第12話 読み上げても王命です
全八十七頁に及ぶ『王命取扱規程』の施行は、エルデン王国の行政に未曾有の停滞をもたらした。
些細な発言すら「王命に該当するか」の照会対象となり、王宮中が法制局の顔色を窺うようになったからだ。臨時王命校正官であるユリウス・ヴェルナー自身も、終わりの見えない照会書類の山に忙殺され、自らが作った制度の重みに軋みを感じていた。
だが、ユリウスの思考は決して止まらない。
原稿の読み上げでも王冠は動く。それは毛布の手配で確認済みだ。ユリウスは、普段使い慣れた行政文書なら、曖昧さを見落とさずに済むと考えていた。
本日は『税制改正告示の読み上げ式典』。八十七頁の規程より、普段の公文書の方が使いやすいという声を受け、読み上げ用の文章を再点検して臨むことになった。
書類が動いた一件を受け、この読み上げ原稿からは「横に置く」「棚上げする」といった慣用句を除いてある。
王宮の正面バルコニーから見下ろす中央広場には、各区画の税務長官や市民の代表たちが整列している。
バルコニーの演台に立った国王アルノルト二世は、ひどく退屈そうな顔で手元の分厚い告示文の束を眺めていた。
「……ヴェルナー。本当にこれを、余が全部読むのか」
アルノルトは、声に出さずに唇の動きだけで背後のユリウスに文句を言った。
「はい。重要な新税制の公布です。王の肉声で読み上げることに法的な意義があります」
ユリウスは小声で返し、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ご安心ください。その書面は、法制局の総力を挙げて比喩的表現を排除し、行政手続きの正確な記述のみで構成した完璧な法文です。陛下はただ、そこに書かれた文字を音声に変換するだけで構いません。感情を込める必要すらありません」
「言ってくれるな。まるで余を時計仕掛けの人形か何かのように」
アルノルトは不満げに鼻を鳴らしたが、もはや抵抗する気力もなかった。
彼は広場に向かって姿勢を正し、よく通る声で読み上げを開始した。
「エルデン王国の臣民よ。余は本日、来期からの国家財政の基盤となる新税制の施行をここに告示する」
アルノルトの声が響き渡る。
「本改正の主たる目的は、現行の複雑化した税区分の再編である。これにより、旧来の不透明な徴収を廃し、領民の税の負担を軽くする――」
アルノルトがその一文を読み上げた瞬間、ユリウスは身構え、手元のメモ帳に視線を落とした。
(『負担を軽くする』……これは危うい表現だ。物理的な重量を減らすという字義解釈がなされれば、周囲の王国管理物に意図しない作用が及ぶ恐れがある)
だが。
アルノルトの頭上の古代王冠は、ピクリとも魔力反応を示さなかった。広場の民衆の荷物がふわりと浮き上がることもなく、ただ平穏な風が吹いているだけだ。
ユリウスは小さく頷き、黒インクでメモを取った。
『抽象表現の不発を確認。具体的な実行形(どの対象の、どの重量を、どれだけ減らすか)を持たない抽象的な方針宣言に対しては、王冠は介入しない』
やはり、仮説は正しかった。
法律の条文というものは、理念を語る抽象的な前文と、具体的な手続きを定める本則から成る。理念の部分は王冠の対象外であり、手続きの部分は法制局が厳密に定義している。
この書面の読み上げにおいて、事故の入り込む隙はない。
ユリウスが勝利を確信した直後、アルノルトは次の段落、すなわち具体的な行政手続きの項へと読み進めた。
「第一条。業務効率化および不正防止のため、新税制の準備として、現在、王都各区の税務局に分散している徴税台帳を、中央へ集約する」
アルノルトが何の気なしにその一文を音声にした、その瞬間。
カッ、と。
王冠の奥に鎮座する宝珠が、鋭い銀色の魔力光を放った。
「……え?」
アルノルトが声を漏らし、演台から顔を上げた。
ユリウスも弾かれたように顔を上げる。
「陛下、今、なんと読まれましたか!」
「なんとって……原稿の通り、『徴税台帳を中央へ集約する』と……」
ズゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
王宮の敷地の奥から、地響きのような恐ろしい音が轟いた。
「な、なんだ!?」
広場に集まっていた税務長官たちが一斉に空を指差した。
王都の上空に、異様な影が現れた。
それは鳥の群れではなかった。何百、何千という分厚い革張りの『本』が、宙を飛んで、あるいは見えない斜面を滑り落ちるようにして、王宮の敷地内へと殺到してきたのだ。
「台帳だ! あれは、我が南区税務局の徴税台帳!」
