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陛下、比喩は禁止です。~「猫の手も借りたい」で猫まみれ。王の失言、校正します~  作者: 他力本願寺


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第40話 王言標準法

深夜の王宮の執務室。


 アルノルト二世と臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーの前に、宰相コンラート・ハイムが恭しく提示した書類の束は、ずしりとした重みを持っていた。


「名付けて、『王言標準法』」


 コンラートの誇らしげな声が、静かな部屋に響いた。


「もはや、王が即興で言葉を選び、校正官がヒヤヒヤしながら赤を入れる時代は終わります。この法案は、陛下の公的な全発言を、完全に安全が保証された『標準文型』へと統一し、番号で管理するためのものです」


 アルノルトの顔から、さっと血の気が引いた。


 ユリウスは、分厚い書類の束の表紙を見つめたまま、一言も発することができなかった。


 コンラートは嬉々として法案の第一章を開き、アルノルトに見せた。


「例えば朝の挨拶です。挨拶から公務へ移った時、つい比喩を足してしまう。それを防ぐため、発言の用途をあらかじめ限定します」


 コンラートの指が、綺麗に印字された項目を指した。


『発言番号A-01:朝の定型挨拶(天候・感情への言及なし)』


「陛下は朝、廷臣たちに向かって『A-01』、あるいは『発言番号A-01を行使する』と仰るだけ。これで、法的に安全な『おはようございます』という意思表示が完了します」


「……正気か、宰相」


 アルノルトが、底冷えのするような声で言った。


「余に、これから一生、番号で会話しろというのか。冗談ではないぞ」


「冗談ではありません、陛下。これは国家の安全保障に関わる極めて合理的な提案です」


 コンラートは全く悪びれず、むしろ善意に満ちた笑顔をユリウスへ向けた。


「そして何より、この法案の基礎は、すべてヴェルナー殿がこの十か月で積み上げた成果なのです」


「……私、ですか」


 ユリウスは、微かに声を震わせた。


「ええ。我々宰相府の官僚が、この法案をゼロから作ることは不可能でした。ですが、ここにはヴェルナー殿の英知が詰まっている」


 コンラートが法案のページを次々とめくっていく。


 そこにあったのは、ユリウスにとって見覚えがありすぎる論理の集合体だった。


 かつて、民衆への演説から一切の比喩と感情を削ぎ落とした、あの無味乾燥な演説原稿の論理。


 休暇に入る前に用意し、王宮の窓が全開になった事件で使われた、緊急訂正カードの厳格なフォーマット。


 そして極めつけは、公私の文脈判定から記録方式までを網羅し、各部署の動きを止めてしまったあの全八十七頁の『王命取扱規程』。


 それらが複雑に絡み合い、極限まで最適化・先鋭化され、法という名の巨大な構造物として再構築されていた。


「ヴェルナー殿の緻密で素晴らしい仕事があったからこそ、陛下の発言を類型化し、リスクを完全に排除した『標準文型』の作成が可能になったのです」


 コンラートの言葉には、皮肉や悪意は一切なかった。彼は本当に、ユリウスの仕事の正確さを評価し、それを国家制度に昇華させようとしているのだ。


 ユリウスは、目の前の法案を手に取った。


 ページをめくるごとに、息苦しさが胸を締め付ける。


 すべての発言が番号化され、会話の余白が一切存在しない異常な世界。


 だが、その条文の論理構成を一つ一つ目で追っていくと、ユリウスは法務官として絶望的な事実を認めざるを得なかった。


(……論理が、完璧に整合している)


 この法案の根本思想は、他でもない「過去のユリウス自身」が、王冠の事故を防ぐために下した判断そのものだった。明確な定義、曖昧さの排除、安全性の担保。コンラートの法案は、それらを法的に一寸の狂いもなく実践しているだけなのだ。


