第6話 陛下、本日は黙ってください
エルデン王国の王宮、その中枢に位置する第一会議室。
本日は来期に向けた各省庁の重要予算会議が行われており、分厚い資料の山に囲まれた円卓には、国の財布の紐を握る財務官僚たちがずらりと顔を揃えていた。
その上座で、国王アルノルト二世は、かつてないほどの不機嫌さを隠そうともせずに腕を組んでいた。
彼の目の前には、いつも置かれているはずの議事録や決裁用の羊皮紙の代わりに、小さな黒い石板と白墨が一本だけ置かれている。
「……陛下。本日は、原則としてその石板を用いた『筆談』のみで意思表示をお願いいたします。音声による発言は、いかなる文脈であっても禁止です」
アルノルトの斜め後ろに直立した臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが、冷え切った声で念を押した。
「分かっている。何度も言わせるな」
アルノルトは白墨を指先で弄びながら、忌々しげに溜息をついた。
戴冠から二週間。先日、王宮の小広間で発生した「アドリブによる大量の花まみれ事故」の後始末は凄まじかった。王宮中の花瓶から消えた花々を分別して元の場所へ戻し、破損した器の弁償手続きを行い、目撃した職員たちに「王冠の魔力テストである」という苦しい言い訳をして回ったのだ。
その後処理の陣頭指揮を執った宰相コンラートとユリウスは、疲労の極致に達した顔で、アルノルトに一つの究極の安全策を突きつけた。
『喋るから事故が起きるのです。重要な数字が飛び交う予算会議においては、一切口を開かないでください』
それが、今日のこの異常な会議の状況を生み出していた。
「では、次項に移ります。建設局より提出された、王都外壁の修繕予算の増額要請についてですが――」
財務局の官僚が、抑揚のない声で数字を読み上げ始めた。
「昨今の資材高騰に伴い、当初予算の二割増しである金貨十万枚を要求してきております。彼らの主張によれば、このままでは外壁の耐久性が損なわれるとのことですが……」
アルノルトは、その要求額の不自然さに眉をひそめた。資材が高騰しているのは事実だが、外壁の全面改修でもない限り、二割もの増額は明らかに便乗値上げ、あるいは過剰な予算の抱え込みである。
彼は反論を口にする代わりに、手元の石板に白墨を走らせた。
『その額は多す――』
カツンッ!
アルノルトが「多すぎる」と書き終えるより早く、横から突き出されたユリウスの赤ペンが石板の端を叩いた。
「陛下。『多い』とは具体的に何割を指していますか。抽象的な形容詞は解釈のブレを生み、相手に誤解を与えます。比較対象となる過去の予算データに基づいた具体的な数値を提示してください」
「……」
アルノルトは舌打ちをし、白墨の跡を布で消すと、書き直した。
『二割増は認められない。もう少し削れ』
今度は、ユリウスの赤ペンが『もう少し削れ』の部分を強引に斜線で消した。
「『少し』とはいくらですか。金貨百枚ですか、一万枚ですか。また『削る』という比喩表現は、建設局の役人が実際に外壁を削り落とすという物理現象を引き起こす可能性があります。表現が不適切です」
アルノルトは白墨を握りつぶしそうになった。
一文字書くたびに赤が入り、文章が全く完成しない。これでは議論に参加することすらできないではないか。
苛立ちが頂点に達したアルノルトは、ついに石板と白墨を卓に叩きつけた。そして、円卓を囲む官僚たちに向かって、身振り手振り――ジェスチャーで意思を伝えるという荒業に出た。
彼は建設局の予算書類を指さし、右手を水平にしてから、下に向かって勢いよく手刀を振り下ろした。
予算を半分にしろ、という明確な(と彼自身は思った)意思表示である。
だが、官僚たちはそれを見て、顔を見合わせてざわめき始めた。
