第41話 発言番号A-17
冬に入り、標準法の試行初日を迎えた。
王宮の迎賓室には、見事な装飾が施された長テーブルが用意され、豪勢な昼食の品々が並べられていた。
本日は、南方の同盟国から訪れた使節団との公的な昼食会である。本来ならば、美味な食事と軽妙な会話によって両国の親睦を深める和やかな場となるはずだった。
しかし、室内には葬儀のような重苦しい静寂が漂っていた。
「――陛下。こちらは我が国の南部に広がる葡萄畑で、今年収穫された最も上質なワインでございます。陛下の輝かしい御世が、このワインのように熟成し、長く芳醇な香りを放つことを祈念いたしまして」
使節団の代表が、愛想笑いを浮かべながらグラスを掲げた。
アルノルト二世は、無表情のまま使節を一瞥し、そして自分の手元に置かれた「分厚い書類の束」へと視線を落とした。
宰相コンラートが推し進める新法案『王言標準法』の試行一日目。
アルノルトの手元にあるのは、王の公的発言のすべてを網羅し、安全な文型に固定して番号を振った『発言番号リスト』であった。試行期間中、王は公の場において、このリストに載っている言葉以外を口にすることを禁じられている。
アルノルトはリストのページを数枚めくり、該当する項目を指でなぞった。
「発言番号A-17。感謝・中程度」
一切の抑揚のない、機械的な声が響いた。
使節は、掲げたグラスを持ったまま硬直した。
「……は?」
「並びに、発言番号B-04。今後の友好関係の継続を期待する。発言番号F-01。乾杯」
アルノルトはそう言い切ると、自分のグラスをわずかに持ち上げ、口をつけた。
通訳の役人が、冷や汗を流しながらそのままの言葉を相手国言語に翻訳する。
使節団の面々は、互いの顔を青ざめた表情で見合わせた。
使節が通訳に小声で訊いた。
「中程度ということは、酒がよくなかったのでしょうか」
「いえ、そのような意味では」
「では、上等の酒には何番が?」
通訳まで一覧をめくり始めた。料理人が心配そうに扉から顔を出した。
試行のことは事前に説明してある。それでも、目の前の返事には困るのだった。
アルノルトの斜め後ろで、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、検証役としてその惨状を静かに見つめていた。
王冠の魔力反応はゼロ。物理事故は防がれている。
だが、外交における「意思疎通と信頼構築」という本来の目的は、見事に死に絶えていた。相手国使節は、魔法の事故が起きないことよりも、王が何を考えているか全く分からないことに、底知れぬ恐怖を抱いているのだ。
(安全の代償に、王の人間性を剥奪する。……これが、私の積み上げてきた論理の行き着く先だというのか)
ユリウスは、胸の奥に鉛を飲み込んだような重苦しさを感じながら、バインダーの端を強く握りしめた。
午後。
重苦しい昼食会を終え、場所は評議会室へと移された。
円形の議場には、各省庁の大臣や官僚たちが集い、国内の様々な議題について審議を行っている。ここでも当然、『王言標準法』の試行は続けられていた。
「――以上が、東部国境付近における新しい街道整備の予算案となります」
財務局の官僚が説明を終え、アルノルトの裁可を待つ。
しかし、その予算案については、事前にコンラート宰相から「地方領主との調整が不十分であるため、本日の裁可は見送るように」との進言を受けていた。
アルノルトは手元の『発言番号リスト』をペラペラとめくった。
「ええと……議論の延期、保留に関する項目は……」
アルノルトは、法案の分類インデックスを頼りに、該当するページを開いた。そこには、過去に法制局が作成した様々な公文書や規程類から抽出された、安全とされる行政用語がズラリと並んでいる。
「……あった。発言番号C-42」
アルノルトは、リストに書かれたその一文を、機械的に読み上げた。
「本案件を棚上げする」
その瞬間。
カッ! と、アルノルトの頭上にある王冠の宝珠が、鋭い銀色の光を放った。
「なっ!?」
ユリウスが声を上げるより早く。
ヒュンッ!
アルノルトの机の上に積まれていた、分厚い街道整備の予算案と関連資料一式が、まるで意思を持った鳥のように一斉に宙へ舞い上がった。
「おおっ!?」
「書類が!」
評議員たちが驚きの声を上げる中、宙を舞った書類の束は、評議会室の壁際にある巨大な造り付けの本棚へと向かって人の頭を避け、天井沿いに進んだ。
そして、本棚の最上段――踏み台を使っても絶対に届かない、天井すれすれの僅かな隙間へと勢いよく飛び込み、スパンッ! と小気味良い音を立てて、完璧に整頓された状態で収まってしまったのである。
議場が、水を打ったように静まり返った。
全員が、首を痛くなるほど上へ向けて、天井すれすれの棚を見上げている。
「……」
アルノルトもまた、ぽかんと口を開けてその光景を見上げていたが、やがて視線をユリウスへ向けた。
「おい、ヴェルナー。なんだ今の現象は。標準化リストの言葉を読んだのだぞ」
「……『案件を棚上げする』」
ユリウスは、額に手を当てて呻いた。
「物事を一時的に保留にし、後回しにするという意味で使われる、官僚特有の慣用句です。おそらく、私が過去に作成した議事録のフォーマットか何かに混入していたものが、そのまま標準文型のテンプレとして転記されてしまったのでしょう」
出典欄には、戴冠前の議事録の整理用見出しがあった。読み上げ用の文ではない。「法制局作成」というだけで転記していたのだ。
王が棚上げの発言を撤回しても、上段の書類はそこに残った。司書が長い梯子を運んできた。
「……なるほど。一件の瑕疵ですな」
コンラート宰相が、全く慌てる様子もなく手元のリストにペンを走らせた。
「ヴェルナー殿の過去の文書にも、僅かな見落としがあったということでしょう。直ちにリストからC-42を削除し、より物理的な移動を伴わない代替文言を追加いたします。さあ、評議会を続けましょう」
コンラートのその揺るぎない合理性に、アルノルトは皮肉げな笑みを浮かべた。
「どうやら、どんなに標準化して言葉を殺そうとしても、人間の言葉から比喩は死なないということだな」
「ええ。ですが、この程度の小事故で済むのなら、標準法の有用性は揺るぎません」
コンラートは平然と答えた。
ユリウスは、天井すれすれの棚に収まった書類をじっと見つめていた。
自分の過去の見落としが事故を起こしたことへの恥辱。しかしそれ以上に、彼の胸を占めていたのは、この『王言標準法』という制度そのものに対する強烈な拒絶反応だった。
事故は防げるかもしれない。だが、言葉が死んでいる。王の意思が、全く伝わらない。
(……私は、間違っていた)
ユリウスは、書類の回収にかかった時間を記した。誤登録を直せば、この事故は防げる。それでも、昼の使節に言えなかった感謝は戻ってこない。
その日の夕刻。
法制局の執務室に戻ったユリウスは、机の上に『王言標準法』の分厚い法案書を広げた。
彼は、黒インクのペンではなく、使い慣れた赤ペンを握りしめた。
これまでは、物理事故を防ぐために言葉を削ってきた。
だが今、彼が赤を入れる基準は明確に変わっている。
安全性に加え、何が伝わったかを確かめる。
「……この法案は、王の意思を伝える機能が完全に欠如している。廃案にするか、根本から組み直す必要がある」
ユリウスは、過去の自分が作ったルールの集大成に向かって、容赦なく赤ペンを突き立てた。
それは、制度側への明確な反逆の始まりであった。




