第2話 山ほどあります
「陛下。こちらが、本日から適用される『禁止表現リスト』の第一版です」
前日の猫騒動から一夜明けた、王宮の執務室。
左腕に真新しい「臨時王命校正官」の腕章を巻いたユリウス・ヴェルナーは、国王アルノルト二世の執務机に、ドスリと重い音を立てて羊皮紙の束を置いた。
「……ヴェルナー。なんだ、この鈍器のような束は」
「全四十八頁に及ぶ、公的な場での使用を禁じる比喩、慣用句、誇張表現、および抽象語のリストです」
徹夜明けであるにもかかわらず、ユリウスの背筋は定規を当てたように伸びていた。彼の眼鏡の奥の瞳は、曖昧な言葉をこの世から根絶やしにするという静かな闘志に燃えている。
「第一章『動物を用いた比喩』。昨日の『猫の手も借りたい』をはじめ、『犬猿の仲』『馬が合う』『狸寝入り』など。第二章『自然現象の比喩』。第三章『身体部位を用いた慣用句』。さらに第四章では『極めて大きい、または数が多いことを示す誇張表現』を網羅しました」
アルノルトはこめかみを押さえながら、分厚いリストの束をめくった。
「あのな、余とて馬鹿ではない。命令の際に比喩を使わなければいいのだろう? だが、このリストにある表現をすべて禁じられたら、演説はおろか日常の政務会話すら成り立たん」
「成り立たせなければならないのです。昨日の惨状をお忘れですか」
ユリウスの容赦ない指摘に、アルノルトは沈黙した。
前日、王の「猫の手も借りたい」「道を開けよう」という発言は、古代王冠の強制力によって文字通り現実化し、王宮を猫の毛と動く家具の大混乱に陥れた。
頭上に戴く王冠の重みを意識しながら、アルノルトは嘆息した。
「分かってはいる。だが、こんな辞書のような禁止事項をいちいち記憶して公務に臨むなど不可能だ。禁止事項ばかり増やされても困る。未処理の公文書だって山ほどあるではないか」
アルノルトが、純粋な感想としてそう評した瞬間だった。
「……あっ」
ユリウスの喉から、短い息が漏れた。
執務室の空気が、微かに震えた。
バサッ、バサバサバサッ!
窓の外から、羽ばたきのような音が聞こえてきた。鳥ではない。無数の白い四角形が、中庭を横切ってこちらへ飛んでくるのだ。
「なんだ、あれは!?」
アルノルトが立ち上がる。
飛んでくるのは、書類だった。羊皮紙、安価なパルプ紙、木簡、紐で束ねられたファイル。それらがまるで意思を持った群れのように、開いた窓から猛烈な勢いで執務室へ飛び込んできた。
それだけではない。廊下に通じる扉の隙間から、天井の換気口から、王宮のあらゆる場所から書類が這い出し、滑り込み、宙を舞って集まってくる。
「陛下、下がって!」
ユリウスが王を庇うように前に出るが、書類の濁流は止まらない。
ドサッ、バサバサ、ズドン。
様々な音が重なり、執務室の中央に、瞬く間に書類が積み重なっていく。大人の背丈を超え、シャンデリアに届かんばかりの巨大な円錐形。
まさに、物理的な「山」だった。
「……おい、ヴェルナー」
書類の山に圧迫され、部屋の隅へ追いやられたアルノルトが引きつった声を出した。
「余は命令などしていないぞ。ただ未処理の公文書の多さを評しただけだ!」
「王冠は、公務中の『断定』や『評価』も発動の対象にするということです。未処理の公文書を確認する公的な文脈において、『山ほどある』と断定した。だから、王冠が最小の現実化を導き出した……っ!」
ユリウスは降り注ぐ書類を赤ペンで弾き落としながら、忌々しげに天井を睨んだ。
「とにかく、至急魔法学院の専門家を呼んでください! 王冠の仕様を完全に特定しなければ、この国は言葉の暴力で沈みます!」
三十分後。
執務室に招かれたのは、王立魔法学院の言語魔術研究者、ミラ・フェルベックであった。
二十六歳という若さながら、研究室に籠もるよりも現場の魔力異常を好む奇人として知られている。彼女は書類の山を見るなり、目を輝かせて魔力測定器を構えた。
「素晴らしい! これが生きた古代の強制力ですか! フェルベック博士と呼んでください、陛下、校正官殿!」
「博士、感心している場合ではない。この状況をどうにかできないのか」
アルノルトが苛立ちを隠せずに問うが、ミラは書類の山から数枚を抜き出し、フムフムと頷いている。
「なるほど。陛下、ご安心を。この書類たちは無から生成されたわけではありません。質量保存の法則は守られています。これは財務局の三年放置された予算案、こっちは建設局の保留になったままの橋梁設計図ですね」
「保留案件ばかりだと?」
「はい。そして、個人の日記や家族への手紙といった『私有物』は一枚も混ざっていません。集まったのは、王宮の権限が及ぶ『未処理・保留・参考書類』のみです。つまり、王冠は王国管理の既存資源だけを対象にし、私有権には干渉しないという仕様ですね」
ミラは嬉々としてメモを取りながら答えた。
「ならば、原因であるこの王冠を頭から外せば止まるのではないか?」
アルノルトは頭上の《レクス・ヴェルブム》を外した。その間にも、最後の一束が窓から入り、山の上へ収まった。
「無駄です、陛下」
ミラが計器を見て言った。
「戴冠儀式によって、王権の契約は王冠という物質ではなく、アルノルト陛下ご自身の魂と結びついています。王冠はあくまで処理を行う端末に過ぎません。外して執務机の引き出しにしまっても、陛下の言葉が持つ強制力は消えませんよ」