「お、おお……陛下が自ら手を下ろされた」
「あれは、建設局の怠慢に対する『断罪』の意思表示か? 担当者を直ちに更迭せよということか!」
違う、とアルノルトは慌てて首を横に振る。
すると別の官僚が手を打った。
「ああっ、分かったぞ! 木を切り倒す身振りだ。つまり、石材が高騰しているなら、代替として王領の木材を伐採し、木造で補強せよという画期的なご提案ですね!」
「なんという名案だ。さすがは陛下!」
アルノルトは頭を抱えた。両手を顔の前で交差させて「バツ」の形を作る。それも違う、という全否定の合図だ。
しかし、言葉を持たない王のジェスチャーは、怯えきった官僚たちによって最悪の方向へと解釈されていく。
「違うのか……そうか、バツ、つまり『全額却下』か!」
「外壁修繕を全額却下!? しかしそれでは王都の防衛が……いや、陛下の深いお考えがあるに違いない。よし、建設局には予算ゼロと通達しよう!」
アルノルトが声を上げそうになるのを、ユリウスが背後から冷酷な目で睨みつけている。
会議室は混迷を極めていた。
王が喋れば、王冠が比喩を物理現象に変えてしまう。だが、喋らない王の真意を測ろうとして、官僚たちは勝手な深読みと過剰な忖度を繰り返し、あり得ない予算配分が次々と決定されそうになっていた。
沈黙は、ある意味で魔法よりも厄介だった。
見かねた宰相コンラートが、こめかみを揉みながら口を開いた。
「……駄目だ。これでは行政が停止してしまう。ヴェルナー、陛下の筆談に対する校正の基準が厳しすぎる。少しは妥協できないのか」
「妥協は安全の敵です、宰相閣下。王宮が再び花に埋もれてもよろしいので?」
「しかし、このままでは建設局の予算がゼロになり、明日にでも王都の壁が崩れかねんぞ」
二人の言い争いの間に、アルノルトは石板を伏せた。
余は王だ。自らの言葉で国を導くために、この重い王冠を被ったのだ。それを、一々役人の顔色を窺い、校正官の赤ペンに怯えながら、石板の上で言葉遊びをするために座っているわけではない。
アルノルトは、静かに立ち上がった。
「陛下、お座りください。発言は――」
ユリウスが鋭く制止しようとしたが、アルノルトはそれを片手でピタリと制した。
その顔には、先ほどまでの苛立ちはない。代わりに、若き王としての静かな威厳が宿っていた。
彼は深く息を吸い込んだ。
自分の頭の上に載っている、古代の強制力。それがどういう仕組みで動くのか、この数日で嫌というほど味わってきた。
王冠は意図を読まない。比喩を字義通りに実現する。ならば、比喩を使わず、修辞を捨て、的確な対象と数字だけを言葉に乗せればいい。
美しい演説ではなく、実務の刃としての言葉を。
アルノルトは、円卓の財務官僚たちを見据え、短く、平坦な声で言い放った。
「建設局の修繕費は、現行十万に対する十二万の要求を再審議する。十一万で実施できる工事案を、明日の会議に提出せよ」
一瞬、会議室の空気が凍りついた。
官僚たちは身構え、ユリウスも即座に周囲の壁や書類の束に鋭い視線を走らせた。王が口を開いた以上、また何かが崩れたり、飛んできたりするのではないかという恐怖があった。
だが。
一秒、二秒、三秒。
何も、起きなかった。
頭上の王冠は、魔力の残滓一つこぼすことなく沈黙を保っている。
物理事故は起きなかった。ただ、一割の増額と予備費の使用という、現実的で明確な指示だけが、確実に官僚たちに届いた。
「……お、おおっ」
財務官僚の一人が、安堵の息を漏らした。
「明確なご裁断、痛み入ります! すぐに建設局へ通達いたします!」
他の官僚たちも次々と頷き、止まっていた議論が嘘のようにスムーズに動き出した。
アルノルトは静かに椅子に座り直した。
背後に立つユリウスを見上げると、彼は手に持っていた赤ペンをゆっくりと下げ、手元のメモ帳に結果を書き込んでいた。
