第46話 封印するか、残すか
王冠の真の目的が明らかになった翌日。
王宮の円形評議会室は、喧騒に包まれていた。
中央の玉座に座る国王アルノルト二世の頭上には、昨日までと変わらぬ冷ややかな銀色の王冠が載っている。だが、その王冠を数日後の戴冠一周年式典において「安全に封印できる」という事実が知れ渡ったことで、議場はかつてないほどの熱を帯びた議論の渦中にあった。
「――いかに本来の目的が教育装置であろうとも、この王冠が持つ物理的な命令実行能力は本物です!」
宰相コンラート・ハイムが、机を叩いて声を張り上げた。
「洪水や災害時における、既存の物資の移動と配送準備の短縮。これを放棄するのは国家の損失です。平時は発言を制限し、緊急行政でのみ使用する『限定維持』を強く主張します!」
「異議あり! 言葉とは魂の翼だ!」
コンラートの意見に真っ向から反対したのは、宮廷詩人ラファエル・モーンであった。
「王が比喩を恐れ、美しき修辞を捨て去る。そのような窮屈な教育期間は一年で十分だ! このような冷たい金属の枷など、一周年式典で直ちに封印すべきである!」
「お待ちください、まだ封印されては困ります!」
魔法学院のミラ・フェルベック博士が、大量の記録用紙を抱えて身を乗り出した。
「『王が外国語の比喩を用いた場合の解釈の揺らぎ』や、『魔力残量ごとの実行範囲』など、研究継続に必要な検証条件が山ほど残っているのです! 未整理の測定記録を確認する時間をください!」
「俺はどっちでもいいがな」
近衛隊長バルド・グランツが、腕を組んで口を挟んだ。
「残すというなら残すでいい。だが、王の発言に備えた王宮の封鎖線の張り方や、事故時の緊急出動手順をもっと明確化してマニュアルに組み込む必要がある。警備の予算と増員を確約してくれ」
緊急維持、完全封印、研究継続、手順の明確化。
各々が自らの専門領域における完璧な正論をぶつけ合い、議場は膠着状態に陥っていた。
アルノルトは玉座の上で頬杖をつき、長引く議論にうんざりとした表情を浮かべていた。
その斜め後ろで、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、赤ペンをノートに走らせながら黙々と各者の意見を記録している。
「……ヴェルナー殿」
コンラートが、ユリウスへ視線を向けた。
「限定維持の有用性については、君も十分に理解しているはずだ。先日も、王冠による物資の移動がどれほど迅速であったか、君の報告書に記されていただろう」
「ええ。事実として記録しています」
ユリウスは淡々と答えた。
「ならば、その実用性をこの議場にいる者たちに視覚的に示し、納得させたい。陛下に一度だけ、極めて安全な具体命令を実行していただきたいのだ」
「……」
アルノルトはユリウスを見上げた。ユリウスは短く頷く。
「安全な現行資源の移動であれば、王冠は問題なく受理します。陛下」
「よかろう。やってみせよう」
アルノルトは玉座から立ち上がった。
彼は議場全体を見渡し、命令の対象となる「王国管理の資源」を探した。
大規模な建物の移動などは魔力を浪費するし、複雑な配車指示などはこの場では見せられない。今、この部屋にあるもので、最も分かりやすく、かつ安全な物体。
アルノルトは、部屋の隅に重ねて置かれている予備の椅子を指差した。
「部屋の隅にある予備椅子三脚を、不足している席へ移せ」
比喩も、曖昧な感情表現も一切ない、純粋な物理的命令。
カッ!
