第3話 壁を取り払って話しましょう
王宮アルクスの西棟には、要人との会談や機密性の高い会議に用いられる特別室がいくつか存在する。これらの部屋は防音性に優れ、必要に応じて部屋の広さを変えられるよう、厚さ二十センチはある木製の可動壁で仕切られていた。
その日、アルノルト二世は西棟の第二会議室において、国内の有力諸侯五名との会合に臨んでいた。
大きな円卓を囲む空気は、控えめに言っても重苦しいものだった。
「――以上が、新体制における地方税制の見直し案となります。皆様の領地におかれましても、王家への変わらぬご協力を賜りたく存じます」
アルノルトが穏やかな声でそう結ぶと、向かいに座る初老の領主、ローゼンタール伯爵が、立派な白髭を撫でながら重々しく口を開いた。
「陛下のお言葉、しかと承りました。しかしながら、我が領地は昨年の不作により、領民の生活も困窮しております。そこにきての新たな税制となれば、いささか……いえ、大変な反発が予想されます。どうか、実情をご賢察いただき、補助金の増額をご検討いただけないでしょうか」
「伯爵の仰る通りです。我が領地でも、街道の整備費用が嵩んでおりまして……」
他の諸侯たちも次々と同調し、同情を誘うような泣き言を並べ立て始めた。
彼らの言葉は恭しいが、その目は新王の力量を値踏みしている。先代から続く権益をいかに守り、新体制からの負担をいかに回避するか。表面上の忠誠の裏で、腹の探り合いが続いていた。
アルノルトは資料の同じ欄を二度読み、諸侯たちを見回した。
少し離れた壁際では、臨時王命校正官の腕章を巻いたユリウス・ヴェルナーが、羽ペンと手帳を構えて微動だにせず立っている。彼の目は、諸侯ではなくアルノルトの口元だけを鋭く監視していた。
王は資料を伏せ、円卓に向き直った。
彼は円卓の上に両手を置き、真っ直ぐに諸侯たちを見据えた。
「皆様の苦労はよく分かっている。余も、ただ一方的に負担を強いるつもりはない。王国と地方は一蓮托生だ」
アルノルトは、持ち前の誠実な響きを持つ声で語りかけた。
「だからこそ、今日は建前を抜きにして語り合いたいのだ。疑心暗鬼のままでは、前に進むことはできない。さあ、互いの間にある壁を取り払って話そうではないか」
――しまった。
ユリウスは息を呑み、「お待ちください!」と声を上げるべく、壁際から一歩前に踏み出した。
だが、遅かった。
アルノルトの「壁」という名詞と「取り払う」という動詞が、公的な会議の文脈において、明確な断定と指示の言葉として頭上の《レクス・ヴェルブム》に受理された。
ズズンッ。
足元から、鈍い地鳴りのような振動が伝わってきた。
「な、地震か!?」
ローゼンタール伯爵が椅子から腰を浮かせた。
次の瞬間、会議室を仕切っていた重厚な木製の可動壁が、ガコンッというけたたましい音とともにレールから外れ、自律的に横へとスライドし始めた。それだけでなく、部屋の隅に置かれていた目隠し用の豪奢な衝立までもが、まるで目に見えない巨人の手に掴まれたかのように宙に浮き、壁際の収納スペースへと次々に押し込まれていく。
「ひぃっ!」
「壁が……壁が動いているぞ!」
諸侯たちがパニックになりかける中、ユリウスだけが冷静にメモを取っていた。
「王宮所有の可動壁および衝立の撤去……王冠の仕様通り、法域内の王国管理資源における最小実現ですね。死傷者はなし」
十秒も経たないうちに、アルノルトたちのいる第二会議室と、隣接する第一会議室を隔てていたすべての物理的障壁が消え去った。
二つの部屋は、だだっ広い一つの大部屋へと統合された。
そして、障壁がなくなったことで、アルノルトや諸侯たちの視界には、第一会議室の情景が露出することになった。
そこでは、巨大な長机を囲んで、宰相コンラート・ハイムと数名の財務官僚たちが、山積みの資料を前に白熱した議論を交わしている真っ最中だった。
「ですから、宰相閣下! ローゼンタール伯爵の領地は不作などと申告しておりますが、裏帳簿ではちゃっかりと関税のピンハネをしております! 未納税の額は看過できません!」
「徴税記録との差額を確認せよ。説明を求め、必要なら監査に入る。補助金の増額は、資料が揃うまで保留だ」
「承知しました。先ほど提出された数字とも突き合わせます」
……しん、と。
大部屋となった空間に、恐ろしいほどの静寂が落ちた。
第一会議室のコンラートたちは、自分たちを遮っていたはずの厚い壁が忽然と消え失せ、あろうことか、今まさに監査の打ち合わせをしていた対象――ローゼンタール伯爵をはじめとする諸侯たちが、円卓の向こうから自分たちを凝視していることに気づいた。
一方の諸侯たちも、申告と徴税記録の食い違いを財務局が調べており、監査と補助金保留の方針が検討されていることを、一言一句違わず耳にしてしまった。
