第49話 危険語は一枚だけ
夜の帳が下りた王宮の執務室。
魔導ランプの柔らかい光が、分厚いマホガニーの机を照らし出している。
翌朝には、アルノルト二世の戴冠一周年記念式典が控えていた。古代王冠の強制機能が封印されるかもしれない、そして王が自らの言葉で民衆に語りかける、この一年間の集大成となる大舞台である。
王は長椅子に腰を下ろし、目を閉じて、ときおり唇を動かしていた。
「陛下。明日の式典に関する最終確認の資料です」
臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーが、静かな足取りでアルノルトの前に進み出た。
アルノルトは目を開け、机の上を見た。
「……ん?」
アルノルトは、思わず目を瞬かせた。
ユリウスが差し出したのは、ペラペラの羊皮紙が「たった一枚」だけだったからだ。
初めの禁止語リストは四十八頁、取扱規程は八十七頁。たった一つの感情表現を残す理由にも三枚を費やした男が、今日は一枚だけ差し出している。
「……ヴェルナー。これは、なんだ?」
「明日の演説において、絶対に避けるべき数個の危険語のリストです。それに加え、式典の最後に予定している、王冠を意図的に発動させるための条件式。そして……今夜、広場の低い演台の前にある儀礼柵を『王国所有の可動式板壁』へ差し替えるよう建設局へ指示した、発注番号の控えです」
「それは見れば分かる。だが、これだけか?」
アルノルトは、その一枚の羊皮紙を手に取り、裏表をひっくり返して確認した。
「余の演説の、全文の校正原稿はないのか? どのような文脈で話せば安全かという、あの細かいフローチャートやマトリクス表は?」
「作成しておりません」
ユリウスは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、真っ直ぐにアルノルトの目を見た。
「明日の演説は、陛下ご自身が原稿なしで語られるのでしょう。ならば、私が事前にすべての言葉を縛り、校正する必要はありません」
「……」
「いまの陛下ならば、言いかけて止まり、間違えたら訂正できます。会場の条件と、最後の発動の手順も確認しました。……私がお渡しする紙は、この一枚だけで十分です」
王は一枚の紙を膝に置いた。上半分は危険語、下半分は、二人で先ほど決めた文と簡単な図だ。
演台の前に置く、腰ほどの高さの板壁。その左右には収納場所を空け、人を入れない。ほかの仕切りや飾りを動かさないよう、対象を目の前の壁に限定する。建設局の確認欄には、すでに署名が入っていた。
「この一文の前には、比喩宣言を入れません。今回は、実際に動かすのですから」
「分かっている。言葉に合わせて、壁の方を用意したのだったな」
「……そうか」
アルノルトは、ゆっくりと立ち上がり、ユリウスと向き合った。
西部への支援が行き違った夜、ユリウスは慰めの言葉を探し、仕様の説明しかできなかった。その時の王の声を、今も覚えていた。
アルノルトは、言葉を選ぶように少しだけ口ごもりながらも、王として、そして一人の人間として、真摯な面持ちで語りかけた。
「……ヴェルナー。この一年間」
「はい」
「お前には、本当に苦労をかけた。余の未熟で軽率な言葉を、時に身を挺して止め、時に真っ赤に染め上げ、そして最後には……余自身の言葉として立ち上がらせてくれた。お前がいなければ、同じ失敗をもっと重ねていただろう。……一年、余を止め続けてくれたこと、本当に感謝する」
それは、誇り高き王からの、真っ直ぐで不器用な最大限の賛辞だった。
ユリウスは、その言葉を正面から受け止め、微かに目を伏せた。
「……もったいないお言葉です」
ユリウスは、かつての癖で、照れ隠しのために理論の盾に逃げ込もうとした。
「私は法制局の役人として、王冠の仕様に基づき、リスク管理の職務を遂行したまでです。陛下の発言から曖昧さを排除し、安全性を担保することが私の……」
