第44話 校正官、法案を校正する
王宮の円形評議会室には、重々しい空気が満ちていた。
中央の長机を囲むように、アルノルト二世、宰相コンラート・ハイム、そして各省庁の大臣たちが着席している。彼らの視線の先にあるのは、数日間の試行期間を終え、いよいよ本格導入の可否が問われる国家基本法案『王言標準法』であった。
「――試行期間中のデータが、すべてを物語っております」
コンラートが立ち上がり、議場を見渡して朗々と語り始めた。
「本法案の試行中、王冠による物理事故は、誤登録による一件と、文型を外れた気遣いによる一件にとどまりました。陛下のお言葉を標準化し、番号で管理するこのシステムは、国家の安全保障において極めて有効であることが証明されたのです」
大臣たちから、安堵と賛同のどよめきが漏れる。
「王の言葉一つで建物の窓が一斉に開き、国庫の硬貨が床にばらまかれる。そのような綱渡りの統治は、もはや限界です。責任ある国家運営のため、私は本法案の即時かつ全面的な施行を提案いたします」
コンラートの主張は、理路整然としていた。悪意など微塵もなく、純粋に国と王を守るための、合理的で揺るぎない正義であった。
アルノルトは腕を組み、不快げに眉をひそめながらも反論できなかった。安全が証明されてしまった以上、感情論で「番号で喋りたくない」と我を通すのは、君主としてあまりに無責任だからだ。
「……検証役の意見を聞こう」
アルノルトは、斜め後ろに直立する臨時王命校正官、ユリウス・ヴェルナーへ視線を向けた。
ユリウスは無言で一歩前に出た。彼の手には、分厚い『王言標準法』の綴りが抱えられている。
ドンッ。
ユリウスは、その分厚い書類の束を、コンラートの目の前の机に投じた。
「なっ……」
コンラートが目を見開いた。大臣たちも一様に息を呑む。
机に置かれた法案の全ページは、原形をとどめないほどに、凄まじい量の「赤ペン」で塗りつぶされ、無数の斜線と注記によって真っ赤に染め上げられていたのだ。
「ヴェルナー殿。これは、どういう意味かな」
コンラートの声が低くなる。
「検証結果です」
ユリウスは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、淡々と答えた。
「この法案は、致命的な欠陥を抱えています。よって、全面的な修正、あるいは廃案を要求します」
「馬鹿なことを! この法案の論理の基礎は、他でもない君自身がこの一年で作ってきた安全規程の集大成ではないか! それを自ら否定するというのか!」
「元の規程の使い方を改めます」
ユリウスは、自分の手で真っ赤に染めたページをめくった。
「第二章第四条、発言番号の義務化。削除。王の思考を型にはめ、状況に応じた柔軟な意思決定を阻害する愚行です。第三章第十二条、比喩表現の完全禁止。これも削除。比喩は情報圧縮の効率的ツールであり、これを禁じることは、民衆への情報伝達速度と理解度を著しく低下させます」
「ま、待て! 君はこれまで、比喩こそが事故の元凶だと言って全て削ってきたではないか!」
「過去の私は、いささか安全というものを盲信しすぎていたようです。今の私は違います」
ユリウスは、コンラートの目を真っ直ぐに見据えた。
「私は今回、この法案を『王冠に対して安全か』に加え、『王の意思を民に正しく伝えるか』という基準で校正しました。結果として、この法案はただ安全なだけで、言葉としての機能を完全に喪失した死骸に過ぎないと判定しました」
議場が静まり返った。
自分が心血を注いで作り上げた安全文書の寄せ集めを、自らの手で「死骸」と断じ、容赦なく赤く染め直していく男。その凄まじい自己否定と手のひら返しに、大臣たちは戸惑い、アルノルトだけが口元を手で覆って必死に笑いを堪えていた。
「……詭弁だ」
コンラートは、机に手をつき、鋭い声で反論した。
「応答しやすくする意図は分かる。だが、生じる事故を誰が引き受けるのか。過去の対応費を見てほしい」
コンラートは、自らの手元の資料をめくり、過去の事故記録を容赦なく列挙し始めた。
「王都中の猫が王宮に集結した日! 隣室の打ち合わせを隔てる可動壁が撤去された日! 窓が全開になり書類が舞い散った日! そして極めつけは、国庫の紐が解け、莫大な硬貨が床にぶちまけられた事件だ! あれでどれほどの行政コストが浪費されたと思っている!」
その事実の羅列に、ユリウスの言葉が詰まる。
