第48話 事故は、起きる前に笑える
王都の中央広場に面する王立大講堂は、異様なほどの熱気と物々しさに包まれていた。
翌日に控えた、アルノルト二世の戴冠一周年記念式典。そして、古代王冠の機能が公式に封印されるかもしれない、歴史的な一日。
その前日リハーサルが行われる講堂内には、この一年間で王宮が編み出した「王冠事故対策」の全ノウハウが物理的な形となって集結していた。
建物の入り口や換気口には、最初の猫騒動を教訓とした頑丈な『猫対策柵』が設置されている。議席を区切るパーテーションには、諸侯会合の教訓から物理的な『可動壁の固定具』がボルトで打ち込まれ、万が一の事態に備えて広報局の『魔導録音機』がバックアップとしてスタンバイしていた。
演台の周囲を固める近衛兵たちの手には、武器ではなく、いざという時に王に読み上げさせるための『緊急訂正カード』が握られている。
そして、演台の斜め後ろに直立する臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーの手には、分厚いバインダーと、赤く塗られた『危険語カード』が握られていた。
「……結界の出力安定。魔力計器、異常なし」
舞台の下で、ミラ・フェルベック博士が測定器のダイヤルを調整する。
「警備各員、配置完了。不測の事態における避難経路の確保よし」
バルド・グランツ隊長が、重低音の声で最終確認を終えた。
「進行の段取りも問題ありません。あとは、明日の本番を迎えるのみですな」
コンラート宰相が、懐中時計を仕舞いながら満足げに頷いた。
アルノルトは演台に立ち、かつてないほど厳重に、かつ完璧に整備された講堂内を見渡した。
王はバルドの腕の訂正カードを見て、口元を緩めた。以前、ユリウスの休暇中に使ったのと同じ、空欄のある書式だった。
アルノルトは、準備の整いつつある会場のスタッフたちに向かって、労いと気合を込めた声を張り上げた。
「一年間、皆よくやってくれた! 我々の集大成を明日、見せようではないか!」
スタッフたちから「おおーっ!」と応える声が上がる。
その熱気に押されるように、アルノルトは無意識のうちに、演劇の開始を告げるようなありふれた比喩を口にしてしまった。
「さあ、幕を開けよう!」
その言葉を合図にしたかのように。
カッ!
アルノルトの頭上で、王冠の宝珠が目を射るような銀色の光を放った。
「あっ」
ユリウスが声を上げるより早く。
バサァァァァァッ!!
講堂の採光窓を覆っていた王国所有の巨大な暗幕、そして、演台の奥にある舞台を隠していた分厚いベルベットの緞帳が、吊り金具を鳴らしながら、一斉に全開になった。
王冠は「式典(出来事)を始める」という比喩的な意図を読まず、字義通りに王国が管理する「幕」という幕をすべて「開けた」のである。
一気に流れ込んだ外光に、講堂内が不自然なほど明るく照らし出される。
そして、全開になった舞台の奥――未準備の舞台裏の光景が、会場の全員に向けて白日の下に晒された。
そこには、まだ脚立に乗って式典用の看板にペンキを塗っている裏方の職人や、木箱に座って優雅にお茶を飲んで休憩していた大道具のスタッフたちが、ポカンと口を開けてこちらを見ている、気の抜けた姿があった。
数百人の視線が、お茶を飲んでいるスタッフに突き刺さる。
だが。
一年間、王冠の理不尽極まりない事故に鍛えられ、振り回され続けた王宮スタッフたちの反応は、全く違っていた。
悲鳴は、ただの一声も上がらなかった。
「落下物なし! 人的被害ゼロ! 窓枠の破損なし!」
バルドが即座に大音声で状況を断定し、近衛兵たちは剣の柄に手すらかけず、避難誘導のステップを踏んだ。
「魔力波形、通常事故レベル! 王宮魔力網への負荷は許容範囲内です!」
ミラが測定器の数値を読み上げ、安全を宣言する。
「よし。被害は軽微だ。……記録係、復旧までのタイムを計るぞ」
