第39話 校正官は、何を残すのか
深夜の王立法制局。
薄暗い執務室の中で、臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、机の上に二枚の羊皮紙を並べて静かに見つめていた。
右にあるのは、今から九か月ほど前――彼が臨時王命校正官に任命された直後に赤を入れた、国王の演説草案。
左にあるのは、三日後、国王アルノルト二世が読み上げる予定の声明文の草案である。
ユリウスは、自分の手で書かれた二つの文書を見比べ、微かな戸惑いを覚えていた。
「……基準が、ブレている」
九か月ほど前の原稿は、見事なまでに真っ赤だった。
『民の悲しみに寄り添い』という言葉は『状況を注視し』に直され、『誇り高き労働』は単なる『従事』に書き換えられている。物理事故を引き起こす可能性が万が一にもある感情語や修飾語は、文字通り「一文字残らず」削ぎ落とされていた。明確で、安全で、いかなる誤解の余地もない完璧な法文。それがかつての彼の正義だった。
しかし、左側の現在の原稿はどうだ。
赤ペンの跡は明らかに減っている。それどころか、以前の自分であれば「抽象的で危険」と即座に削除していたであろう、『皆からの知らせを、余は悔しく思っている』という、給付条件と関係のない一文が残っている。
ユリウスは眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
(安全の基準を緩めたつもりはない。だが……)
先日、詩人ラファエルから学んだ「比喩は情報圧縮のツールである」という実務的解釈。そして、鉱山町で見た、安全なだけの原稿が誰の心にも届かなかったという現実。
それらが、ユリウスの『明確さ至上主義』という強固な城壁に、少しずつ、しかし確実にひびを入れ始めていた。
翌日の午後。
ユリウスは、宮廷詩人ラファエル・モーンの私室を訪ねた。
目的は、数日後にアルノルトが行う、不作に見舞われた地方農村向けの声明文の草案に対する、専門家としての意見を求めるためである。
「――ほう。法制局の堅物殿が、私に原稿の推敲を依頼するとはな」
ラファエルは、大げさに驚いてみせた後、嬉々として草案を受け取った。
「よかろう! 君の書いたこの血の通わぬ氷の板に、私が春の息吹を吹き込んで進ぜよう!」
「物理的な温度変化や季節の強制移行を伴う加筆は却下します。あくまで、民の心を慰撫する効果的な表現の提案をお願いします」
ユリウスが釘を刺すと、ラファエルは「分かっているさ」と笑い、羽ペンを執った。
数分後。
「できたぞ。見てみるがいい」
ラファエルから返却された原稿を見て、ユリウスは眉をひそめた。
これまでのラファエルであれば、元の文章が原型を留めないほど、華麗で危険な比喩を大量に書き足してきているはずだった。
しかし、返ってきた羊皮紙には、加筆も、削除の指示も一切なかった。
ただ一箇所。
アルノルトが農村の民に向けて語りかける、『皆からの知らせを、余は悔しく思っている』という、政策の事実とは無関係な感情表現の部分だけが、羽ペンで静かに『丸』で囲まれていた。
「……これは、どういう意味ですか?」
ラファエルは答えず、机の端にあった農村からの被害報告を、草案の隣へ置いた。
そして丸を、もう一度指した。
ユリウスは二枚を読み比べた。給付の条件は草案の後半にすでにある。この一文を消しても、行政手続きは変わらない。
消えるのは、報告を読んだ王がどう感じたかということだけだ。
ユリウスは赤ペンを出し、丸のそばへ先を運んでから、何も書かずに蓋をした。
ユリウスは、返却された原稿を丁寧に折り畳み、「……感謝します」と一礼して部屋を後にした。
その日の夜。
王の執務室では、定例の『本日の王言レビュー』が行われていた。
「本日の物理事故はゼロ件。危険語の使用もありませんでした。記録上の対応は完了です」
ユリウスが事務的に報告を終え、アルノルトが「うむ、ご苦労」と頷く。
「それから、陛下。数日後に控えた地方農村向けの声明文ですが、新稿が完成いたしました。ご確認ください」
