第1話 猫の手も借りたい
「『迅速に対応する』とは何日以内ですか。『可能な限り配慮する』なら、予算の上限は?」
戴冠式の翌朝。王立法制局の法文校正官ユリウス・ヴェルナーは、三枚続けて同じ訂正を書いた。
どの書類にも、急げとはある。誰がいつまでに終えるかは、どこにもない。
二十七歳の校正官は、徹夜明けの目をこすった。
「ヴェルナー、あまりいじめないでやってくれ。皆、昨日の戴冠式とその準備で疲弊しきっているんだ」
背後からかけられた声に、ユリウスは手を止めずに振り返った。
執務室に入ってきたのは、王国宰相のコンラート・ハイムである。五十代の堅実な政治家だが、彼もまた目の下に濃い隈を作っていた。
そして、コンラートの後ろからもう一人、部屋へ足を踏み入れる人影があった。
「そう硬くなるな。余が皆を労いたいと言ったのだ。形式的な視察だと思ってくれ」
朗らかで、どこか劇場に響くような通る声。
ユリウスは慌てて席を立ち、臣下の礼をとった。
新国王アルノルト二世、二十四歳。昨日、大広場を喝采で満たした男が、今日はパンの籠を抱えていた。
「厨房に残っていた。まだ朝食を取っていない者へ」
部屋のあちこちで手が上がる。王はその数を見て、宰相にもう一籠頼んだ。
「陛下、わざわざ法制局の分室までお越しいただき、恐悦至極に存じます」
ユリウスが形式通りの挨拶を述べると、アルノルトは苦笑して周囲の惨状を見渡した。
机という机に書類が山のように積まれ、床にまで丸められた羊皮紙が散乱している。戴冠に伴う特赦、恩賞、人事異動、予算編成。国が代替わりするということは、それだけ莫大な事務処理が発生するということだ。
「これは、想像以上だな。宰相からは聞かされていたが、いくらなんでも人が足りていないのではないか」
「ご案じには及びません。順次、適切に処理をしております」
ユリウスが平坦な声で答えると、アルノルトはふうと息を吐き、首を振った。
「強がるな。余の目から見ても限界は近い。ああ、まったく。この有様では、猫の手も借りたい気分だ」
王の軽口に、周囲の官僚たちから愛想笑いが漏れる。王が気を遣って場を和ませようとしてくれたのだ。
しかし、ユリウスだけは笑わなかった。
彼は真顔のまま一歩前に出ると、手元の羽ペンを指に挟んだまま王を真っ直ぐに見据えた。
「陛下」
「ん? なんだ、ヴェルナー」
「猫の手の借用とのことですが、具体的には何匹でしょうか」
執務室の空気が、一瞬にして凍りついた。
官僚たちが「またヴェルナーの悪い癖が始まった」という顔で互いを見合う。コンラートが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
だが、ユリウスは止まらない。
「また、借用であるならば返却期限はいつに設定いたしますか。報酬としての餌は王室予算のどの区分から捻出するおつもりでしょうか。猫の爪による公文書の破損リスクについての責任の所在も、あらかじめ明確にしていただかなければ」
「いや、待て待て待て」
アルノルトが呆れたように両手を上げた。
「ただの比喩だ。冗談だよ。お前は少し真面目すぎるぞ。いくら忙しいからといって、本当に猫が手伝いに来るわけが――」
王が言葉を言い終えるより早く。
執務室の開け放たれた窓枠に、トン、と軽い音を立てて何かが飛び乗った。
立派な髭を生やした、片耳の欠けた巨大なキジトラだった。
「にゃあ」
キジトラが野太い声で鳴いた。
「……猫?」
アルノルトが目を瞬かせた直後、窓の外から地鳴りのような音が聞こえてきた。
ドタドタドタドタ、という無数の足音。それに交じる、シャアッ、ニャオウ、といった凄まじい鳴き声の合唱。
窓枠を乗り越え、次から次へと色とりどりの猫たちが執務室へ雪崩れ込んできた。
「なっ……なんだ!?」
コンラートが叫ぶが、猫の流入は止まらない。
窓からだけではない。廊下に続く扉の隙間からも、王宮の厨房や倉庫で飼われている鼠捕り猫たちが、まるで何かに呼ばれたかのように一斉に駆け込んでくる。
黒猫、白猫、三毛猫、サビ猫。
あっという間に、足の踏み場もないほどに部屋が猫で埋め尽くされた。
「ひっ! やめろ、その書類にはまだ署名が!」
「こら、羽ペンにじゃれつくな!」
阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
積み上げられていた決裁書類は容赦なく肉球で踏み荒らされ、インク壺が倒れて黒い染みが広がる。高級な羊皮紙は猫たちの格好の爪とぎボードと化し、官僚たちは自分たちの顔や肩によじ登ってくる毛玉たちを払いのけるのに必死だった。
アルノルト自身も唖然として立ち尽くしており、その豊かな金髪の上に、小柄な子猫がちゃっかりと丸まっていた。
「どういうことだ、これは! なぜ急に猫が!」
アルノルトが混乱の極みで叫ぶ中、ユリウスだけは冷静だった。いや、正確には、冷静さを保つために激怒していた。
「仕様の確認はしましたが、本当に来るとは聞いていません!」
「いや、意味がわからない! なんで余の比喩が現実になって――」
「今は原因究明より対処が先です! このままでは国家の行政機関が猫毛で崩壊します!」
ユリウスは迫り来る猫を足先で器用に避けながら、アルノルトに迫った。
「な、ならどうすればいい!」
「皆、落ち着け! まず道を開けよう!」
王たる威厳を示すためか、アルノルトが部屋全体に響く声で命じた。
