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陛下、比喩は禁止です。~「猫の手も借りたい」で猫まみれ。王の失言、校正します~  作者: 他力本願寺


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第10話 寡黙なる賢王

夜の王宮執務室。蝋燭の静かな灯りの中、国王アルノルト二世は深い疲労とともに長椅子に沈み込んでいた。


 彼の前のローテーブルには、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが背筋を伸ばして立ち、数枚の羊皮紙を手にしている。


「――以上が、本日の王言レビューの結果です」


 ユリウスは淡々とした声で締めくくった。


「本日の陛下の公的発言における比喩・慣用句の使用はゼロ件。抽象的な指示による現場の混乱もゼロ件。王冠《レクス・ヴェルブム》の魔力反応は一切観測されず、極めて安全かつ模範的な一日でした。高く評価いたします」


 ユリウスの言葉には、お世辞や嫌味はない。純粋に、言葉の安全管理が徹底された事実に対する行政官としての称賛だった。


 だが、褒められた当のアルノルトの顔は、これ以上ないほどに曇っていた。


「……評価されるのは勝手だが、余はまったく嬉しくないぞ」


「なぜですか。事故ゼロは私たちの至上命題のはずですが」


「事故を防ぐために、余がどれほど言葉を飲み込んでいるか分かっているのか。今日のインフラ会議でも、本当はもっと民の生活に寄り添った激励の言葉をかけたかった。だが、王冠が反応するのを恐れて『計画通りに進めよ』の一言で済ませてしまった」


 アルノルトは頭上の王冠を恨めしそうに見上げた。


「その結果がどうだ。最近の街の新聞を読んだか? 『新王陛下は一言で本質を射抜く』だの、『無駄口を叩かない寡黙なる賢王』だのと、勝手に持ち上げられているではないか」


「素晴らしいことではありませんか。名君としての名声が定着しつつあるのですから」


「実態と伴っていないから苦痛なのだ!」


 アルノルトは身を乗り出した。


「余は本来、天性の話し手なのだ。人々の目を見て、空気を読み、言葉の抑揚で心を動かす。それが余の強みだった。なのに、今はただ事故を恐れて黙りこくっているだけだ。これを『賢王』などと神格化されるのは、居心地が悪くて仕方がない」


 アルノルトは深いため息をつき、真剣な顔でユリウスを見た。


「なあ、ヴェルナー。この誤解は解くべきではないか。余は決して寡黙なのではなく、王冠のせいで仕方なく言葉を削っているのだと、国民に正直に……」


「却下します」


 ユリウスは赤ペンを片手に、即座に切り捨てた。


「なぜだ!」


「誤解を解くためには、新たな公的発言を重ねる必要があります。言葉数が増えれば、それに比例して比喩や抽象語が混入する確率が上がり、物理事故のリスクが跳ね上がります」


 ユリウスは手元の羊皮紙を一枚めくり、数字を読み上げた。


「『余は寡黙なのではない、言葉を抑えているのだ』といった言い訳を公に発信し、それが万が一王冠に『抑える』という物理的弾圧の命令として解釈された場合、王都中の報道機関が物理的に押し潰される可能性があります。そのようなリスクを冒すくらいなら、実害のない『賢王』という誤解を放置する方が、行政コストの面から見ても圧倒的に合理的です」


「合理的、合理的と……お前は余の人間としての尊厳をなんだと思っているのだ」


「尊厳よりも、王宮の窓ガラスと書類の保全を優先しております」


 ユリウスの揺るぎない正論の前に、アルノルトはぐうの音も出なかった。


「明日は、国内の有力貴族や文化人を招いた春の祝賀会があります。そこでも、余計な誤解を解こうなどと考えず、ご用意した原稿の通りに、極限まで安全な挨拶をお願いいたします」


 ユリウスが置いていった明日の原稿を見て、アルノルトは絶望のあまり机に突っ伏した。


 翌日。王宮の大広間は、華やかな熱気に包まれていた。


 色とりどりのドレスや正装に身を包んだ貴族たち、各界を代表する文化人たちがグラスを手に談笑している。だが、彼らの最大の関心事は、まもなく演台に立つ新王アルノルト二世の言葉だった。


「最近の陛下は、本当に素晴らしい」


 初老の伯爵が、感嘆の声を漏らす。


「先代の陛下は演説がお好きで、ご自身の偉業を長々と語られる悪癖がおありだったが……アルノルト陛下は違う。常に最短の言葉で、事の核心だけを突かれる。まさに『寡黙なる賢王』だ」


