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陛下、比喩は禁止です。~「猫の手も借りたい」で猫まみれ。王の失言、校正します~  作者: 他力本願寺


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第4話 演説は安全です。面白くはありません

抜けるような青空の下、王都アルクスの中央広場は数万人の民衆で埋め尽くされていた。


 彼らの視線の先にあるのは、王宮の正面バルコニーに設えられた豪奢な演台である。本日は、アルノルト二世が戴冠後初めて国民に向けて行う公式演説の日だった。


 広場は熱気に包まれ、民衆は新しい王の言葉を今か今かと待ちわびている。


 しかし、そのバルコニーの裏側に張られた天幕の中では、まったく質の違う重苦しい空気が漂っていた。


「……ヴェルナー。これは、何の冗談だ」


 アルノルトは、手渡された数枚の羊皮紙を震える手で持ちながら、目の前に立つ臨時王命校正官を睨みつけた。


 ユリウス・ヴェルナーは、徹夜明けの疲労を微塵も感じさせない完璧な姿勢で直立し、眼鏡の位置を直して答えた。


「冗談などは一切含まれておりません。本日付けの、国王演説最終稿です」


「最終稿だと? 余が三日前に書いた草案の原型が留められていないではないか!」


 アルノルトは羊皮紙をバンと机に叩きつけた。


「『我が国の輝かしい未来を共に創ろう』という一文が、なぜ『現行の国家運営方針を維持し、各員の法令に基づく社会活動を要請する』になっている! 『豊かな実りを約束する』が『前年度比を維持する目標収穫量へ向けて各省庁を指導する』だと? これでは法務局の通達か、土地の売買契約書ではないか!」


「比喩、曖昧語、省略、そして誇張を完全に削除した結果です」


 ユリウスは淡々と事実だけを述べた。


「『輝かしい未来』とおっしゃった場合、周囲の照明や式典用の飾りが対象にならないとは言い切れません。無から何かを作ることはないと分かりましたが、ここには動くと困る物が多すぎます。まず事故を防ぐ原稿にしました」


「だからといって、これを余に読めというのか! 民衆は契約書の読み上げを聞きに来たのではないぞ!」


「陛下」


 アルノルトの抗議を遮ったのは、背後に立っていた宰相コンラートだった。


 コンラートは、前日の可動壁消失事故による極度の疲労から、まだ顔色が悪かった。


「ヴェルナーの言う通りです。数万の民衆が集まるこの広場で、もし一昨日や昨日のような物理現象が起きれば、大惨事になりかねません。今日は何よりも『安全』が最優先です。感情や情緒など二の次で構いません。ただ、書かれた通りに読んでください」


「宰相まで……」


 アルノルトは頭を抱えた。


「陛下、お時間です」


 バルコニーへと続く扉を開けた近衛隊長バルドが、無情にも声をかける。


 アルノルトは深くため息をつき、赤ペンで真っ黒――いや、真っ赤に修正され、清書された無味乾燥な原稿をひったくるようにして天幕を出た。


「陛下だ!」


「アルノルト陛下万歳!」


 アルノルトがバルコニーに姿を現した瞬間、中央広場は割れんばかりの大歓声と拍手に包まれた。


 風になびく金髪、堂々たる体躯、そして天性の華やかさ。民衆は若き新王に熱狂し、彼が紡ぎ出すであろう情熱的で美しい言葉を期待して、無数の目を輝かせていた。


 アルノルトは手を上げて歓声に応えながら、演台の前に立った。


 王が手元の原稿に視線を落とす。その斜め後ろで、ユリウスも控えの原稿を開いた。危険な表現は、一つ残らず取り除いてある。


 アルノルトは背筋を伸ばし、腹に力を入れた。ユリウスは第一声を待ってペンを構えた。抑揚も間合いも王に任せる。文字さえ変わらなければ、問題はない。


 彼は深く息を吸い込み、広場全体に響き渡る声で第一声を放った。


「エルデン王国の国民たる皆様。先日、余は所定の式典を経て国王の地位を継承した事実を、ここに公式に宣言する」


 朗々とした、実に美しい声だった。


 しかし、広場の民衆は「……お、おお?」と戸惑いの声を漏らしただけだった。


 アルノルトは構わず続けた。


「先代国王の治世における諸政策については、現時点において大規模な変更の予定はない。各人は、それぞれの職務規定および王国の法令を遵守し、滞りなく日常の生産活動に従事されたい」


 広場の熱気が、急速に冷えていくのが分かった。


 民衆は顔を見合わせている。「あれ? いつもの演説と違うぞ?」という当惑が、数万人の間にさざ波のように広がっていく。


 アルノルトは必死に抑揚をつけ、身振りを交えて読み上げた。


「国家の安全保障に関しては、現行の国境警備体制を維持し、隣国との通商条約に基づく関係を継続する。また、地方における社会資本の整備については、本年度の予算案に計上された範囲内でのみ実行を許可するものとする」