「あっちから飛んでくるのは東区の台帳ではないか! 保管庫の鍵は閉めてきたはずなのに!」
各区の税務長官たちが絶叫する。
王冠は、アルノルトの公的な発言を字義通りに解釈し、最小の現実化を実行した。
『徴税台帳』を、『中央(王宮敷地内にある中央第一倉庫)』へ、『集約(物理的に一箇所に集める)』する。
法文を作成した官僚たちの意図は、当然ながら「情報の管理権限を中央に一本化する」という行政手続き上の意味であった。しかし、王冠はそのような比喩的な「権限の集約」など知ったことではない。
言葉の通り、物理的な現物を、中央へ集約させたのだ。
倉庫の大扉が開き、台帳の束が中へ滑り込んだ。
「ああっ、そこは年度が違う! そっちは地域別です!」
司書の声が響いた。台帳は人を避け、空いた棚や机へ次々に収まっていく。古い徴税記録の隣に昨日の納税簿。その上には別の区の索引。
棚は倒れない。分類だけが、ものの見事に崩れた。
バルコニーの上で、アルノルトは口を半開きにしたまま、空を飛んでいく最後の台帳の一冊を見送っていた。
背後では、ユリウスが持っていたメモ帳を力なく取り落としていた。
一時間後。
式典は急遽中止となり、王宮の執務室には重苦しい空気が立ち込めていた。
窓から見える中央第一倉庫の周囲では、頭を抱えて泣き崩れる財務官僚たちと、散乱した台帳を絶望的な顔で拾い集める役人たちの姿があった。
アルノルトは、執務机に置かれた『税制改正告示』の原稿をバンッと強く叩いた。
「……ヴェルナー。余は一文字も間違えずに読んだぞ」
「はい。私の見落としです。まず、集約するという発言を撤回してください。台帳の分類は、税務局と確認して戻します」
アルノルトの声には、これまでにないほどの強い怒りと抗議の色が滲んでいた。
「余は一切のアドリブを入れていない! 今回の事故は、余の比喩好きのせいではない! 『管理権限の統一』と書くべきところを、『台帳を中央へ集約する』などという、物理的な移動と解釈できる誤解だらけの原稿を書いた、お前たち法制局の責任だ!!」
その追及に対し、ユリウスは一言も反論できなかった。
彼は深く項垂れ、両手を強く握りしめていた。
「……おっしゃる、通りです」
ユリウスの絞り出すような声が、執務室に響いた。
「法制局の怠慢でした。行政用語としての『集約』という言葉の意味に甘え、それが字義通りに物理化された場合のリスクを想定できていませんでした。慣用句を除けば、意味の定まった専門用語は安全だという、私の思い込みが招いた大事故です」
ユリウスの顔は蒼白だった。
曖昧な言葉を憎み、正確さを至上としてきた彼にとって、自らがチェックし、安全を保証したはずの公式な法文が、王冠に解釈の隙を与えてしまったという事実は、耐え難い屈辱であり敗北だった。
アルノルトは、珍しく打ちのめされているユリウスを見て、それ以上責める気を削がれた。
「……もういい。これ以上の叱責は不毛だ。だが、これで分かっただろう」
アルノルトは長椅子に深く腰を下ろし、ため息をついた。
「生身の余が声に出して読めば、それが書面であろうと事前原稿であろうと、王冠は容赦なく発動する。どんなに立派な法文でも、王冠の異常な解釈基準の前に立てば、凶器に変わり得るということだ」
「ええ。痛感いたしました」
ユリウスは顔を上げ、ずり落ちた眼鏡を中指で押し上げた。その目には、屈辱を乗り越えた後の、より一層冷徹な決意の光が宿っていた。
「今後は、陛下の発言そのものだけでなく、全省庁から上がってくる『陛下が読み上げるためのすべての原稿と法文』を再点検する必要があります」
「……全省庁の原稿を?」
「はい。行政用語の慣用的な表現、例えば『問題を洗い出す』『市場を冷やす』といった言葉が書面に混入していないか。私を含む『王の原稿を書く者』全員が、王冠の字義解釈という基準のもとに、恐ろしいほどの校正責任を負うことになります」
ユリウスは懐から新しい手帳を取り出し、赤ペンで乱暴に書き込んだ。
「手始めに、明日提出予定の法務局の通達文から全面改稿を命じます。表現の隙は一切許しません」
王は窓の外の役人たちを見た。誰も、まだ机に戻れていない。
王冠の監視は、王の口だけでなく、今や王宮で原稿を書くすべての役人のペンにまで広がってしまったのだ。
ただでさえ全八十七頁の規程で首を絞められている王宮の官僚たちが、今度は「物理化しても安全な法文」という狂気じみたパズルを強いられることになる。
アルノルトは、窓の外で台帳の片付けに泣いている官僚たちの姿を見つめながら、これから王宮に訪れるであろう、更なる書類地獄の未来に静かに絶望した。




