第7話 校正官、休む
宰相コンラートの厳命により、王宮の執務室から半ば強制的に引きずり出されたユリウス・ヴェルナーは、王都アルクスから馬車で三時間ほど離れた近郊の保養地にいた。
緑豊かな山麓に位置する、静かでこぢんまりとした旅籠。三日間の強制休暇の初日である。
柔らかな春の陽射しが差し込む客室で、ユリウスは一人、手持ち沙汰を持て余していた。
「……落ち着かない」
備え付けの椅子に座り、膝の上で指を組む。
休め、と言われても、そう簡単に切り替えられるものではない。彼の脳は常に、言葉の矛盾や曖昧さを探し出すように最適化されている。
ふと、部屋の扉の裏側に貼られた一枚の紙に目が留まった。
『非常時の避難経路のご案内』と書かれた貼り紙だ。
ユリウスは無意識のうちに立ち上がり、貼り紙の前に立っていた。
「『火災や地震などの非常時は、適宜、屋外へ避難してください』……適宜?」
彼の眉間に深いシワが寄った。
「『適宜』とは、各自の状況判断を客に丸投げする、行政や案内に置いて最も無責任かつ危険な言葉だ。火の手がどこから上がっているかによって避難経路は変わるのに、適宜とはどういうことだ。さらに、その下の文。『なるべく静かに行動してください』? 『なるべく』では基準がない。囁き声なのか、足音を立てないことなのか、定義が不明確すぎる」
ユリウスの手は、すでに鞄の中から愛用の赤ペンを取り出していた。
「それに主語がない。『非常時は』ではなく、『非常時は宿泊客全員が』と主語を明記しなければ、従業員への指示なのか客への指示なのか混同する恐れがある……」
キュッ、キュッ、と、旅籠の備品である案内板に、容赦なく赤い斜線と修正の文字が書き込まれていく。
他人の宿の案内文を勝手に校正しながら、ユリウスは王宮に残してきた国王アルノルト二世の顔を思い浮かべていた。
(私が不在の王宮で、陛下は無事に過ごしておられるだろうか。いや、昨日ご自身で安全な言葉を見つけられたのだ。一日くらいは、事故を起こさず乗り切っていただかなくては困る……)
* * *
同じ頃、王都アルクスの王宮。
アルノルト二世は、豪華な応接室のふかふかした長椅子に腰を下ろし、目の前に座る三名の男たちへ穏やかな笑みを向けていた。
ユリウス不在の初日。午前中の政務会議は、前日に学んだ「短く具体的な言葉」に徹することで、見事に事故ゼロで切り抜けることができた。
アルノルトは自信を取り戻しつつあった。要は、数字と事実だけを端的に伝えればいいのだ。
そして午後からは、王都の民間ギルド――商人組合、職人組合、農業組合を代表する者たちとの公的な面会(雑談)が組まれていた。
「陛下におかれましては、ご壮健であらせられ、我々市民一同、心より喜びを……」
商人組合の代表が、額に大粒の汗を浮かべながら、ガチガチに緊張した声で挨拶を述べる。他の二名も、立派な絨毯の上で借りてきた猫のように身を縮めていた。
無理もない。戴冠したばかりの国王と、王宮の最も奥まった応接室で顔を合わせるのだ。彼らにとって、王宮は雲の上の恐ろしい場所である。
アルノルトは、こういう場での立ち振る舞いこそが自分の真骨頂だと自覚していた。
彼は天性の人を見る目と、場の空気を和らげる力を持っている。相手の不安を察知し、的確な距離感で心を開かせる。それは、ユリウスのような法制局の役人には到底真似できない技術だった。
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今日は皆の生の声を聞くために呼んだのだ。王都の景気はどうだ? 昨年の不作の影響は、まだ市場に残っているか?」
アルノルトはあえて少し身を乗り出し、親近感を込めて問いかけた。
言葉の響き、温かさ、そして相手への敬意。それらがじんわりと伝わり、市民代表たちの強張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。
「は、はい……正直に申しますと、麦の価格はまだ高止まりしております。しかし、陛下が先日の演説で国境警備体制の維持と通商継続を明言してくださったおかげで、隣国からの輸入の目処が立ち、組合員たちも安堵しております」
「そうか。それはよかった。職人組合はどうだ?」
「我々も、外壁修繕の予算が早期に下りたことで、仕事が回るようになりました。ただ、若手の職人が不足しておりまして……」
和やかな対話が続いた。
アルノルトの傾聴の姿勢に、市民たちは次第に熱を帯びて語り始めた。王宮の威圧感は消え、そこには国を良くしようと語り合う人間同士の温度があった。
「いやはや……我々のような市井の者の声が、ここまでまっすぐ陛下に届くとは思いませんでした」
農業組合の代表が、感慨深げに目を潤ませた。
「先代の陛下の頃は、税の陳情一つ上げるのにも、いくつもの役所を通さねばならず、途中で握り潰されることもしばしばでしたから」
「そうだろうな。王宮という場所は、どうにも壁が厚く、外の声が入りにくい」
アルノルトは深く頷いた。
彼らをさらに安心させたい。この国は変わるのだと、はっきりと伝えてやりたい。
前日の予算会議で、一切の感情を排した筆談と短い言葉だけを強いられた反動もあったのだろう。アルノルトの口から、彼本来の、人々を魅了する美しい比喩がごく自然にこぼれ落ちた。
「余は、この国を変えたいのだ。皆が気兼ねなく意見を言える、風通しのよい宮廷にしたいのだ」
その瞬間。
アルノルトの頭上に載る古代王冠の奥深くで、魔力の脈動が跳ねた。
「風通しをよくする」という比喩が、公的な場における王の「方針・断定」として受理された。
王冠は、対象を「王国管理の建物」と解釈し、その通気性を最大化するための最小の物理現象を導き出した。
ドォォォォォンッ!!