だが、その仕様説明の途中で、ユリウス自身の口が自然と止まった。
(……いや。そうではないだろう)
ユリウスは、自分が一年間、王の言葉とどう向き合ってきたかを思い返した。ただ機械的に言葉を削ってきたのではない。王の熱意を、真意を、いかにして安全な形で民に届けるか。共に悩み、共に作り上げてきたのだ。
ユリウスは顔を上げ、自らの盾を下ろした。
そして、校正と文書作成に明け暮れた、いかにも彼らしい語彙の中から、自然と一つの言葉を紡ぎ出した。
「……陛下のお言葉は、推敲を重ねるほどに真意が浮かび上がる、見事な原稿でした」
「原稿?」
「ええ。最初は乱丁や誤字が多く、危なっかしいものでした。ですが、その本質には常に、民を想う強い熱が込められていました。……私はただ、その行間の余白を守るために、少しばかり赤を入れただけです」
静かな声だった。
論理と明確さを至上としていたユリウス自身が発した、不器用だが、温かみのある美しい比喩表現。
ユリウスは、最後まで言い終えるまで、自分が「比喩」を使っていることにすら全く気づいていなかった。
アルノルトは、一瞬きょとんとした。
あの「比喩を蛇蝎のごとく嫌う校正官」が、自分の仕事を原稿の推敲に例え、あまつさえ「余白を守るため」などという詩的な表現を使ったのだ。
アルノルトの顔に、みるみると喜色が広がった。
アルノルトは口を開いた。
「それは、その――」
王の視線が、机の採用事故の記録へ落ちた。
ハッとしたアルノルトは、自らの両手でバシッと自分の口を塞ぎ、ギリギリのところで言葉を飲み込んだ。
王冠は、対象外であるユリウスの言葉であり、かつ王が同意しなかったため、沈黙を保ったままである。
アルノルトが突然自分の口を塞いだのを見て、ユリウスは怪訝な顔をした。
「陛下? いかがされましたか。急に口を……」
そこで、ユリウスはハッと息を呑んだ。
自分の直前の発言を脳内で反芻し、その非論理性に気づいたのだ。
「あっ……!」
ユリウスの顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。
「い、今の発言は不適切でした! 原稿でもないものに対して赤を入れるなどと、著しく明確性を欠く修辞的表現であり、法務官としてあるまじき失態……っ! 直ちに校正し、事実関係に基づき訂正を……!」
ユリウスは狼狽しながら、いつもの癖で胸ポケットからシャキッと赤ペンを抜き出し、何もない空中でシャカシャカと訂正線を引くような仕草をした。
しかし、途中でその不毛な動作に気づき、ピタリと手を止めた。
アルノルトは、口を塞いでいた手をゆっくりと下ろし、肩を震わせて笑い始めた。
「く、ふっ……ははははっ! あーっはっはっは!!」
「……笑い事ではありません、陛下」
ユリウスは赤ペンを持ったまま、ひどく気まずそうに視線を逸らした。
「見事な比喩だったぞ、ヴェルナー。だが、お前も油断ならない男だな。こんな夜更けに、余を罠にかけるとは」
「罠ではありません。単なる語彙の選択エラーです。……それに、陛下もご自身で口を止められたではありませんか」
「ああ。ヒヤッとしたがな。だが、これが一年間の成果だ」
アルノルトは、愉快そうに笑いながら、机の上の一枚の羊皮紙を手に取った。
ユリウスは赤ペンをしまった。礼を言われた返事の訂正文は、結局、作らなかった。
二人は会場の設置完了の連絡を確認し、夜のレビューを終えた。
短い仮眠を取って戻ると、窓の外が白み始めていた。
「……さて。夜が明けるな」
アルノルトが窓の外を見ると、王都の空が白み始め、遠くから式典の準備を告げる鐘の音が微かに聞こえてきた。
「ええ。戴冠一周年記念式典の朝です」
ユリウスは赤ペンを胸ポケットにしまい、深く一礼した。
「行きましょう、陛下。最後の仕事です」
「ああ。余の言葉の結末を、特等席で見届けるがいい」
二人は顔を見合わせて静かに微笑み合い、そして、決戦の朝陽が差し込む王宮の廊下へと並んで歩き出した。