それは、演説で歓声を浴びるのとは違う、実務家としての小さな、しかし確かな勝利だった。
その日の夜。
蝋燭の火が揺れる静かな執務室で、アルノルトは一人、書類に目を通していた。
「陛下、失礼いたします」
ノックとともに現れたのは、ユリウスであった。彼の手には、いつものように羊皮紙が握られている。
「本日の王言レビューのお時間です」
「……レビューだと?」
「はい。陛下の公的な発言を振り返り、危険語の有無や訂正文の妥当性を確認するための場です。本日から、夜の定期的な実務として組み込ませていただきました」
ユリウスは事務的な手つきで、一枚の羊皮紙をアルノルトの机に置いた。
そこには、今日の会議の記録が記されていた。アルノルトは身構えながらその紙を見た。いつもなら、自分の発言の横にびっしりと赤いインクで修正案や説教が書かれているはずだ。
しかし、その紙には、会議の最後に彼が放った短い言葉だけが黒インクで記されているだけで、赤ペンによる書き込みは一つもなかった。
『建設局の修繕費は、現行十万に対する十二万の要求を再審議する。十一万で実施できる工事案を、明日の会議に提出せよ』
「……赤が入っていないな」
アルノルトが驚いて見上げると、ユリウスは眼鏡の位置を直し、淡々と答えた。
「入れる必要がありませんでした。主語、対象、数値、期限。すべてが明確で、比喩や感情によるノイズが一切含まれていない、安全な指示でした。王冠の介入を許さない、完璧な実務の言葉です」
それは、ユリウスからの最大限の賛辞だった。
アルノルトは「そのままで良い」と書かれた箇所をもう一度見た。折り畳む手つきが、先ほどより丁寧だった。
「そうか。お前の赤ペンを休ませることができたなら、少しは上達したということだな」
「ええ。この調子で、常に言葉から曖昧さを排除し続けていただければ、私の仕事も――」
「ヴェルナー」
不意に、執務室の扉が開いた。
立っていたのは宰相コンラートだった。彼はアルノルトに軽く一礼した後、ユリウスに向き直った。
「宰相閣下。いかがされましたか。まだ本日の書類の決裁が……」
「お前の仕事は、今日から三日間、完全にお休みだ」
コンラートの唐突な宣告に、ユリウスの動きが止まった。
「……はい?」
「鏡を見てみろ。お前の目の下の隈は、王宮の地下牢の囚人よりも酷いぞ。最初の猫騒動から連日の徹夜、加えて陛下の演説原稿の全修正、先日の花の片付け。お前が倒れては、この国の安全装置が機能しなくなる」
「お待ちください! 私が休めば、誰が陛下の言葉を校正するのですか! 王宮が滅びます!」
ユリウスが悲痛な声を上げたが、コンラートは無情にもユリウスの手から赤ペンを奪い取った。
「陛下も今日、自力で安全な言葉を見つけられた。数日くらいなら何とかなる。これは宰相としての命令だ。王都郊外の宿でも取って、温泉にでも浸かってこい」
「そんな、物理的な安全を確保しないまま現場を離れるなど――」
「連れて行け」
コンラートの合図で、廊下で待機していた近衛兵二名が入り込み、ユリウスの両腕をがっちりと掴んだ。
「へ、陛下! 明日からの公務では、決して抽象語を使わないでください! 特に『なるべく』『適宜』は悪魔の言葉です! あああっ!」
引きずられていくユリウスの絶叫が、夜の廊下に空しく響いて消えた。
残されたアルノルトとコンラートは、顔を見合わせた。
「……連れて行ってよかったのか?」
「ええ。彼にも休養が必要です。それに、陛下も今日ご自身で制御できたではありませんか」
コンラートは少しだけ微笑んだ。
だが、二人はまだ気づいていなかった。
安全装置である校正官が不在の時に限って、最も予期せぬ言葉の事故が起きるという、物語の必然に。




