第5話 宮廷詩人は敵です
戴冠後初となる演説が「安全性一〇〇パーセントの完全なる失敗」に終わった翌日。
王宮の一角にある臨時王命校正官の執務室には、朝から優雅で、かつ怒りに満ちた声が響き渡っていた。
「校正官殿! あなたは言葉を殺している! 芸術への冒涜だ!」
派手な羽飾りのついた帽子を振り乱し、ユリウス・ヴェルナーの机を両手で叩いたのは、宮廷詩人のラファエル・モーンであった。三十一歳の彼は、王家主催の祝賀会や式典で数々の頌詩を詠み上げてきた、エルデン王国の文化の象徴とも言える男だ。
「モーン殿。私は言葉を殺しているのではなく、言葉による殺人を未然に防いでいるのです。書類の山や可動壁ならともかく、比喩の対象が刃物や炎であればどうなっていたか」
ユリウスは顔色一つ変えず、手元の羊皮紙に赤ペンで線を引いた。
「そもそも、昨日の演説は事故ゼロで終了しました。何が不満なのですか」
「不満だらけだ! 広場に集まった民衆の顔を見たか! あれは演説ではない。ただの法制局の通達だ。陛下の言葉から情緒と美しさを奪うことは、王国の威信を損なうことと同義なのだぞ!」
「ですが、誤解や物理事故を生む『美しさ』は、公務において不要です」
「おお、なんという氷のように冷たい男か。君の心には詩の女神が住んでいないのか!」
ラファエルが大仰に天を仰いだその時、執務室の扉が開いて、アルノルト二世が入ってきた。
「モーンの言う通りだぞ、ヴェルナー。あの原稿のせいで、余は昨晩から『何者かに脅されているのではないか』という問い合わせの対応で、情報局の局長に泣きつかれているのだからな」
「陛下。安全を担保した結果です」
ユリウスが立ち上がって一礼するが、アルノルトは疲れたように首を振った。
「だとしても、あれでは駄目だ。余は国を導く王であって、規則の朗読機ではない。人々の心を動かすには、必ず言葉に温度が必要だ。なんとか、安全に比喩を使う方法はないのか」
「ありません。古代王冠は、陛下の公的な発言を字義通りに実現します。例外はありません」
「本当にお前は融通が利かないな」
アルノルトが嘆息したその時、執務室の奥から「ありますよ、例外の可能性」という弾んだ声が聞こえた。
いつの間にか部屋の隅の長椅子に座っていたのは、王立魔法学院の言語魔術研究者、ミラ・フェルベック博士だった。彼女の膝の上には、複雑な歯車と魔力水晶が組み合わさった見慣れない計測器が置かれている。
「フェルベック博士。いつからそこに」
「モーンさんが『言葉を殺している!』と叫んだあたりからです。面白そうだったので、つい」
ミラは悪びれずに立ち上がり、アルノルトに一礼した。
「陛下。校正官殿のおっしゃる通り、王冠はご自身の発言を厳格に処理します。ですが、もしそれが『他者の言葉の引用』であったなら、王冠はどう判定するでしょうか?」
「引用、だと?」
「はい。王冠は『王の命令や断定』を実行する装置です。もし陛下が『これは過去の詩人の言葉である』と明示してから読んだ場合、王冠はそれを王自身の意志ではなく『他者の言葉への言及』として扱い、起動を免除する可能性があります」
ミラの仮説に、ラファエルの顔がパァッと明るくなった。
「素晴らしい! さすがは魔法学院の秀才だ。つまり、私が紡いだ至高の詩句を陛下が引用という形で読み上げれば、安全かつ美しく民衆の心を震わせることができるというわけだな!」
「仮説の段階です。検証が必要です」
ユリウスが冷ややかに釘を刺したが、ミラはすでに計測器のスイッチを入れていた。
「というわけで、実験しましょう。被害が出ても片付けやすい、第一西広間に移動しますよ」
十分後。
王宮の第一西広間には、急ごしらえの演台が用意されていた。周囲の家具はすべてユリウスの指示で撤去されており、万が一の物理事故に備えて近衛兵が扉の外で待機している。
