第11話 王命取扱規程、全八十七頁
戴冠から二か月目、春の終わり。
ドンッ、と。
分厚い紙の束が、重々しい音を立てて円卓の上に置かれた。
「これより、エルデン王国における『王命取扱規程』第一版を施行する」
宰相コンラート・ハイムが高らかに宣言し、円卓を囲む各省庁の代表者たちを見渡した。
「本規程は、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナー殿が連日の不眠不休をもって作成した、王冠の暴走を防ぐための完璧な安全基準である。各省庁はこれを熟読し、厳格に運用せよ」
円卓の上座に座る国王アルノルト二世は、目の前に置かれたその束を見て、絶望的な気分になっていた。
革の表紙で綴じられたその規程書は、全八十七頁にも及んでいた。
アルノルトは恐る恐る表紙をめくってみた。
『第一章:発話区分の定義。第一条:公務と私務の境界は場所ではなく、発言の対象が王国管理人員、物資、政策に向くか否かで判定されるものとする……』
『第三章:比喩および抽象語の排除手順。第七条:対象と期限が明記されていない発言は、直ちに……』
息の詰まるような、文字の暴力だった。
「……ヴェルナー。お前、これを本気で作ったのか」
「本気以外の何物でもありません」
アルノルトの斜め後ろに控えるユリウスは、目の下に濃い隈を作りながらも、誇り高き職人のような顔で頷いた。
「過去に発生した事象をすべて体系化し、あらゆる状況に対応できるよう網羅しました。これさえ遵守すれば、陛下の発言による物理的事故は理論上ゼロになります」
「それはそうだろうが……長すぎる。役人たちにこれを全部覚えろというのか?」
「暗記する必要はありません。迷った時は、その都度規程書を開いて確認すればよいのです」
ユリウスは至極当然のように言い放った。
コンラートも深く頷き、「まさに完璧な防御陣だ」と褒め称えている。
アルノルトは嫌な予感しかしていなかったが、宰相と校正官がタッグを組んでしまった以上、抗う術はなかった。
そして、規程が施行された翌日から。
王宮の業務は、恐ろしいほどの停滞に陥った。
「――では、次回の会議は三日後の正午ということでよろしいですね。陛下」
「ああ。異存はない。次へ進もう」
アルノルトが何気なく次の議題へ移ろうとした瞬間、財務局の役人が「お待ちください!」と大声を上げた。
「ただいまの『次へ進もう』という発言ですが、これは規程書第二章・第十四条の『抽象的な前進・進行を意味する比喩』に該当する恐れがあります!」
役人は手元にある八十七頁の規程書を猛烈な勢いでめくり始めた。
「ええと、第十四条……あ、ありました。『対象物の指定なき進行命令は、周囲の物品の無作為な直進運動を誘発する可能性があるため、発言直後に法制局への照会を必須とする』……法制局! 法制局のヴェルナー殿はどちらに!」
「待て待て待て!」
アルノルトが慌てて制止する。
「ただ会議の議題を次に移すと言っただけだ! まだ何も起きていないだろう!」
「いけません、陛下! 規程によれば『事後ではなく事前の照会が原則』とされております! すぐに『王命区分照会書』を作成いたしますので、ご署名を!」
役人は紙を取り出し、大真面目な顔で照会書を書き始めた。
アルノルトが頭を抱え、会議はそこでストップした。
このような光景が、王宮の至る所で頻発するようになったのだ。
『陛下が「今日は天気が良いな」と仰いましたが、これは農業局に対する天候操作の王命でしょうか? 照会を!』
『陛下が「あの書類を取ってくれ」と仰いました! どの棚のどの書類か明示されていません! 照会を!』
官僚たちは、王冠による物理事故を恐れるあまり、少しでも判断に迷う言葉があれば、すべてユリウスのいる法制局へ『照会』を投げるようになった。自分たちで責任を負わず、規程書と校正官に判断を丸投げする方が安全だからだ。
結果として、ユリウスの机には一日で数百枚の照会書が積み上がり、彼自身もその処理に忙殺されることになった。
事故は、確かに減った。というか、ゼロになった。
王が言葉を発するたびに会議が止まり、照会が完了するまで次の行動に移れないのだから、事故の起きようがない。
アルノルトは「喋ると危険」な状態から、「喋ると会議が止まる」という新たな地獄に叩き落とされていた。
「……もう、どうにでもなれ」
王宮の執務室で、アルノルトは死んだ魚のような目で天井を見つめていた。
彼の目の前には、読み上げを待っている書類の山と、それに付随する『発言区分照会書』の山がそびえ立っている。
そこへ、バンッと勢いよく扉が開いた。
「陛下! 校正官殿! 面白いことが分かりましたよ!」
入ってきたのは、王立魔法学院のミラ・フェルベック博士だった。彼女は両手で大切そうに、魔力水晶のついた計測器と分厚い羊皮紙の束を抱えている。
「フェルベック博士。今はそれどころでは……」