「王は有能だ。だが、言葉一つで世界が物理的に変容する以上、その口には絶対的な制限が必要なのだ。これは王を縛るためではない。国家という巨大な船を沈めないための、唯一の合理的な防衛策なのだよ!」
コンラートの叫びは、評議会室に重く響いた。
ユリウスは修正案の末尾を示した。撤回、復旧、損失の補償、記録と見直し。残した条文もある。
「これらは削っていません。それでも、事故がなくなるとは申し上げられません」
「そこが私の懸念だ」
「……制限が必要なのは、分かる」
沈黙を破ったのは、アルノルトだった。
「宰相の言う通り、余の口は危険すぎる。だが……番号で語る王を、民は信じない。このままでは、余は王ではなくなる」
アルノルトの苦悩に満ちた声。
ユリウスは、伏せていた顔を上げた。
「……宰相閣下。我々は、対処療法ばかりを議論しています」
「対処療法だと?」
「はい。事故が起きるから法律で縛る。それでは根本的な解決になりません。我々が本当にすべきことは、王を新たな法律で縛ることではなく……そもそもなぜ、あの王冠がこのような面倒な挙動をするのか、その『設計目的』そのものを調べることです」
ユリウスは、アルノルトの頭上で沈黙する王冠を指差した。
「発言を記録し、字義通りに実現する。まるで悪意のある仕様です。ですが、もしこれが兵器であるなら、もっと無差別に人を殺せるはず。なぜ『非致死』で『最小実現』にとどまるのか。その根源的な理由が分かれば、この呪いを解く、あるいは安全に共存する道が見つかるはずです」
「調査の報告には、どれほどかかる?」
「冬の終わりまでに中間報告を、と依頼しています」
コンラートは修正案を見比べた。
「番号発声の義務化は見送る。安全確認と事故対応の条項は審議し、暫定運用としよう」
それから数週間。庭の雪が薄くなり、一周年まで残り五日となった朝、評議会室の扉が大きく鳴った。
バンッ!!
評議会室の重厚な扉が、蹴り破られるような勢いで開かれた。
「照合が終わりました!!」
飛び込んできたのは、王立魔法学院の言語魔術研究者、ミラ・フェルベック博士だった。
彼女の腕には、崩れ落ちそうなほどの大量の羊皮紙と、埃まみれの古文書の束が抱えられている。ミラは徹夜明けなのか、目の下に濃い隈を作っていたが、その瞳は尋常ではない興奮にギラギラと輝いていた。
「ふぇ、フェルベック博士!? ここは評議会だぞ、勝手な入室は……!」
「そんなこと言ってる場合じゃありません!」
ミラはコンラートの制止を無視して長机の端に歩み寄り、抱えていた資料の束をドサァッ! と豪快にぶちまけた。
「ヴェルナーさんに依頼されて、ずっと解析を続けていたんです! 以前、王冠の内部から発見された自動履歴データ。あの無味乾燥な公文書体で書かれた、約一年分の発動記録の束です!」
ミラは、埃まみれの古文書の一冊をバンバンと叩いた。
「その一年分の履歴データの魔力波形と、魔法学院の地下深くに封印されていた古代エルデン王国の『魔導具開発日誌』。その二つの照合解析に、ついに成功したんです!」
議場が、再び水を打ったように静まり返った。
アルノルトが、思わず玉座から立ち上がる。
「解析に成功しただと……? それはつまり」
「はいっ!」
ミラは誇らしげに胸を張った。
「王冠が、宝珠の修復で再起動したことに加え、この奇妙な仕組みの『本来の目的』が何なのか。そのすべての答えが、この履歴と古記録の中に記されています!」
アルノルトとユリウスの視線が交差した。
一年間、彼らを苦しめ、振り回し続けてきた呪いの正体が、ついに明らかになろうとしている。
「……宰相閣下」
ユリウスは、机の上の真っ赤な『王言標準法』をそっと脇へ寄せた。
「この法案の最終的な採否は、王冠の真の目的を知った後にすべきです。いかがですか」
コンラートは、ミラの持ち込んだ膨大な資料の山と、アルノルトの真剣な眼差しを交互に見つめ、やがて深く息を吐いた。
「……よかろう。すべての根源が分かるというのなら、検証の価値はある」
コンラートが譲歩を示し、アルノルトは力強く頷いた。
「よし。明日、朝一番で王宮の主要メンバーをこの部屋に集めよ。王冠がこの一年間で何を記録し、我々に何を突きつけようとしているのか……全員で、読み解いてやろうではないか」
王の言葉で、評議会は散会となった。
机の上に積まれていた古記録からは、遠い古代の埃の匂いが立ち昇り、明日明かされる真実への期待と緊張が、静かに部屋を満たしていた。