王冠の宝珠が、澄んだ銀色の光を放った。
直後、部屋の隅に置かれていた三脚の重厚な木製椅子が、ガタッと音を立てて浮き上がった。
「おおっ」
議員たちが息を呑む中、三脚の椅子はまるで透明な召使いに運ばれるように、自律的にススーッと床を滑り出した。そして、議席の円卓の中でちょうど空席になっていた三箇所へ分かれ、それぞれの隙間にピタリ、ピタリ、ピタリと、寸分の狂いもなく収まった。
一切の無駄がない、完璧に正確な魔法の発動。物理事故はゼロ。
アルノルトは「どうだ」とばかりにコンラートを見た。
だが、議場に流れたのは、賞賛の声ではなく、微妙な空気だった。
「……」
「……見事な、椅子の移動ですな」
一人の議員が、咳払いをして呟いた。
確かに便利である。人は動かず、椅子だけが完璧に配置された。
しかし、国家の命運を分ける古代神器の驚異的な実用性の証明が、「予備椅子三脚の自動移動」という、地味でスケールの小さい、生活感にあふれた現象であったため、全員の反応がひどく困惑したものになってしまったのだ。
「いや、これはあくまで一例だ!」
コンラートが慌ててフォローを入れる。
「これを毛布や土嚢の輸送規模に拡大すれば、立派な国家インフラになる!」
「しかし、宰相閣下」
別の議員が立ち上がった。
「確かに便利かもしれませんが……この程度の便利さのために、我々は国王陛下の言論の自由を縛り続けるのですか? 日常の発言の制限と、事故に備える費用まで含めて、判断すべきではありませんか」
「だから! 普段は法制局の校正で言葉を縛り、緊急時のみ使えばいいと言っているのだ!」
「王を一生、校正官の監視下に置くというのですか!」
議論は、再び「安全か、自由か」の真っ二つに割れ、激しい言い争いが再開された。
アルノルトは、自分の言葉が縛り続けられる未来を想像し、重い溜息をついた。
「――皆様。静粛に」
その時、ユリウスが通る声で議場を制した。
彼の手には、数枚の真新しい羊皮紙が握られている。
かつてのユリウスであれば、ここで「王を縛る法案こそが至高である」と、安全至上主義の結論を無理やり押し付けていただろう。
だが、彼は静かに、その羊皮紙を長机の中央に広げた。
「私は、結論を押し付ける気はありません」
ユリウスが提示したのは、三つのリストだった。
「第一のリスト。王冠を維持した場合に得られる、実際に短縮できた配送準備の時間と、移動できた資材の量。地方では王宮の魔力網を使えない制限も付記しています。
第二のリスト。王冠を使用するたびに消費される王宮魔力網のコスト試算と、それに伴う照明・暖房停止の被害額。
第三のリスト。この一年間で発生した、言葉のズレによる物理事故の全履歴と、その行政的修復コスト」
感情論も、倫理的な主張も一切ない。
そこにあるのは、ただフラットに整理された事実と数値の羅列だけだった。
「校正官の役割は、残すべき言葉を選ぶための材料を整えることです。利点も、費用も、過去の失敗もすべてここにあります。……決断を下すのは、王冠の持ち主たる陛下ご自身です」
ユリウスは一歩後ろへ下がり、深く一礼した。
議場の全員の視線が、アルノルトに集まる。
アルノルトは、机の上の資料を見つめた。ユリウスが用意してくれた、王として自ら決断するための完璧な足場。
アルノルトはゆっくりと立ち上がり、議場を見渡した。
「……一年間。余はこの王冠のせいで、多くの失敗を重ね、多くの言葉を失い、そして多くの言葉の重みを学んだ」
アルノルトは自らの王冠に触れた。
「この力は、確かに国を豊かにするかもしれない。だが、言葉への恐怖が余の口を塞ぎ、民との対話を絶つのであれば、それは本末転倒だ」
アルノルトは、真っ直ぐに前を見据えた。
「数日後。余の戴冠一周年式典において、余は王冠を一度だけ意図的に使う」
「陛下!?」
「心配するな。事故は起こさん。発言と現場の条件を合わせ、どこまで確かめられるかを示す。……その上で、この王冠を封印するか否かを、余自身の言葉で最終決定する!」
王の揺るぎない宣言に、議場は水を打ったように静まり返り、やがて深い納得の空気に包まれた。
コンラートも、ラファエルも、それ以上反論することはなかった。
数時間後。
評議会が散会し、王宮は一時的な静寂を取り戻したかに見えた。
しかし、法制局の執務室の扉が、壊れんばかりの勢いでノックされた。
「ヴェルナー殿! 財務局です! 今期分の税収帳簿の再配置、王冠で一瞬で終わらせられませんか!」
「建設局からも頼む! 王冠が封印される前に、南棟の改修資材を中庭に移動してくれ!」
「兵站部です! 古くなった防具の廃棄処理、なんとか陛下の王命で……!」
次々と飛び込んでくる各省庁の役人たちの手に握られているのは、大量の『王冠利用申請書』であった。
「王が式典で最後に王冠を使うかもしれない」という事実が宮廷内に知れ渡った結果、「どうせ近いうちに封印されて使えなくなるなら、今のうちに面倒な仕事を魔法で一気に片付けてもらおう」という、極めて現金で官僚的な駆け込み需要が発生したのである。
ユリウスの執務机の上には、あっという間に申請書の山が築き上げられた。
「……」
ユリウスは、インクの切れた赤ペンを握りしめたまま、その山を虚ろな目で見つめていた。
その隣で、申請書の内容を覗き込んだアルノルトが、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「いい加減にしろお前たち!! 余の口は、貴様らのための便利な貸出備品ではないぞ!!」