書類の山から顔を出したユリウスが制止しようとするが、ミラはずかずかとアルノルトの机に歩み寄った。
「王冠の内部構造についてです! この数日間、陛下の周辺の魔力動態を観測し続けていたのですが、王冠自体が一種の記憶領域を持っていることが判明したんです」
「記憶領域? なんだそれは」
アルノルトが身を起こす。
「簡単に言えば『履歴』です。過去に王冠がどのような命令を受理し、どのように物理法則を書き換えて現実化したのか。そのすべての発動履歴が、王冠の内部メモリに自動で記録されていたんですよ!」
ミラは興奮気味に、抱えていた羊皮紙の束を机の上に広げた。
「魔力信号を翻訳して、文字として抽出してみました。ほら、見てください」
アルノルトとユリウスは、その羊皮紙を覗き込んだ。
そこには、過去数週間にわたる彼らの苦闘の記録が、整然と並んでいた。
『実行記録:戴冠式翌日
発動文:「まず道を開けよう」
対象:王国管理の本棚、文机、衝立。
結果:執務室内の可動家具群が壁際へ自律移動し、物理的経路を確保。
訂正:発動文の撤回により停止。職員による家具の復旧。』
『実行記録:国内諸侯会合
発動文:「壁を取り払って話そう」
対象:第一会議室と第二会議室を隔てる王国管理の可動壁。
結果:物理的障壁の完全撤去による情報隔離体制の崩壊。
訂正:発動文撤回。会議終了後に職員が再設置。』
王は記録を二度読み、隣のユリウスを見た。
「……なんだ、この文体は」
「正確ですね。発動のトリガーとなった言葉、対象物、結果、そして訂正手段まで、完全にフォーマット化されています」
ミラが感心したように言う。
だが、アルノルトの顔は引き攣っていた。彼はゆっくりと、隣に立つ臨時王命校正官へ顔を向けた。
「ヴェルナー」
「はい、陛下」
「お前……いつの間に王冠の内部にまで入り込んで、こんな記録をつけていたのだ。お前は小人になって余の頭の上に住んでいるのか?」
「何を馬鹿なことを」
ユリウスは心外だというように眉をひそめた。
「私が古代の魔道具の内部にアクセスする手段など持っているわけがありません。これは王冠自身の自動記録です」
「嘘をつけ! この血の通っていない無味乾燥な公文書体、対象物の厳密な定義、どう見てもお前が書く報告書そのものではないか! 王冠の文体がユリウス・ヴェルナー風だなどと、誰が信じる!」
「偶然の一致です。古代の魔導技師も、私と同じように『記録は客観的かつ厳格であるべきだ』という正しい思想を持っていたに過ぎません」
ユリウスは胸を張って答えたが、アルノルトは「王冠までお前のような堅物だったとは……」と絶望的な顔で頭を抱えた。
ミラがくすくすと笑いながら、羊皮紙の最後の一枚を指差した。
「でも、一番興味深いのはここです。抽出した履歴データの最後尾、つまりシステムの根幹部分に、以前の修復記録にもあったのと同じ記述が刻まれていました」
アルノルトとユリウスが視線を落とす。
そこには、古代の文字でこう記されていた。
『受理音源:契約者本人の現時点発声』
『――第一更新刻印』
「以前、王宮の書類の山を片付けた時にも話題になりましたね。王冠は乱暴に壊すことはできず、安全に停止させる手順が隠されているかもしれない、と」
ミラの言葉に、アルノルトの目がわずかに光った。
「つまり、この『第一更新刻印』とやらを解読すれば、この呪いのような王冠を外すことができるのか?」
「可能性はあります。ただ、現時点ではこれが『時期』を示すものなのか、『条件』を示すものなのかすら分かりません。引き続き、解析を進めます」
ミラは満足げに羊皮紙を回収し、「では、私は研究室に戻りますね」と風のように去っていった。
執務室には、再びアルノルトとユリウスの二人が残された。
アルノルトは、机の上に山積みになっている「発言区分照会書」の束と、ユリウスの手にある全八十七頁の『王命取扱規程』を交互に見つめた。
王冠は、王の言葉を監視し、無味乾燥な公文書体で自動記録を残す装置。
そして目の前の男は、王の言葉を監視し、八十七頁の規程で国政の首を絞めている男。
アルノルトは深く疲弊した声で、ぽつりと言った。
「ヴェルナー。事故が起きないのは結構だ。だが、今の王宮は完全に止まっている。書類は積み上がり、会議は進まず、皆が規程書と照会書の束に埋もれて身動きが取れない」
アルノルトは、ユリウスを真っ直ぐに見上げた。
「もっと、簡単にできないのか?」
いつもなら、「安全のためです。妥協はできません」と一秒で即答するユリウスだった。
しかし、今回ばかりは違った。
ユリウス自身も、自らが良かれと思って作り上げた八十七頁の規程が、皮肉にも行政機能を麻痺させ、結果的に現場を苦しめているという事実を目の当たりにしていたからだ。
ユリウスの口が微かに動き、しかし言葉にはならなかった。
赤ペンを握る手から力が抜け、彼はただ、気まずい沈黙の中で王の問いを受け止めることしかできなかった。