王宮全体を揺るがすような、凄まじい音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
アルノルトが椅子から立ち上がった。
バンッ! バンッ! バンッ!
応接室にはめ込まれていた三つの巨大なガラス窓が、内側に向かって一斉に全開になった。同時に、廊下に通じる重厚な両開きの扉も、目に見えない力で蹴り開けられたように壁に叩きつけられる。
季節は春。王都アルクスは、特有の強い春一番が吹く時期である。
窓と扉が同時に開け放たれたことで、応接室の中に、猛烈な突風が通り抜けた。
「うわあああっ!」
市民代表たちが悲鳴を上げ、突風に煽られて絨毯の上に転がった。
応接室の窓を飾っていた豪奢なカーテンが引きちぎれんばかりに空へ舞い上がり、卓の上の空の茶碗が転がり、バルドが両手で受け止める。
だが、被害は応接室だけではなかった。
王冠の力は、王宮の全域に及んでいた。
執務室、会議室、大広間、書庫、果ては地下牢の通気口に至るまで、王宮に存在するすべての「建具」が一斉に開放状態に固定されたのだ。
王宮という巨大な建造物そのものが、風の通り道と化した。
「きゃあああっ!」
「書類が! 決裁前の書類が飛んでいく!」
「窓を閉めろ! 馬鹿力で押してもビクともしないぞ!」
廊下の外から、各省庁の官僚たちの絶叫が風に乗って聞こえてくる。王宮中の机に乗っていたあらゆる書類が、突風に巻き上げられ、廊下を竜巻のように飛び交い始めていた。
まさに、文字通り「風通しが良すぎる」大惨事である。
「しまった……またやった!」
アルノルトは風に煽られて目を細めながら、己の失言を呪った。
撤回しなければならない。だが、この状況をどう正確な言葉で訂正すればいいのか、パニックになった頭ではすぐに出てこない。「窓を閉めろ」と言えば、今度は永遠に開かない窓になって窒息するのではないかという恐怖がよぎる。
「陛下!!」
その時、凄まじい風を突っ切って、応接室に一人の男が飛び込んできた。
近衛隊長のバルド・グランツである。鍛え上げられた巨躯で風の抵抗に耐えながら、彼は真っ直ぐにアルノルトの元へ駆け寄った。
「隊長! すまない、余がまた比喩を……っ!」
「状況は把握しております! 陛下、これを!」
バルドは風に飛ばされないよう、一枚の厚紙を両手でアルノルトの目の前に突き出した。
そこには、見慣れたユリウスの整然とした文字が並んでいた。
『今述べた「 」という発言を撤回する』
その下に小さく、『括弧の空欄には、撤回する直前の発言をそのまま入れる。注記は読まない』とある。
「ユリウス殿が休暇に入る直前、『万が一、私が不在の時に陛下が事故を起こした場合に備えて』と、法制局に置いていった緊急訂正カードです! 私が読んでも発動しません、陛下ご自身で読み上げを!」
「……っ!」
アルノルトはバルドの両手ごとカードを掴んだ。空欄を見つめ、自分が言ったばかりの言葉を思い返す。そこへ当てはめ、吹き荒れる風の中で声を振り絞った。
「今述べた『皆が気兼ねなく意見を言える、風通しのよい宮廷にしたいのだ』という発言を撤回する!」
声が空気を震わせた。
バルドがカードの裏を見て、近衛兵に合図した。
「継続する作用の停止を確認! 開いた窓を、順に手で閉めろ!」
兵たちが窓の取っ手をつかみ、留め金をかけた。ばたついていたカーテンが、次々に静まっていく。
静寂が戻った。
応接室の床には、ちぎれたカーテンの端切れと、どこかの部署から飛んできた見知らぬ書類が散乱している。市民代表たちは、部屋の隅で身を寄せ合い、腰を抜かして震えていた。
アルノルトは、手の中の緊急訂正カードを見つめたまま、深く、深く項垂れた。
* * *
再び、保養地の旅籠。
ユリウスが避難案内の貼り紙にすべての赤入れを終え、満足げにペンを置いたその時。
窓の外から激しい馬の蹄の音が近づき、旅籠の前に急停車した。
