第50話 陛下、どうぞお話しください
抜けるような青空の下、王都アルクスの中央広場は、凄まじいまでの熱気に包まれていた。
アルノルト二世の戴冠一周年記念式典。
広場には、王都の住民のみならず、遠方の地方都市や農村からも数万の民衆が詰めかけ、足の踏み場もないほどにひしめき合っている。彼らの視線の先、色鮮やかな旗で飾られた王立大講堂の前に設けた低い演台に、豪奢な礼服を纏い、頭上に古代王冠を戴いたアルノルトが進み出た。
ワーッ! という地鳴りのような大歓声が沸き起こる。
だが、その演台の斜め後ろに、いつも必ず直立して王を監視していた「赤いペンの男」の姿はなかった。
臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは今日、演台の上ではなく、群衆の最前列に設けられた関係者席から、静かに王を見上げていた。
彼の手には、バインダーもない。危険語を記した赤いカードもない。
アルノルトは、眼下に広がる数万の民衆を見渡し、一つ深呼吸をした。
拡声の魔道具を通し、王の生きた声が広場に響き渡る。
「エルデンの民よ。今日、こうして無事に戴冠一周年を迎えられたことを、心から喜ばしく思う」
アルノルトの手には、一枚の原稿も握られていない。
彼は、この一年間で自らが犯した数々の失敗を、飾らない言葉で語り始めた。
「この一年、余は幾度も己の未熟さを痛感した。王としての威厳を取り繕うため、耳触りの良い言葉を使い、具体的な責任から目を背けたこともあった。その結果、余の軽率な言葉は現実の混乱を招き、諸君らの生活を脅かし、隣国との関係すら危うくしかけた」
アルノルトの真摯な告白に、広場は水を打ったように静まり返った。
「だが、その度に、余を諫め、余の言葉の重さを教え、共に事態の収拾に奔走してくれた臣下たちがいた。そして何より、そんな未熟な王の言葉に耳を傾け、信じてついてきてくれた諸君らがいた。……余は、そのすべてに、深く感謝する」
ユリウスは前列の住民たちを見た。王の失敗に苦笑する者も、頷く者もいる。王は彼らを見ながら、声を急がず続けていた。
王冠の宝珠は、一切の魔力反応を示さない。
ユリウスは観客席で、静かに頷いた。王はもう、誰の力も借りずに、自らの言葉で世界と向き合っているのだ。
演説は、いよいよ終盤へと差し掛かっていた。
「――この一年、余は自らの言葉と戦い続けてきた。そして今日、その戦いに一つの区切りをつける」
アルノルトは、一度言葉を切り、ゆっくりと間合いを取った。
広場に集まった全員が、固唾を飲んで次の言葉を待つ。その完全な静寂の中で、アルノルトは微笑みを浮かべた。
アルノルトは演台の前の板壁を示した。
その両側の収納場所には、人がいない。ユリウスは、建設局の係員が確認の合図を出すのを見た。
王と目が合った。
ユリウスは赤ペンを出さず、小さく頷いた。
「陛下、どうぞお話しください」
壇上まで届かない声で言った。
アルノルトは、一年かけて選んだ言葉を、原稿を見ずに口にした。
「私たちの間にあるこの壁を、取り払う」
カッ!!
アルノルトの頭上で、王冠の宝珠が目を射るような銀色の光を放った。
王冠は「心の距離を縮める」という比喩的な意図を一切読まない。解釈原則に従い、発話時点に存在する「壁」という字義通りの物理的対象を探し出し、それを「取り払う」という最小実現の魔法を実行する。
ズズズズズ……ッ!