「では、壊すしかないのか。ハンマーでも持ってこい」
「絶対にやめてください!」
ミラとユリウスが同時に叫んだ。
ミラは慌てて懐から古い羊皮紙の写しを取り出した。
「これは戴冠式前に確認した、王冠の修復記録の写しです。二百四十年前に失われていた宝珠を、今回の修復で元に戻しています。ここには『王冠の物理的破壊は、蓄積された契約魔力の無秩序な暴走を招くため禁忌とする』とあります。停止のつもりで壊して、制御できない放出を起こすわけにはいきません」
「……冗談だろう」
「魔術に冗談はありません。ただ、記録の末尾に『第一更新刻印』という謎の記述があります。現時点では意味不明ですが、おそらく正規の停止や制御に関わる手順が存在するはずです。それを解明するまでは、陛下の『言葉』そのものを制御するしかありません」
アルノルトは深い絶望を湛えた目で、執務室を占拠する書類の山を見上げた。
「分かった。壊しても外しても解決しないのは理解した。だが、この部屋が使えないのは困る。ヴェルナー、すぐに片付けさせろ。余が『元の場所に戻れ』と命じればいいのだろう」
アルノルトが王冠に向けて口を開きかけた瞬間、ユリウスが猛烈な勢いで前に飛び出した。
「お待ちください、陛下!!」
「な、なんだ!?」
「『元の場所』とはどこですか!? この山には三十以上の省庁、百名以上の官僚の机にあった書類が混ざっています! 曖昧に『戻れ』などと命じれば、王冠がどう解釈するか分かりません。王宮中の空を書類が飛び交い、誰の机の上にも関係ない書類が無差別にばら撒かれるという二次災害が起こる確率が極めて高い!」
「なら、どう言えばいいのだ!」
「対象と期限、保管先、所有部署を逐一指定した訂正文を作成します。私が書き上げるまで、陛下は絶対に公務の文脈で口を開かないでください!」
ユリウスは狂気すら帯びた目で手元の羊皮紙に向かい、インク壺に羽ペンを突っ込んだ。
カリカリカリカリカリカリ!
異様な速度でペンが走る。
『本件において集積された文書類のうち、財務局管轄の保留案件については西棟二階の第三書庫へ本日中に移送すること。建設局管轄の未処理書類については南棟一階の……』
「ヴェルナー。長すぎる。余はもっと短く、一言で片付けたいのだが」
「短く言おうとするから比喩や曖昧な表現が入り込むのです! 安全を担保するためには、条件をすべて言語化しなければなりません! 短い言葉などという甘えは捨ててください!」
ユリウスの説教に、国王たるアルノルトがたじたじとなって後ずさる。
「……一体何の騒ぎだ。廊下にまで陛下の声が響いているぞ」
そこへ、呆れ顔の宰相コンラートが執務室に入ってきた。
彼は部屋の中央にそびえ立つ書類の山を見て、一瞬目を丸くしたが、すぐに冷静さを取り戻し、足元に落ちていた一枚の羊皮紙を拾い上げた。
「……ほう」
コンラートの目が細められた。
「どうした、宰相。また何か問題のある書類だったか?」
アルノルトが疲労困憊の顔で尋ねる。
「いえ。これは、二年前に私が地方税務局へ再提出を命じたきり、担当者が『紛失した』と言い張って行方不明になっていた不正疑惑の報告書です」
コンラートは次に、別の束から数枚を引き抜いた。
「こっちは、法務局が議会の追及を逃れるために意図的に棚上げしていた法案の修正草案。なるほど……各部署が意図的に隠匿し、あるいは放置して『未処理・保留』としていた厄介な案件が、陛下の『山ほどある』という一言によって、すべてここへ強制徴収されたわけですか」
コンラートの顔に、悪魔的な笑みが浮かんだ。
「素晴らしい。各省庁の査察にこれほど手っ取り早い方法はありません。隠し立てが一切不可能なのですから。王冠は、行政監査の道具としては実に優秀ですね」
「宰相閣下。王宮の機能が一時的に停止しているのですよ。これを優秀などと評価されては困ります」
訂正文を書き続けながら、ユリウスが抗議する。
「分かっているさ、ヴェルナー。だが、この山を各部署へ返還する前に、全て目録化しておく価値はある。これは王宮の膿だ。陛下の言葉が、物理的にそれを可視化してくれたのだからな」
「……お前たち、少しは余の身にもなってくれ」
アルノルトは壁際に押し付けられながら、弱々しく呟いた。
「しかし陛下。これで証明されました。王冠は命令だけでなく、陛下の公的な『評価』や『断定』の言葉にも反応します。これを防ぐためには、先ほど提出した禁止リストの運用について、追加の規定を設ける必要が……」
ユリウスが赤ペンを振り回しながら、さらに細かい仕様と対策を語り始める。
「ああ、もう分かった、分かったから! やめろ、お前の小言は、まだ山ほど……」
うんざりしたアルノルトが無自覚に言い返し、その言葉を口に出しかけた。
一瞬の静寂。
王宮中の誰かの「小言」のメモが、再びこの部屋に集結するかもしれないという最悪の想像。
アルノルトはハッとして目を見開き、両手で自らの口を強く塞いだ。
王冠は、沈黙を保っていた。
ユリウスは眼鏡の位置を冷たく直し、静かに言った。
「お分かりいただけたようですね。陛下、比喩は禁止です」