演台の前に立ったアルノルトの手には、ラファエルがたった今書き上げたばかりの詩の原稿が握られていた。
「……モーン。これは、いくらなんでも過激すぎないか」
アルノルトが原稿を見て眉をひそめる。
「『閉ざされた幕を開き、明日を迎えよう』……これを引用せずに言えば、あそこの幕が開くかもしれないな」
「だからこその実験です、陛下!」
広間の隅で、ラファエルが両手を広げて力説する。
「これほど極端で美しい比喩が発動しなければ、引用は完全に安全であると証明されます! さあ、歴史的な朗読をお願いします!」
「万が一発動の兆候が見えたら、私が全力で陛下の口を塞ぎますのでご安心を」
ユリウスが真顔で恐ろしいことを言いながら、アルノルトの真横にぴったりと張り付いた。
少し離れた場所では、ミラが計測器の目盛りを食い入るように見つめている。
「では、いきますよ。準備はいいですか」
アルノルトは一つ深呼吸をし、ユリウスに指示された通りの前置きを、公的な宣言の文脈で口にした。
「これより申し上げるのは、宮廷詩人ラファエル・モーンの詩の引用である」
明確な『引用の明示』。
そして、アルノルトは原稿に視線を落とし、持ち前の朗々とした声で読み上げた。
「閉ざされた幕を開き、明日を迎えよう」
ユリウスは息を詰め、ミラは計測器を握りしめた。
もし王冠が言葉の字義通りに反応すれば、今この瞬間に広間の天井が焼け落ち、どこからともなく獅子が具現化し、嵐と雷鳴が巻き起こるはずだ。
だが。
広間には、アルノルトの美しい声だけが反響し、ただ静寂が流れていた。
熱気も、猛獣の咆哮も、雷の音も、一切発生しない。
「……魔力反応、ゼロです!」
ミラが興奮した声で叫んだ。
「王冠からの魔力流出は完全に抑え込まれています! 予測通り、明確な『引用』の枠組みの中にある言葉は、言及として処理され、起動対象から除外されました!」
「おおおおおっ!」
ラファエルが歓喜の声を上げ、その場に膝をついて天を仰いだ。
「勝った! 私は、芸術は規則に打ち勝ったのだ! 校正官殿、見たか! これで陛下の演説に、再び美しい情緒を取り戻すことができる!」
ユリウスは小さく舌打ちをしたが、事実として安全が確認された以上、反論はできなかった。手元のメモ帳に『明示された引用の範囲内は非起動』と書き込む。
アルノルトもまた、原稿から顔を上げて深く安堵の息を吐いた。
「……よかった。本当に何も起きなかった。これでようやく、余も無味乾燥な読み上げ機から解放される」
アルノルトの顔に、いつもの余裕と明るい笑みが戻った。張り詰めていた緊張が一気に解け、彼は無意識のうちに、王としての公務の文脈のまま、軽やかな口調で言葉を続けた。
「モーンの詩を引用すれば、民衆の心も動くだろう。引用が安全だと分かって本当によかった。これからは、冷たい文章にも少しくらい言葉に花を添えてもいいだろう」
瞬間。
ミラの持っていた計測器の針が、大きく右へ振り切れた。
「えっ」
ミラが声を漏らしたのと、ユリウスが「陛下!」と叫んだのは同時だった。
ヒュウウウッ、と。
閉め切られた広間の中に、存在しないはずの風が吹いた。
「な、なんだ?」
アルノルトが周囲を見回す。
ガチャン、パリン!
広間の外、廊下の方から、陶器が割れるような音が連続して聞こえてきた。
直後、広間の開け放たれた換気用の高窓から、鮮やかな色彩が滝のように流れ込んできた。
それは、花だった。
王宮の中庭に咲き誇る春の装花、来客用の応接室に飾られていた豪華な百合、廊下の花瓶に生けられていた薔薇。それらが自ら茎を切り離し、あるいは花瓶ごと飛び出し、空中の見えない風に乗って広間へと殺到してきたのだ。
標的は一つ。アルノルトの立つ演台である。
「うわっ!?」
アルノルトが原稿で顔を庇うが、遅かった。
ドサドサドサドサッ!
