第47話 封印前に一度だけ
王宮の第一会議室。
長机の端に座る臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーの視界は、目の前にそびえ立つ白い紙の壁によって遮られていた。
「……ヴェルナー殿、建設局の申請書はどこに紛れましたか。三番目の決裁カゴに入れたはずなのですが」
「現在、軍務局の資材移動申請の束の下敷きになっています。順番をお待ちください」
ユリウスは赤ペンを耳に挟み、無表情のまま紙の雪崩を捌き続けていた。
数日後に迫った、アルノルト二世の戴冠一周年記念式典。
そこで王冠の強制機能が『安全に封印できる』という事実が宮廷内に知れ渡って以来、法制局には各省庁からの『王冠利用申請書』が殺到していた。
どうせ封印されて使えなくなるのなら、今のうちに面倒な仕事を魔法で一気に片付けてしまおうという、現金で官僚的な駆け込み需要である。
「――却下だ!! 次!」
長机の中央で、国王アルノルト二世が、叩きつけるように書類に不許可の印を押した。
「陛下! なにとぞご再考を!」
食い下がるのは、近衛隊長のバルド・グランツであった。
「春の軍事演習で使う重さ百キロの丸太五百本! これを演習場に等間隔で配置する作業は、兵士たちの腰を破壊します! 陛下の『丸太を並べよ』という一言で済むのですから、どうか最後に一度だけ!」
「ならんと言っている! 王冠の魔力は無尽蔵ではないのだぞ。兵の腰の保護は予算をつけて器具を買え!」
「なら、運搬器具の申請を別に出します。あれは本当に必要ですので」
バルドが舌打ちをして下がると、すかさず魔法学院のミラ・フェルベック博士が、目をキラキラさせてアルノルトの前に滑り込んできた。
「陛下! 私の申請は、魔力網への負担も計算に入れた完璧な研究計画です!」
「見なくても分かる。却下だ」
「まだ何も言っていません! 封印される前に、王冠の魔力枯渇の『限界値』を正確に計測しておきたいのです! つきましては、王宮内の不要な砂利を右から左へ延々と移動させる無意味な連続発動を、王冠が沈黙するまで行っていただき……」
「余を過労死させる気か! 却下だ!!」
アルノルトはミラの申請書も撥ね除けた。
すると、今度は宰相コンラート・ハイムが、咳払いをして進み出てきた。
「陛下。私の申請は、国家百年の計に関わる治水工事の件です。東部河川の堤防補強に必要な石材の移動を……」
「宰相! お前までどさくさに紛れて列に並ぶな!」
アルノルトは頭を抱えた。
「どいつもこいつも、私利私欲と実利ばかり追求しおって。余の口は貸出備品ではないのだぞ!」
「ですが陛下。腐っても古代の神器です。このままタンスの肥やしにする前に、実利のある使い方をしておきたいと考えるのが、為政者としての正しい……」
「――やれやれ。皆、最後だからと余裕がないね」
コンラートの正論を遮って、優雅な声が会議室に響いた。
開け放たれた扉から、宮廷詩人ラファエル・モーンが、胸に深紅の薔薇を一輪挿して歩み入ってきた。
「モーン殿。あなたに承認するような詩的な案件は一つもありませんよ」
ユリウスが書類から顔を上げずに釘を刺す。
「冷たいな、校正官殿。私はただ、無骨な実務に追われる王宮に、最後の美しい魔法を添えたいだけだ」
ラファエルはアルノルトの前に立ち、大げさに片膝をついた。
「陛下。どうか封印の前に、王都の中央広場に、永遠に枯れない美しい薔薇のアーチを……」
「却下だ」
「食い気味に否定された!」
ラファエルは立ち上がり、肩をすくめた。
「全く。近衛も学者も宰相も、血眼になって申請書を通そうとピリピリしている。そんなに焦らなくても、王冠が封印された後の世界は、もっと豊かで美しい言葉に満ちるというのに」
ラファエルは、殺気立っている会議室の面々を見渡し、やれやれと首を横に振った。
「最後くらい、皆の距離を縮めてはどうだい?」
争いをやめ、心の距離を縮め、仲良くしよう。
それは、宮廷詩人らしい、場を和ませるためのごくありふれた比喩表現であった。
そして。
「……ああ。いいな、その通りだ。採用しよう」
次々と私欲に満ちた申請を却下し続け、精神的に疲弊していたアルノルトは、ラファエルのその「和解を促す意図」の言葉に対し、深く考えず、反射的に労いの相槌を打ってしまったのだ。
その瞬間。
カッ!