「王命校正官殿はおられるか! 王宮からの急使である!」
ドタドタと足音が近づき、ユリウスの客室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、土埃にまみれた近衛兵だった。彼は息を切らしながら、一枚の速報状をユリウスに手渡した。
「ヴェルナー殿、大至急お戻りを! 陛下が民間代表との面会中に『風通しのよい宮廷にしたい』と発言され、王宮中の全窓・全扉が開放! 突風により全省庁の書類が混合するという大事故が発生いたしました!」
「……やはり」
ユリウスは全く驚いた様子を見せず、静かに眼鏡の位置を直した。
「幸い、貴方様が残してくださった緊急訂正カードにより事態は収束しましたが、王宮の書類が完全に混ざり合い、行政機能がストップしております! 今すぐ馬車へ!」
「分かっています」
ユリウスは落ち着き払った声で応じ、鞄を開けた。
だが、すぐに荷物をまとめるかと思いきや、彼は再び赤ペンを取り出し、壁の貼り紙に向き直った。
「ヴェルナー殿!?」
「少々お待ちを。ここの『非常時は』という文言ですが、やはり主語が不明確です。『宿泊客は』と補わないと、従業員の行動指針と矛盾します。ここだけ直してから帰ります」
「そ、そんな他人の宿の案内板など放っておいてください! 王宮が大変なことになっているのですよ!」
近衛兵の悲痛な叫びを背に受けながら、ユリウスは最後まで校正の手を止めなかった。
* * *
夕刻。
急ぎ王宮へ戻ったユリウスを待っていたのは、想像以上の惨状だった。
廊下にも階段にも、各省庁から吹き飛ばされた書類が一面に散乱し、官僚たちが半泣きになりながら自分たちの書類の回収と仕分けに追われている。
ユリウスは真っ直ぐに王の執務室へと向かった。
そこもまた、紙の海と化していた。そして部屋の中央には、アルノルトが所在なげにぽつんと立っていた。
ユリウスの姿を認めるなり、アルノルトの肩がビクッと跳ねた。
「……戻ったか、ヴェルナー」
言い訳一つできず、アルノルトは叱責を覚悟して身構えた。
だが、ユリウスは文句一つ言わず、床に落ちていた書類を拾い上げた。
「財務局の決算書ですね。法務局の棚へ紛れ込む前に回収します。陛下、そちらの束は建設局のものです。一時保管箱へ」
「あ、ああ……」
ユリウスの事務的な声に急かされ、アルノルトも片付けに加わる。
黙々と紙を拾い集めながら、アルノルトは痛感していた。
もし、ユリウスが残していったあの「緊急訂正カード」の、血の通っていない無味乾燥な、しかし完璧に事象を定義した言葉がなかったらどうなっていたか。
パニックになった自分が、適当に「窓を閉めろ」などと言ってしまったら。最悪の場合、王都全域の風を操作するような取り返しのつかない二次被害を生んでいたかもしれない。
アルノルトは、紙の束を揃えるユリウスの背中を見つめた。
これまでは、王冠のせいで「必要だから」仕方なく側に置いている、鬱陶しい小姑のような存在だと思っていた。
だが、彼のその異常なまでの正確さが、結果として今日、王宮を、そして国を最悪の事態から守ってくれたのだ。
アルノルトは、手にした書類を机に置き、背中を向けたままのユリウスに向かって、小さく、しかしはっきりと言った。
「……助かった」
それは、王としての威厳を保つためでも、場を取り繕うためでもない、初めて心から出た言葉だった。
ユリウスのペンを走らせる手が、一瞬だけピタリと止まった。
沈黙が落ちる。
やがて、ユリウスは振り向くことなく、いつも通りの平坦な声で返した。
「……事後報告書を作ります。原因は明白ですが」
それだけ言うと、ユリウスは再び作業に戻った。
冷たい態度は相変わらずだったが、アルノルトの口元には、かすかな苦笑が浮かんでいた。二人の間に、職能に対する明確な信頼の糸が、確かに結ばれた瞬間であった。