凄まじい勢いで降り注ぐ花々が、瞬く間に演台を埋め尽くす。アルノルトの頭にも肩にも花が降り積もり、手元の原稿は大量の薔薇と百合の山の下に埋没してしまった。
「ぶっ……花びらが、口に……!」
アルノルトがむせ返りながら、花の山から顔だけを出す。文字通り、原稿が読めなくなるほどの花が『添えられた』のだ。
「おお……なんという美しく詩的な奇跡か!」
ラファエルは花の雨を浴びながら、両手を広げてうっとりと目を閉じていた。
「言葉の力とは斯くも偉大なり! 王の一言で、世界が花に祝福されるとは!」
「黙りなさい、この元凶が!」
ユリウスの怒声が飛んだ。彼は赤ペンを持ったまま、花まみれのアルノルトに駆け寄った。
「陛下! 引用の宣言の外で、不用意なアドリブの比喩を使わないでください! 『花を添える』などという曖昧な表現をするから、王国所有の装花が集まってくるのです!」
「あ、アドリブなら……引用に入らないのか……っ」
アルノルトが百合の花を頭に乗せたまま、情けない声で咳き込む。
「当然です! 『これは引用である』と宣言した範囲を抜ければ、それは陛下の新たな王言です! 引用範囲外のアドリブは通常通り発動すると、なぜ理解できないのですか!」
「花を添えるという発言を撤回する」と王が読むと、花の流入が止まった。
ユリウスはアルノルトの頭の上の百合をそっと取りながら、手元の手帳の規則に太い赤線を引いた。
『安全なのは明示された引用範囲のみ。それ以外のアドリブは通常通り発動する』
「……なんて騒ぎなの。廊下の花瓶が全部空っぽになってるわよ」
そこへ、広間の開いた扉から呆れたような声が降ってきた。
現れたのは、アルノルトの妹であるエリーゼ王妹だった。彼女は、首まで花に埋もれた兄と、激怒しているユリウス、そして恍惚としているラファエルを交互に見て、大きなため息をついた。
「兄上、またやったの?」
「すまない、エリーゼ……気が緩んだ」
「はあ。でも、フェルベック博士。引用なら安全だって証明されたのよね?」
エリーゼの問いに、ミラは計測器を撫でながら頷いた。
「はい、殿下。他者の言葉であると宣言すれば、王冠は発動しません」
「なら、簡単じゃない」
エリーゼは、足元の薔薇の花びらをヒールで踏みつけながら、いともあっさりと爆弾を落とした。
「引用って言わなくても、『次の一文は比喩です』って先に言えばいいんじゃないの? そうすれば、王冠だって『ああ、これは本気の命令じゃないんだな』って分かるでしょ」
「……!」
ユリウスとミラの動きが同時に止まった。
アルノルトも、花の山の中から目を丸くして妹を見た。
「前置きの免責宣言……」
ミラが口元に手を当てて呟く。
「可能性はあります。王冠が文脈を解釈する装置である以上、『これは比喩である』というメタ的な宣言が、直後の言葉の強制力を無効化する安全弁として機能するかもしれません」
「おお! 殿下、あなたは天才だ!」
ラファエルが再び歓喜し、エリーゼの手を取ろうとしたが、近衛兵に素早く遮られた。
「すぐに検証しましょう、陛下!」
ミラが目を輝かせるが、ユリウスがそれを冷徹に制止した。
「実験は後回しです。まずはこの広間の清掃と、王宮各所から集まった花の返却、そして各部署への謝罪報告書の作成が先です」
ユリウスの眼鏡の奥の瞳が、アルノルトとラファエルを射抜いた。
「演台に花を添える前に、やるべき実務の山を片付けていただきます」
その氷のような宣告に、アルノルトは項垂れ、ラファエルでさえも小さく身を縮めるのだった。