 しん、と。


 広場から、一切の歓声が消え失せた。


 誰も拍手をしない。いや、正確には、どこで拍手をすればいいのか、誰にも分からなかったのだ。感情を揺さぶる言葉がなく、ただ事実と規定が羅列されるだけの文章には、民衆が反応する「隙」が全く存在しなかった。


 アルノルトの額から汗が流れ落ちる。


 古代王冠《レクス・ヴェルブム》は、物理的な発動を一切起こしていない。石畳から花は咲かず、周囲の建物が動くこともない。安全性は一〇〇パーセントである。


 だが、社会的・政治的な空間としては、これは完全な地獄だった。


「……以上をもって、本日の公式発表を終了する」


 アルノルトが最後の一文を読み終え、広場を見渡した。


 数万の民衆は、魔法で石に変えられたかのように静まり返っていた。パラパラ、と、前列にいた数人が義務感から手を叩いたが、それが逆に静寂の痛々しさを際立たせていた。


 アルノルトは、逃げるようにバルコニーを後にした。


 一時間後。王宮の執務室。


 アルノルトは長椅子に倒れ込み、両手で顔を覆っていた。


「……終わった。余の威信は、今日完全に地に落ちた」


「何をおっしゃるのですか、陛下」


 アルノルトの前の卓に、一枚の羊皮紙が滑り込んできた。


 ユリウスが提出した、演説の報告書である。


「本日の演説における王冠の物理事故、見事にゼロ件です。比喩・禁止語の使用もゼロ件。曖昧な表現による行政的混乱の予兆も皆無。完璧な結果ではありませんか」


 アルノルトは顔を上げ、血走った目で報告書を睨みつけた。


 そこには、整然とした文字でこう書かれていた。


『事故:0件/比喩:0件/拍手:推定十数回。拍手等による中断が発生しなかったため、演説進行の遅滞なし』


「ヴェルナー……お前、本気で言っているのか」


「本気ですが」


「あの広場の空気を感じなかったのか! 余は国民の前で、ただの退屈な代読者になったのだぞ! 一体あれのどこが成功だ!」


「報告書の最終行をご覧ください。『総合評価:完全なる成功』と明記しております。安全に勝る成果はありません」


 ユリウスが平然と胸を張ったその時、執務室の扉が乱暴にノックされ、情報局の局長が青ざめた顔で転がり込んできた。


「へ、陛下! 一大事でございます!」


「なんだ、今度は何が起きた! 余は何も言っていないぞ!」


 アルノルトが身構えるが、局長は首を横に振った。


「いえ、物理的な事故ではありません! 先ほどの演説を聞いた民衆から、王宮の広報窓口に問い合わせが殺到しているのです!」


「問い合わせだと?」


「はい! 『陛下はどこかお加減が悪いのではないか』『何者かに脅されて、無理やりあのような文書を読まされているのではないか』と! 一部では、宰相閣下が陛下を幽閉して実権を握ったという陰謀説まで飛び交い始めております!」


「なっ……」


 アルノルトが絶句し、背後にいたコンラートが「私が幽閉だと!?」と素っ頓狂な声を上げた。


「民衆は、陛下の『ご自身の言葉』を聞きに来たのです。それがあのような、法制局の役人が書いたような通達文であったため、皆様、深い不安と恐怖を抱いておられます。至急、陛下がご健勝であられることを示す声明を出さなければ、暴動すら起きかねません!」


 局長の報告を聞き、アルノルトはゆっくりとユリウスへ向き直った。


「……聞いたか、臨時王命校正官殿。安全性一〇〇パーセントの演説は、余に陰謀説と健康不安説をもたらした。見事なまでの『完全なる成功』だな」


 皮肉を込めて告げられた言葉に対し、ユリウスは報告書へ視線を落とした。


 彼は沈黙したまま、自身の定めた「安全の定義」と「社会的な結果」の間に生じた、途方もない乖離を見つめていた。しかし、彼の顔に反省の色はない。ただ、仕様の調整が必要だとでも言うような、冷徹な分析の目だった。


 アルノルトは、机の上の報告書を乱暴に払いのけた。


「いいか、ヴェルナー。余はもう二度と、あんな文書は読まん」


「しかし陛下、ご自身の言葉で話せば、必ずまた比喩が混じります。そうなれば――」


「事故が起きるなら、それが最小限で済む言葉を選ぶまでだ。リスクを恐れて言葉を殺せば、結果として余という王そのものが死ぬ」


 アルノルトは立ち上がり、はっきりと宣言した。


「次は、余が自分で話す」


 その声には、逃げ場のない決意がこもっていた。


 ユリウスはアルノルトの目を見返した。


 数秒の対峙の後、ユリウスは反論することなく、静かに懐から手帳を取り出した。


 そして、まだ真新しいインクが詰まった赤ペンを一本抜き出し、無言のまま、それを強く握りしめた。

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