の声が上がった。
「動いたぞ!」
役人たちが窓へ駆け寄る。
中庭に駐められていた五台の輸送馬車が、誰も手綱を引いていないのに自律的に動き出し、倉庫の前へ整列した。すると、倉庫の扉が自動で開き、中から束ねられた毛布が宙に浮いて次々と馬車の荷台へ正確に積み込まれていく。
それと同時に、執務室にいた役人の一人のポケットが淡く光った。
「なっ、なんだこれ!?」
彼の手元に滑り込んできたのは、公印がしっかりと押された「緊急配車指示書」と「特別手当支給決定通知」だった。同じ頃、物流局の待機室にいた御者たちの手元にも、執務室の用紙とインクから作られた同様の指示書が届いたという。
「見事です」
ミラが魔力測定器を見ながら感嘆した。
「物資は直接動かし、人間に対しては命令書という『手続き』だけを生成した。これで彼らは、正規の業務として馬車を走らせることができます」
「よし! これなら日没前に村へ到着できるぞ!」
アルノルトが安堵の声を上げる。
だが、窓の外を見ていた物流担当の役人が、怪訝な顔で首を傾げた。
「……おかしいですね。なぜ、王宮のすぐ横の待機所にあった五台の馬車を使わなかったのでしょうか。わざわざ少し離れた東棟の裏手から馬車を回している。これでは効率が悪い。やはり、校正官殿の長すぎる除外条項が邪魔をしたのでは?」
その言葉に、ユリウスは手元の台帳をパラパラと捲り、眼鏡を光らせた。
「王宮横の待機所にあった五台の所属と用途を確認してください」
「ええと……あ」
確認に走った役人が、すぐに青ざめた顔で戻ってきた。
「あ、あれは……王都の施療院で使用される予定の救急馬車と、隣町へ向かう緊急の薬品輸送便でした……」
執務室に、冷や水を浴びせられたような沈黙が落ちた。
アルノルトは息を呑んだ。
もし、あの長い除外条項がなく、自分が単に「王宮にある馬車を集めろ」と曖昧に命じていたらどうなっていたか。王冠は最も近い場所にある施療院の馬車を強制徴用し、結果として急病人の搬送や診療がストップし、目に見えないところで誰かの命が失われていたかもしれないのだ。
効率を笑っていた役人たちは、急にバツが悪そうに俯いた。
「……王冠の力は非致死で、最小限の実現を選びますが」
ミラが、顎に手を当てて呟いた。
「それにしても、妙に安全側に倒れる傾向がありますね。対象を破壊したり、致命的な結果を招いたりする前に、必ず何らかの制約が働く。まるで、暴走させるためではなく、一定以上の作用を、わざわざ制限しているようです」
王は台帳の除外欄を読み直した。
「長いと言ったが、削らなくてよかった」
ユリウスは、使わずに済んだ救急馬車の番号へ印をつけた。
その日の夜。
執務室の机を挟んで、アルノルトとユリウスは向かい合っていた。
「本日の王言レビューを始めます」
ユリウスが差し出した羊皮紙には、昼間の長い命令文がそっくりそのまま記されている。
「結果として、毛布の輸送は完璧に遂行されました。施療院の馬車を除外した条件設定も機能しました。陛下の発声および文脈の固定にも、何ら問題はありませんでした」
「余の力ではない。お前の書いた原稿が完璧だったからだ」
アルノルトが素直に認めると、ユリウスは少しだけ意外そうな顔をした。
「……陛下が、ご自身の言葉の重みを理解し、私の作成した条件を『面倒だ』と省略せずに読み上げてくださったからです。信頼に足る実行でした」
それは、ユリウスなりの不器用な歩み寄りだった。
王は長い除外条項を、今回は飛ばさずに読んでいた。
「明日からも、頼むぞ、ヴェルナー」
「私の仕事ですから」
しかし、その平穏な夜は、翌朝の宰相の一言によって脆くも崩れ去ることになる。
翌朝。
執務室にやってきた宰相コンラートは、昨日の毛布輸送の鮮やかな成功報告を手に、満面の笑みを浮かべていた。
「素晴らしい! 事故ゼロでこれほど正確かつ迅速に行政を動かせるなら、王冠はまさに至宝だ!」
コンラートの言葉に、ユリウスの顔が引き攣った。
「宰相閣下。王冠の日常的な利用には反対します。昨日のような完璧な条件設定を毎回行うのは、実務上――」
「分かっている。だからこそ、毎回悩まなくて済むように『規程』を作るのだ」
コンラートは、ポンと手を叩いた。
「王冠を便利に、かつ安全に運用するための、明確で厳格なマニュアルをな。ヴェルナー、今日からその規程作りを命じる」
制度化。
それは、役人が最も好み、そして最も新しい喜劇を生み出す魔法の言葉だった。
アルノルトとユリウスは、顔を見合わせて同時に深い溜息をついた。