ユリウスは、バインダーから羊皮紙を取り出し、アルノルトの机に置いた。
アルノルトは軽い気持ちでそれに目を通し……途中で、目を丸くした。
「……ヴェルナー。これは」
「何か問題がございましたか」
アルノルトは、信じられないものを見るような目でユリウスを見上げた。
「『皆からの知らせを、余は悔しく思っている』。……この一文が、そのまま残っているぞ。お前の赤ペンが入っていない。見落としか?」
「見落としではありません。意図的に残しました」
「なんだと?」
アルノルトは驚愕した。あの明確さ至上主義の権化であるユリウスが、政策条件とは無関係な、感情表現の削除を見送ったのだ。
「前なら、『被害報告を確認した』に直していたではないか」
「ご安心ください、陛下」
ユリウスは、手元のバインダーから、さらに分厚い羊皮紙の束を三枚取り出し、アルノルトの前にドンッと置いた。
「その曖昧な表現を残すという決断に至った根拠をまとめました。お読みください」
「こ、根拠?」
アルノルトが恐る恐るその羊皮紙を見ると、そこには黒々としたインクで、凄まじい密度の文章が書かれていた。
『当該感情表現を残す理由について』
『一、王本人の感想であり、物体の移動や状態の変更を命じる内容を含まない。』
『二、給付額・対象・申請期間は後続の文章で明示され、本表現によって変更されない。』
『三、削除すると、報告を受けた王本人の反応が本文から失われる。』
その先には、代案と比較表と、比較表についての注が続いていた。
「……っ」
アルノルトは、その数十行にも及ぶ長大な理由書を見て、絶句した。
たった一言の「曖昧な感情」を残すために。
王の言葉の体温を守るという情緒的な決断を下すために。
この男は、わざわざガチガチの論理で武装し、削除前後を比較し、数十行にも及ぶ理屈っぽい理由書を添付してきたのである。
「……ぷっ」
アルノルトは、たまらず吹き出した。
「はははっ! あーっはっはっは!」
「陛下? 何かおかしいところがありましたか。比較表に誤りが?」
「いや、間違っていない! ははは、お前という奴は、本当にどうしようもない堅物だ!」
アルノルトは腹を抱えて笑った。
不器用な男なりの、最大限の譲歩と覚悟。ユリウスは、自分がリスクを背負うための「言い訳」を、彼らしいやり方で作ってきたのだ。
アルノルトは笑い涙を拭いながら、その長大な理由書を脇へ押しやった。
「ヴェルナー。お前が残してくれた言葉だ」
アルノルトは、何も言葉を足さず、ただユリウスの目を真っ直ぐに見返した。
「このまま読もう」
「……承知いたしました」
ユリウスは眼鏡の奥の目を少しだけ細め、深く一礼した。
執務室に、心地よい静寂が降りた。
コンコン。
その穏やかな空気を破るように、執務室の扉がノックされた。
「夜分に失礼する、陛下。それに、ヴェルナー殿も」
現れたのは、宰相コンラート・ハイムであった。
彼はその脇に、両手で抱えるほどの分厚い書類の束を抱え、ひどく満足げな、達成感に満ちた笑みを浮かべていた。
「宰相? どうした、その荷物は」
「ふふふ。ついに完成しましたぞ、陛下」
コンラートは、その重厚な書類の束を、アルノルトの机の上にドサリと置いた。
「先日の録音実験の成功を受け、私と宰相府の官僚たちが総力を挙げて策定した、新たな国家基本法案です」
嫌な予感がして、ユリウスの背筋が粟立った。
「名付けて、『王言標準法』」
コンラートは、誇らしげに宣言した。
「もはや、王が即興で言葉を選び、校正官がヒヤヒヤしながら赤を入れる時代は終わります。この法案は、陛下の公的な全発言を、完全に安全が保証された『標準文型』へと統一し、番号で管理するためのものです。これさえ施行されれば、我が国から王冠の事故は永遠に消え去ります」
「王の言葉を、標準化するだと……?」
アルノルトの顔から、笑みが消え去った。
ユリウスは、その書類の束の表紙に書かれた文字を見て、息を呑んだ。
表紙の次に、起草資料の一覧があった。
最初の著者名は、ユリウス・ヴェルナー。
九か月前の日付が、その横に添えられていた。