「ええ、今日の祝賀会でも、いったいどのような含蓄のあるお言葉を賜るのか。楽しみでなりません」


 彼らの輪の少し離れた場所では、宮廷詩人のラファエル・モーンが、ワイングラスを片手に目を輝かせていた。


「極限まで削ぎ落とされた言葉の中にこそ、真の美は宿る。陛下のあの一言の余白に、我々はどれほどの詩情を見出すことができるか……ああ、心が震えるようだ」


 大広間に集まった数百名の参加者たちは、全員が「賢王の素晴らしい名言」を待ち構える、熱烈な信者のような目をしていた。


 その重すぎる期待の視線を一身に浴びながら、アルノルトはバルコニーから続く大階段を下り、演台の前に立った。


 広間は、水を打ったように静まり返った。


 誰もが息を潜め、王の第一声を、その洗練された言葉を一言も聞き漏らさまいと身を乗り出している。


 演台の上に置かれているのは、昨夜ユリウスから渡された一枚の羊皮紙。


 アルノルトは、眼下に広がる期待に満ちた顔、顔、顔を見渡した。


 王は祝賀会の装花へ目をやった。次にユリウスを見て、開きかけた口を閉じる。


 ユリウスは黙って、原稿の一行を指した。


 彼は深く息を吸い込み、手元にある、ユリウスが考え抜いた「安全性一〇〇パーセント」の原稿に目を落とした。


 そこには、比喩も、誇張も、感情を揺さぶる修辞も、情景描写も一切ない。ただ事実のみを並べた、わずか十二文字(句点を含む)の極小の文章が書かれていた。


 アルノルトは、事務的な、平坦な声でそれを読み上げた。


「よく集まった。感謝する。」


 以上である。


 アルノルトは口を閉じ、演台から一歩下がった。


 古代王冠《レクス・ヴェルブム》は、当然ながら何の反応も示さない。花は咲かず、突風は吹かず、書類は飛ばない。ただの安全な沈黙が、大広間に落ちた。


 短く、平凡な挨拶。


 アルノルトは、冷や汗をかきながら反応を待った。


 だが。


「……おおおっ」


 最前列にいた老伯爵の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。


「なんという、なんという簡潔さ……!」


 老伯爵は震える声で叫んだ。


「余計な虚飾をすべて捨て去り、ただ我々が『集まった』という事実。そしてそれに対する『感謝』。そこにこそ、王と民の揺るぎない絆があるという深い含蓄! ご自身の権威を誇示することなく、我々への真の信頼だけを言葉にされたのだ!」


「ああ、まったくその通りだ!」


 隣の貴族も、目頭を押さえながら深く頷いた。


「言葉にならない感謝が胸を打つ! 陛下は、我々がここへ集うまでの苦労や思いを、あの短い一言で完全に汲み取ってくださったのだ!」


 広間の空気が、一気に異様な熱を帯び始めた。


「ブラボー!」


 宮廷詩人ラファエルが、両手を高く突き上げて感涙していた。


「これこそが究極の詩! 削ぎ落とされた十二文字の奥に、私は無限の春の野を見た! 陛下、あなたの言葉は我々の魂を浄化しました!」


 ワァァァァァァァッ!


 大広間に、万雷の拍手が巻き起こった。


 貴族も、文化人も、全員が立ち上がり、涙を流しながら「寡黙なる賢王」へ向けて熱狂的な歓声を送っている。


 アルノルトは、演台の上で硬直していた。


 アルノルトは心の中で絶叫した。


 内容が平凡で、何もない空白があるからこそ、聞く側が勝手に自分に都合のいい文脈を補完し、究極の名言に仕立て上げてしまう。


 それが、天性の話し手であるアルノルトにとってどれほどの屈辱か、下の人間たちには分かるまい。


 拍手喝采の渦の中で、アルノルトは一人、深い絶望に包まれてうなだれるしかなかった。その後ろで、ユリウスだけが「事故ゼロ、拍手多数。完璧な結果です」と手帳に記録をつけていた。


 その夜の執務室。


 祝賀会が大成功(?)に終わり、アルノルトの「賢王」としての名声は、もはや王都で確固たるものとなっていた。


 抜け殻のように長椅子に横たわるアルノルトの前に、宰相コンラートが興奮冷めやらぬ様子で姿を見せた。


「素晴らしい成果でした、陛下! あの短く的確なご挨拶、私も思わず胸が熱くなりましたぞ!」


「……頼むから、もう余を褒めないでくれ、宰相」


 アルノルトが弱々しく答えるが、コンラートは意に介さず、傍らに立つユリウスへ向き直った。


「ヴェルナー。私は今日、確信した。陛下への『寡黙』という誤解などどうでもいい。事故を完全に防ぎつつ、民衆をあれほど熱狂させ、統治を安定させられるのなら、あの『短く安全な王言』こそが、この国における正しい統治の姿だ」


 コンラートの目は、合理主義者としての本気の色に染まっていた。


「この成果を、個人の努力や一時的な対策で終わらせてはならない。ヴェルナー、先日命じた『王命取扱規程』の完成を急げ。第一版の施行に向け、各省庁への配布と説明の準備も進めよ。今後の王の発言は、すべてその規程に則って運用する」


「……承知いたしました、宰相閣下。王冠の仕様に照らして草案を最終点検し、施行の準備を整えます」


 ユリウスは賛同し、自らの存在意義を証明するように赤ペンを強く握り直した。


「お、おい、待てお前たち! もう施行する気か? 余の言葉を、規則という鎖で完全に縛り付ける気か!」


 アルノルトが跳ね起きるが、コンラートもユリウスも、もはや「安全な行政の確立」という大義に向かって止まる気配はなかった。


 王冠による物理事故の恐怖は、ひとまず遠のいた。だがそれに代わり、言葉が制度化によって雁字搦めにされるという、新たな、そしてより息苦しい厄介事が本格的に始まろうとしていた。


 アルノルトは、未来に待つ分厚い規程書の束を想像し、今度こそ本当に頭を抱えたのだった。

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