アルノルトの頭上に載る王冠の宝珠が、鋭い銀色の光を放った。
「あっ」
ユリウスが、赤ペンを落として息を呑んだ。
他者の比喩に対する、公的な同意と採用。
かつて、隣国ヴァルツの外交官セヴラン卿との会談で、関税局の窓口を一つに合体させてしまった『相槌による採用事故』と、全く同じパターンの起動である。
ズザザザザッ!!
地鳴りのような摩擦音が、会議室内に響き渡った。
「な、なんだ!?」
「うおおっ!?」
バルドやコンラートが驚きの声を上げる。
だが、彼ら自身の体は、何の力にも引かれていなかった。王冠の『人体対象外ルール』により、人間そのものが強制的に移動させられることはない。
動いたのは、「空席の机と椅子」であった。
会議室に備え付けられていた、現在誰も座っていない王国所有の重厚なマホガニー製の椅子と机が、見えない糸に引かれるように、空いた通路を通って部屋の中央――アルノルトの目の前へと寄り集まってきたのだ。
ガチャン! ゴンッ!
空席の家具たちは、脚と脚を小さく鳴らしながら、隙間という隙間を埋めるように密集し、一つの巨大な家具の塊のようになって停止した。
「……」
「……」
静まり返る会議室。
バルド、ミラ、コンラート、そしてラファエルの四人は、部屋の中央にギュウギュウに寄せ集められた自分たちの席(あるいは元あった場所の椅子)へと、恐る恐る戻り、座り直してみた。
「……狭いな」
大柄なバルドが、窮屈そうに肩をすぼめた。
右隣に座るミラの肩と、バルドの左腕が密着している。そのミラの右側にはコンラートが、さらにその隣にはラファエルが、全員が肩と膝をぶつけ合うような極端な密着状態になっていた。
「……確かに距離は縮まりましたが。いささか、物理的すぎますな」
コンラートが、ラファエルの薔薇の香りを至近距離で嗅がされながら、真顔で呟いた。
「熱気が直接伝わってきます。これぞ『密接な関係』ですね!」
ミラだけが、なぜか嬉しそうに測定器の針を見つめている。
「暑苦しい! むさ苦しい! 私の詩的な意図が、こんな詰めすぎた乗合馬車のような形で実現するとは!」
演台の奥で、ユリウスは静かに新しい羊皮紙を取り出し、赤ペンを構えた。相槌による不測の事故。急いで訂正文を作成し、王に読み上げさせなければならない。
だが、ユリウスがペンを下ろすより早く。
「今の採用発言を撤回する。皆、いったん席を立ってくれ」
四人が順に抜け出す。王は全員が離れたのを確かめた。
「今動いた机と椅子を、それぞれ床の配置印に合わせて戻せ」
空になった家具が動いた。脚の位置が元の印に揃う。
ユリウスの書きかけの紙には、まだ『今の』としかない。
「……ふう。すまん、うっかりしていた。他人の比喩には同意するなと、あれほど言われていたのにな」
アルノルトは苦笑しながら、ユリウスへ向かって肩をすくめた。
ユリウスは、持っていた羊皮紙をそっとバインダーの下に隠した。
「……いえ。見事な自己訂正でした。被害の拡大はゼロです」
ユリウスは手帳を開き、結果と『適切な自己訂正』という事実だけを黙って記録した。
王はもう、校正官の口止めなしでも、自分の失敗を自らの言葉で収拾できるまでに成長している。その証明のような、小さな、だが確実な出来事だった。
その時、コンラートが懐中時計を取り出し、パンと手を打った。
「さて、皆様。遊んでいる時間は終わりですぞ」
コンラートは、会議室に集まった面々を見渡した。
「これより、一周年記念式典の最終リハーサルへと移行します。各省庁の駆け込み申請は、これにてすべて打ち切りとさせていただきます」
「ええーっ! 私の限界測定が!」
「俺の丸太は結局人力か……!」
ミラとバルドの悲鳴を背に受けながら、アルノルトは玉座から立ち上がり、ユリウスと視線を交わした。
王冠の公式な最後の利用は、式典の本番。
失敗の許されない、国を挙げた大舞台が、すぐ目の前まで迫っていた。