コンラートは冷静に、細かな計時目盛の付いた懐中時計を取り出し、カチリと計測用のつまみを押した。記録係の官吏が、淡々と事象と被害状況(被害なし)を手元の帳簿に書き留めていく。
さらに。
ユリウスが赤ペンを抜いてバインダーに訂正文を書こうとしたり、近衛兵が「こちらをお読みください!」と緊急訂正カードを差し出そうとしたりするよりも早く。
アルノルト自身が、自らの失言と王冠の光に気づき、即座に動いていた。
「……しまった」
アルノルトは小さく舌打ちをすると、誰の助けも待たず、わずか数秒で完璧な自己訂正の命令を構築し、発声した。
「開幕の命令を撤回する。今開いた採光窓の暗幕と舞台の緞帳を、それぞれ閉じよ」
シューゥゥゥ……。
開いたばかりの巨大な緞帳と暗幕が、再び自律的に動き出し、静かに元通りの状態へと閉まっていった。舞台裏でお茶を飲んでいたスタッフの姿が、再びベルベットの向こう側へと隠れる。
カチリ。
「……タイム、五・八秒。見事なリカバリーですな」
コンラートが懐中時計の計時針を止めて宣言した。
その流れるような高速事故処理、日常化された完璧なチーム芸に。
「おおーっ!」
「今日のリカバリー、新記録じゃないか?」
「陛下、次は開ける前にお願いします!」
現場のスタッフたちから、悲鳴の代わりに、どっと沸き返るような笑い声と温かい拍手が巻き起こった。
バルドが脚立の職人にも確認し、職人は無事を知らせる手を振った。
「茶が冷める前に終わりました」
幕の奥から声がして、もう一度笑いが起きた。
「……面目ない。本番前にまた余計な仕事を作ってしまったな」
アルノルトは演台の上で顔を真っ赤にして頭を掻いたが、その表情には、頼もしい臣下たちへの絶対的な信頼感が浮かんでいた。
ユリウスはバインダーを抱えたまま、開けたままのペンキャップをカチリと閉めた。
(……出番なし、ですか)
ユリウスの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
リハーサルが終了した後の、王宮の控室。
アルノルトは式典用の豪奢な上着を脱ぎ、長椅子に深く腰を下ろしていた。
「見事な自己訂正でした、陛下」
ユリウスが、温かい茶をテーブルに置きながら言った。
「あのような大掛かりな比喩でも、私に口を塞がれる前にご自身で制御できるとは。私の仕事が完全になくなる日も近そうですね」
「嫌味を言うな。あそこで『次の一文は比喩として言う』を使っていれば完璧だったのだがな。まだまだ詰めが甘い」
アルノルトは茶を飲み、ネクタイを少し緩めた。
彼の顔から先ほどの笑みが消え、明日の本番を見据えた真剣な王の顔になった。
「ヴェルナー。明日の演説は、一人で話す。原稿もなしだ」
ユリウスは驚かなかった。地方での視察や、子どもたちとの質疑応答を経て、アルノルトが「自分の言葉」で語ることの重要性を理解していることを知っていたからだ。
「……承知いたしました。安全のための危険語リストだけはお渡しします。ご自身の言葉で、国民に真実を語りかけてください」
ユリウスが短く答えると、アルノルトは立ち上がり、ユリウスの目を真っ直ぐに見据えた。
「ああ。だが……一つだけ、頼みがある」
「頼み、ですか」
「明日の演説の、最後の一文だ」
アルノルトは、これまでの一年間、共に数々の事故を乗り越え、法と感情の間で激しくぶつかり合ってきた不器用な校正官に向かって、静かに告げた。
「最後の一文だけは、余とお前で一緒に設計したいのだ」
ユリウスは閉じかけたバインダーを、もう一度開いた。
ユリウスは一瞬目を見開いたが、やがて深く、静かに一礼した。
「……喜んで、お受けいたします」
王冠を意図して使う、最後の一文。
それを最高の形で現実のものとするため、二人は夜更けまで、たった一文の設計図に向き合うこととなる。