演台と民衆を隔てていた最前列の障害物が、自律的に動き出した。
本来そこにあるべきだった金属製の儀礼柵はない。前日の夜、ユリウスが手配し、建設局に命じて設置させておいた『王国所有の木製可動式板壁』がそこにあった。
「壁」という比喩の字義に合わせるため、言葉ではなく、現実側のほうを校正してあったのだ。
王冠の魔法は、完璧にその対象を捕捉した。
演台の前に一列に設置された可動式板壁が、静かに、そして美しく左右へと退いていく。
王と民衆の間にあった板壁が、左右の収納場所に収まった。
「おおおおおっ!!」
「魔法だ! 王様の魔法だ!」
言葉と動きが重なった光景に、群衆から割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
だが、その完璧な挙動の中で、一つだけ小さな異常があった。
左右に退いた板壁の端に、装飾として結ばれていた赤い飾り縄の一本が、摩擦で想定外の方向に跳ね上がり、隣の石柱にグルグルと不格好に絡まってしまったのだ。
「……」
観客席の最前列で、ユリウスの眼鏡の奥の目が、その微かなズレを的確に捉えた。
飾り縄は通路にかからず、柱に一度巻きついて止まっていた。足場も、板壁の留め具も動いていない。係員が近づこうとしたので、ユリウスは手のひらで、今はよいと示した。
後でほどけば済む。
王の話を止める理由にはならない。
ユリウスは胸ポケットから手を離した。
アルノルトは、障害物がなくなった演台の縁まで歩み寄り、高らかに宣言した。
「この王冠は、教育装置としての役目を終えた! 余は、もう言葉から逃げない!」
アルノルトは、自らの頭上の王冠を両手でしっかりと掴んだ。
「これより、第一更新刻印に基づき、強制機能を封印する!」
その言葉が、王権契約の正当な解除コマンドとして王冠の奥深くへと響いた。
ブォン……。
王冠の宝珠が、最後に一度だけ強く明滅し。
やがて、その中核に宿っていた銀色の輝きが、砂がこぼれ落ちるようにゆっくりと色を失っていった。
沈黙した金属の冠。
二度と、王の言葉が物理法則を歪めることはない。一年間にわたる、王と校正官の長く奇妙な戦いが、永遠の封印をもって完結した瞬間であった。
「アルノルト陛下万歳!!」
空気を震わせる大熱狂の中、式典は最高のフィナーレを迎えた。
数時間後。
式典の喧騒から離れた、王宮内の静かな控室。
アルノルトは、重い王冠を机の上に置き、深々と長椅子に腰を下ろしていた。
「お疲れ様でございました、陛下。見事な演説でした」
ユリウスが、労いの言葉とともに冷たい水を差し出した。
「ああ。板壁の配置から比喩のタイミングまで、お前の計算通りだったな」
「飾り縄が一本、柱に絡まりました。通行には支障がなく、式典後に係員がほどきました。演説を止める必要はありませんでした」
ユリウスが薄く笑うと、アルノルトも「お前が妥協するとは、明日は雪が降るかもしれんな」と笑い返した。
王冠の強制機能が封印されたことにより、物理事故を防ぐための「臨時王命校正官」というユリウスの役職も、自動的にその役目を終えることとなる。
「……ヴェルナー。お前の臨時職は、今日で終わりだ」
アルノルトは、真面目な顔で切り出した。
「はい。明日からは、法制局の一介の法文校正官に戻ります。元の、静かで退屈な書類仕事の日々です」
「そうはさせんぞ」
アルノルトは、机の上の書類の束をポンと叩いた。
「王冠の魔法は消えた。だが、余の言葉が国を動かし、民の生活を変えるという『現実の重さ』は、何一つ変わっていない。むしろ、魔法に頼れない分、これからの政治はより一層、正確さと誠実さが求められる」
アルノルトは立ち上がり、ユリウスに向かって右手を差し出した。
「通常の演説の推敲も、法文の監修も、これからもお前に頼む。……余には、お前の赤ペンが必要だ」
差し出された手の向こうに、明日付けの演説草案が見えた。まだ、赤は入っていない。
ユリウスは一瞬目を丸くしたが、やがてその口元に、隠しきれない柔らかな笑みがこぼれた。
「……承知いたしました。陛下の言葉の余白は、これからも私が厳しくお守りします」
ユリウスがその手を取り、二人は固い握手を交わした。
コンコン、と控室の扉がノックされ、コンラート宰相、近衛隊長バルド、そしてミラ博士が顔を出した。
「陛下、各国の使節団が祝賀会の会場でお待ちですぞ」
「うむ。今行く」
アルノルトは上着を羽織り直し、大きく伸びをした。
「いやあ、それにしても。この一年間、ずっと気を張っていたからな。ようやく王冠が封印されて、祝賀会では、大いに羽を伸ばせそうだ!」
アルノルトが、すっかり気を抜いて、無意識のうちに日常のありふれた比喩を口にした。
その瞬間。
「っ!!」
バルドが反射的に近くの衣装棚へ目を走らせ、コンラートが懐中時計とメモ帳を構え、ミラが測定器を振りかざし、そしてユリウスが、音速で胸ポケットから赤ペンを抜き放った。
全員が、血の気を引いた顔で、周囲の空間に防御態勢をとったのだ。
「羽を……陛下、その表現は!」
ユリウスが叫びかけたところで、ピタリと動きが止まった。
……しん。
部屋の中には、ただ穏やかな午後と、微かな風の音だけが流れていた。
儀仗帽の羽根飾りも、衣装棚の羽根扇も、動かなかった。
王冠は、机の上でただの金属として沈黙している。
数秒の完全な静寂の後。
「……ああ。そうか。もう、何も起きないんだったな」
バルドが、衣装棚から目を戻して、ポツリと呟いた。
ユリウスも、構えていた赤ペンをゆっくりと下ろし、自分が極度の緊張状態で硬直していることに気づいて、耳まで真っ赤になった。
「ふっ……ははははっ! あーっはっはっは!!」
アルノルトだけが、腹を抱えて大笑いし始めた。
「お前たち、見事な反応速度だったぞ! だが、もう余の言葉で世界はひっくり返らん! 安心しろ!」
「笑い事ではありませんよ! 一年間の条件反射がそう簡単に抜けるわけがありません!」
ユリウスが顔を真っ赤にして抗議するが、アルノルトの笑いは止まらず、やがてコンラートたちもつられて吹き出した。
笑い声に包まれた王宮の空は、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。
(完)