「お待ちください!」
ユリウスが叫んだが、遅かった。
ズゴゴゴゴゴゴゴ。
今度は、部屋そのものが鳴動した。
「……え?」
アルノルトが間抜けな声を漏らす。
執務室の壁際に立ち並んでいた重厚な木製の本棚。書類が詰まった巨大なキャビネット。部屋を仕切るための衝立。廊下側の小さな文机までが、まるで透明な巨人に押されたかのように、一斉に壁際へと滑るように移動し始めたのだ。
物理的に「道」が開いた。
部屋の中央から、壁に向かって一直線に、見事なまでの空間が出来上がる。
壁際の官僚が身をすくめた。だが、本棚はその手前でぴたりと止まり、空いた場所にだけ収まった。
小さな文机は入口の脇へ移り、猫の通り道が一本できた。仕事をする人間の場所は、さらに狭くなった。
「な、なんだこれは……」
アルノルトが震える声で呟く。
「道が開きましたね、陛下」
ユリウスは眼鏡の位置を中指で押し上げながら、冷徹な声で言った。
「陛下! 訂正に比喩を使わないでください! 『道を開ける』などという曖昧な表現をするから、家具が勝手に移動するのです!」
「比喩!? これが、余の言葉のせいだとでもいうのか!」
「他に何がありますか! 戴冠式から何か変わったことといえば、あなたの上に載っているそれしかありません!」
ユリウスが指差したのは、アルノルトの頭頂部――子猫の下にある、昨日受け継いだばかりの古代王冠だった。
数百年にわたり、ただの儀礼的な装飾品だと思われていた代物。
「王の公的な発言が、文字通り現実の物理現象として処理されている……そう仮定すれば辻褄が合います! 陛下、すぐに撤回を!」
「て、撤回と言っても、どう言えばいい! 『元に戻れ』か!?」
「駄目です! 何が、どこへ、どう戻るのかが不明確です! また別の事故が起きます!」
ユリウスはインク溜まりを避けながら、奇跡的に無事だった羊皮紙の切れ端を拾い上げ、予備の羽ペンを走らせた。
キュッ、キュッ、という鋭い筆記音が、猫の鳴き声の中で響く。
「陛下、これを読んでください! 一言一句、そのままです!」
突き付けられた羊皮紙を、アルノルトは引ったくるようにして受け取った。
そこには、異様に無味乾燥な公文書体の文章が書かれていた。
『先ほどの猫の召集を撤回する。今の発言で集まった猫は、それぞれ来た場所へ帰還せよ。道を開けるという命令も撤回する』
「先ほどの猫の召集を撤回する。今の発言で集まった猫は、それぞれ来た場所へ帰還せよ。道を開けるという命令も撤回する」
アルノルトが半ば自棄気味に読み上げる。
その瞬間、執務室内の空気がふっと緩んだ。
「にゃあ……」
アルノルトの頭の上にいた子猫が欠伸をし、軽やかに飛び降りた。それを皮切りに、部屋を埋め尽くしていた猫たちが、まるで用事でも思い出したかのように、窓から、廊下から、三々五々に散っていく。
本棚は動くのをやめたが、移った位置に残った。ユリウスは、家具に向かってまた何か言いかけた王を手で制し、職員たちと通路を確かめてから、家具を手で戻し始めた。
数分後。
執務室には、荒らされた書類の残骸と、猫の毛、そして疲労困憊の官僚たちだけが残された。
「はぁ……はぁ……」
アルノルトが壁に背を預け、ずるずるとへたり込む。
その前で、ユリウスだけは冷静に手元のメモ帳に何かを書き込んでいた。
「……中庭の赤い首輪の猫は、動きませんでしたね。来た猫と来なかった猫がいる。違いを調べる必要があります」
「お前は、この状況でまだそんな分析を……」
アルノルトが恨めしそうに見上げるが、ユリウスは意に介さない。
「当然です。王の公的な比喩が文字通り現実化するとなれば、これは国家レベルの災害に等しい。仕様を正確に把握し、制御しなければなりません」
「……」
部屋の隅で、宰相コンラートがふらふらと立ち上がった。彼の肩にはべったりと猫の毛が張り付いている。
「ヴェルナー……」
「はい、宰相閣下」
「お前の、あの異常な仕様確認……何匹か、返却期限はいつかという問い詰めは、事故発生前に……正しかったということか……」
「結果論ですが。曖昧な言葉は事故の元であると、常日頃から申し上げております」
コンラートは天を仰ぎ、深く、深くため息をついた。
「ヴェルナー。お前を、たった今から『臨時王命校正官』に任命する」
「……は?」
ユリウスの眼鏡がずり落ちかけた。
「陛下の言葉を監視し、事故を未然に防げ。少なくとも、この部屋の仕事が再開できるかは、お前の赤ペンにかかっている」
無茶苦茶な辞令だった。法制局の一介の校正官に、国王の口に蓋をしろと言っているのだ。
しかし、床に散乱した書類の山と、まだ呆然としている新国王を見比べ、ユリウスは諦めたようにため息を吐いた。
彼は眼鏡を中指で押し上げ、アルノルトの前に進み出た。
「……承知いたしました」
そして、冷徹な声で言い放つ。
「陛下、比喩は禁止です」
アルノルトは、信じられないものを見るような顔でユリウスを見上げた。王に対して口答えするどころか、言葉そのものを禁じようとする臣下など、前代未聞である。
「冗談ではないぞ……余の口から言葉を奪う気か! こんな生活、一日も――」
「お待ちください!」
「言わないでください!」
ユリウスとコンラートが、同時に裏返った声で叫んだ。
反射的に口を閉ざしたアルノルトの横で、窓の外を野良猫が一匹、悠然と歩き去っていった。