アルノルトは、額に冷や汗を浮かべながら、円卓と長机の間に広がる、気まずすぎる空間を見つめていた。
ユリウスが静かにアルノルトの背後に歩み寄り、耳元で囁いた。
「陛下。すぐに撤回と現状復帰の訂正文を作成しますか」
「いや……待て」
アルノルトは小声で答えた。
「壁を取り払うという命令は撤回する。ただ、今ここで壁を戻せば、かえって彼らを刺激する。それに、聞いてしまった言葉はもう戻らん」
両室の当事者たちは、互いに硬直したまま、目を白黒させていた。
この場で諸侯が抗議すれば、説明のつかない数字に話が戻る。コンラート側も、記録の照合を終える前に調査方針を当人たちに聞かれ、正式に説明を求める段取りが狂ってしまった。
双方にとって、今ここで議論を爆発させることは致命傷になりかねなかった。
「……ええ、ゴホン。では、陛下。先ほどの街道整備の件ですが」
ローゼンタール伯爵が、引きつった笑顔を浮かべながら、あきらかに声のトーンを落として語り始めた。彼は隣のコンラートたちを一切見ようとしない。
「そうだな、伯爵。実情は……よく分かった。前向きに検討しよう」
アルノルトも、空気を読んで声を潜めた。
すると、数メートル離れた第一会議室の長机でも、コンラートが官僚たちに向けてわざとらしく咳払いをし、小声で指示を出し始めた。
「……皆の者。先ほどの件は一旦保留とする。今は来月の祭事予算について……」
「は、はい。祭事予算ですね。では、こちらの資料を……」
物理的な壁が存在しない、無駄に広い一部屋。
その空間の両端で、二つのグループが互いに背を向け合い、相手に声が聞こえないように身を寄せ合って、ヒソヒソと別々の会議を続行するという異常な光景が展開された。
アルノルトは諸侯たちと頭を突き合わせ、「いや、補助金は難しいのではないか」「そこをなんとか、少しでも」と、盗賊の密談のような音量で交渉を続けた。
諸侯たちは、提出した数字の補足を始めた。宰相のペンが止まるたびに、伯爵の声も小さくなった。
ユリウスだけが、部屋の中央に立ち、小声の二つの会議を冷ややかに見比べながら、猛烈な勢いで報告書を書き進めていた。
一時間後。
どうにか会合を終え、疲労困憊の諸侯たちが逃げるように帰っていった後、アルノルトは椅子に深く背中を預けて息を吐いた。
「……終わった。寿命が縮む思いだったぞ」
「お疲れ様でした、陛下」
ユリウスが、書き上げたばかりの報告書を差し出した。
「『情報隔離体制の崩壊による重大インシデントに関する報告』です。利害が直結する二つの秘密会議が物理的に一室化し、王宮の機密が漏洩しました。再発防止のため、今後は陛下の会議室への入室前に、隣室のスケジュール確認を必須とします」
「大袈裟だな、ヴェルナー。結果としては悪くなかっただろう?」
アルノルトは少しだけ得意げに笑った。
「コンラートの監査の話を聞いたおかげで、彼らはすっかり萎縮して、最終的にはこちらの税制案をほとんど呑んだ。本音が出たことで、交渉がスムーズに進んだのは事実だ。まさに『壁を取り払った』効果だよ」
「詭弁です」
ユリウスは間髪入れずに切り捨てた。
「資料を確かめる前に、内々の話が漏れただけです。たまたま今回は宰相閣下の会議だったから良かったものの、もし隣が他国の密偵の尋問や、王家の私的な財産管理の会議であればどうなっていたか。偶然の産物を成功体験にしないでください」
「痛いところを突く……」
そこへ、第一会議室側からコンラートがよろよろと歩み寄ってきた。彼の顔には、諸侯たち以上の深い疲労が刻まれていた。
「陛下……。今後は、私が財務局と話し合いをする際は、王宮の地下室を使うことにします。まさか、確認中の伯爵本人の前で、部下に数字の照合を指示する羽目になるとは……」
「すまない、宰相。余の配慮が足りなかった」
アルノルトが素直に謝罪すると、コンラートは力なく首を振った。
「いえ。被害が王宮内だけで済んだことを幸いと思うべきでしょう。ですが陛下、明日は中央広場で、戴冠後初となる国民への演説が控えております」
コンラートの目が、鋭く光った。
「何万という民衆が集まる場です。そこで今日のような事故が起きれば、王の威信に関わります。今度こそ、事故ゼロで頼みますぞ」
「分かっている。余も、国民の前で恥をかくつもりはない」
アルノルトが頷くと、コンラートは傍らのユリウスへ視線を移した。
「ヴェルナー。明日の演説原稿の最終チェックはお前に一任する。一切の危険な言葉を排除しろ」
「承知いたしました」
ユリウスは新しい羊皮紙を広げ、最初の行に『禁止表現』と記した。余白は十分に取ったつもりだったが、すぐにもう一枚を脇へ置いた。
王の言葉から、すべての曖昧さと比喩を削ぎ落とす。それが自分の使命であると、彼は信じて疑わなかった。