 これを否定するということは、この十か月間の自分の校正作業のすべてを否定することに等しい。


「おい、ヴェルナー」


 アルノルトが、鋭い視線をユリウスに向けた。


「お前も、こんなふざけた法律が正しいと思うのか?」


 アルノルトの目には、怒りよりも、助けを求めるような色が滲んでいた。


 つい先ほど、「言葉の体温を残す」という決断を下し、理由書まで書き上げたばかりのユリウスである。王の言葉を縛り付けるこの法律を、誰よりも嫌悪しているのはユリウス自身だった。


 だが。


「……論理構造に、瑕疵はありません」


 ユリウスは、喉から絞り出すように答えた。


「なっ……」


「この法案は、私が過去に作成した規程と、私が下した安全基準の判断を、忠実に、かつ極めて高い精度で法文化したものです。法務の専門家として、この条文を『間違っている』と感情論で即座に否定することは……できません」


 ユリウスが苦渋の表情で言うと、コンラートは深く頷いた。


「さすがはヴェルナー殿だ。専門家として客観的な視点を持っておられる」


 アルノルトは、ギリッと奥歯を噛み締めた。


 ユリウスが敵に回ったわけではないことは、アルノルトにも分かっていた。ユリウスは今、コンラートではなく、「過去の自分自身」という最も厄介な敵と直面し、身動きが取れなくなっているのだ。


「とはいえ、陛下」


 コンラートはアルノルトに向き直った。


「いきなり全土で施行するような横暴はいたしません。まずは来月初めより、王宮内の評議会および公的行事において、この『王言標準法』の試行期間を設けたいと考えております。実用に耐えうるか、データを取りたいのです」


「全面施行は認めん。試行も期限を切れ」


「五日間としましょう。緊急対応と撤回文は制限の対象外とし、実害が出た場合にはその場で中断できます」


「それを、試行要領の最初に書け」


 その時、ユリウスが顔を上げた。


「宰相閣下」


「なんだね、ヴェルナー殿」


「この法案の試行についてですが、私も参加させていただきます」


 ユリウスの言葉に、アルノルトがハッと息を呑んだ。


「ただし、法案の推進役としてではありません。法制局の検証担当として、この法案が真に実運用に耐えうるものなのか、過去の私の文書の意図と齟齬が生じていないかを監視する『検証役』として、です」


 ユリウスは眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。


 即座に法案を否定できないのなら、実運用の中で論理的な隙を見つけ出し、内側から解体するしかない。それは、自らが生み出した安全策という「怪物」に対する、生みの親としての落とし前だった。


 コンラートは、その宣戦布告とも取れる申し出を、嬉しそうに受け入れた。


「素晴らしい! 作成の基礎を築いたご本人に検証していただけるとは、これほど心強いことはありません。大いにアラを探していただきたい」


 コンラートは深く一礼し、「では試行開始までに、ご意見をお寄せください」と満足げに執務室を退室していった。


 重い扉が閉まり、執務室に再び静寂が戻った。


 アルノルトは長椅子にドカッと座り直し、天井を見上げた。


「……はぁ。まさか、お前の作った赤入れや規程が、合体して怪物のような法律になって戻ってくるとはな」


 アルノルトはニヤリと笑い、ユリウスを見た。


「どうだ、ヴェルナー。過去の自分の正しさに首を絞められる気分は」


「……最悪です」


 ユリウスは、机に置かれた分厚い法案の表紙を睨みつけ、忌々しげに吐き捨てた。


「過去の私は、いささか安全というものを盲信しすぎていたようです。あのように息苦しい論理で陛下の言葉を縛っていたかと思うと、法務官として恥じ入るばかりです」


「ふん。やっと気づいたか」


 アルノルトは立ち上がり、ユリウスの肩をポンと叩いた。


「お前の規程で助かったこともある。全部、捨てるなよ」


「ええ。緊急訂正カードまで廃止する気はありません」


 王は一覧をめくった。


「『嫌味・軽度』はどこだ」


「分類するなら、ご自身でお願いします」

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