第38話 安全な即興
王都アルクスの中心部から少し離れた場所にある、王立学院初等部。
木漏れ日が差し込む講堂には、七歳から十二歳までの子どもたちが数百人、目を輝かせて床に座り込んでいた。彼らの視線の先には、豪奢なマントを羽織った国王アルノルト二世が、木製の演台の前に立っている。
本日は、次世代を担う子どもたちとの「公開質疑応答」の公務であった。
アルノルトは、演台の横に立つ臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーに向かって、右手を差し出した。
「ヴェルナー。原稿を寄越せ」
アルノルトが小声で要求すると、ユリウスは眼鏡の位置を直し、淡々と答えた。
「本日は、原稿はありません」
「本当に一枚も、用意していないのか?」
「録音機のような一方的な通達ではなく、生きた対話こそが重要であると、先日の地方訪問で陛下ご自身が証明されました」
ユリウスは懐から、真っ赤な厚紙でできたカードの束を取り出し、アルノルトの手に押し付けた。
「ですので、今回は回答内容には一切口を出しません。陛下の即興での対応力を拝見します」
アルノルトは渡されたカードを見下ろした。
それは、過去の事故と、その類例から選ばれた、公務において絶対に口にしてはならない比喩や慣用句が箇条書きにされた『危険語カード』であった。
「『壁を取り払う』『財布の紐を締める』『足並みを揃える』……これだけを渡して、あとは全部自力でやれと言うのか。相手は予測不能な子どもだぞ」
「はい。ですが、陛下はすでに『次の一文だけ比喩として話す』という安全弁の使い方も、具体的な言葉による誠実な言い換えの技術も習得しておられます。ご自身の言葉で、彼らの問いに向き合ってください」
ユリウスは一歩後ろへ下がり、バインダーを抱えて直立した。
それは、校正官による「王の自立テスト」であった。アルノルトは手の中の赤いカードを握り締め、腹を括って前を向いた。
「では、皆の者。何でも聞いてくれ」
アルノルトが朗らかに告げると、子どもたちは一斉に「はい!」「王様!」と元気に手を挙げた。
最前列にいた、そばかす顔の少年が当てられる。
「王様! どうして税金って払わなきゃいけないの? お父さんがいつも『税金が高い』って怒ってます!」
初手から、生々しく鋭い質問だった。
アルノルトは一瞬言葉に詰まったが、ユリウスの助けを借りず、自らの頭で言葉を組み立てた。
「それは、みんなが安心して暮らせる国を作るためだ。税金は、道路を直し、悪い魔物から町を守る兵士たちの給料になり、いざという時の食料の蓄えになる」
アルノルトは手元の危険語カードをチラリと見ながら、言葉を続けた。
「少し大人の言い方をするが……次の一文だけ、比喩として話そう。税金は、国という大きな家族を支えるための、みんなの貯金箱なのだよ」
見事なタイミングでの比喩宣言と、子どもにも分かりやすい説明。
頭上の王冠は、ピクリとも反応しない。少年は「なるほど! 貯金箱なんだね!」と納得してパチパチと拍手をした。
その後も、「隣の国とは仲良しなの?」「王様は毎日何をしているの?」といった無邪気な質問が飛んだが、アルノルトは具体語への言い換えと比喩宣言を巧みに使い分け、見事に会を回していった。
ユリウスは赤ペンを動かすことなく、ただ黙ってその光景を見守っていた。
しかし、天性の話し手であるアルノルトは、子どもたちの熱心な反応に乗せられ、身振り手振りが次第に大きくなっていった。
「そう! 我々はもっと多くの人と……おっと」
アルノルトが手を大きく広げた拍子に、手に持っていた『危険語カード』の束から数枚が滑り落ち、演台の下へとヒラヒラと舞い落ちてしまった。
最前列に座っていた子どもたちが、「あ、落ちたよ」とそれらを拾い上げる。
「ありがとう。そこに置いておいてくれ」
アルノルトが微笑んで次の質問者を指名する。
立ち上がったのは、少し背伸びをしたような少女だった。
「王様! 私、大きくなったら王宮で働きたいです! どうすればなれますか?」
「おお、それは頼もしいな。そのためには、たくさん勉強して、色々な経験を積むことだ。そしていつか、我々は皆で手を取り合い、この国の扉を――」
アルノルトが、うっかり未来への希望を語る定型句を口にしかけた、その瞬間。
ユリウスが「あっ」と止めに入るより早く。
「あ! 王様、それ危ない言葉です!」
最前列で先ほどの赤いカードを拾い、まじまじと読んでいた少年が、元気よく立ち上がってアルノルトを指差した。
「カードに、『扉を開く』は使っちゃ駄目って書いてあります! 王宮の扉が全部開いちゃうから駄目だって!」
ビクッ! とアルノルトの肩が跳ねた。
王冠が魔力を帯びる寸前、アルノルトは自らの口を両手で塞いで言葉を飲み込んだ。
少年が持っているカードを覗き込んだ周りの子どもたちも、わいわいと騒ぎ始める。
「ほんとだ! 『財布の紐を締める』も駄目だって!」
「『壁を取り払う』もバツになってる!」
「王様、駄目な言葉ばっかり言おうとしてるの?」
公開済みの安全手引きが、まるで子どもたちのカルタ遊びか、おもちゃのように扱われていた。
アルノルトは顔を真っ赤にしながら、演台の上で冷や汗を拭った。
「ご、ごほん! 教えてくれてありがとう。ええと、つまり……この国の制度をより良くしていこう、ということだ」
アルノルトがしどろもどろになりながら具体語で言い直すと、子どもたちは「なんだ、普通だなあ」と笑い出し、講堂は温かく滑稽な空気に包まれた。
ユリウスは、額に手を当てて深くため息をつきながらも、王冠が沈黙を保っていることに胸を撫で下ろした。王自身が止まる前に、子どもが安全装置として機能するとは想定外だったが、結果的に物理事故は防がれたのだ。
質疑応答の時間は、いよいよ終わりに近づいていた。
「では、これで最後の質問としよう」
アルノルトが言うと、講堂の後ろの方で、一人の小さな少女が遠慮がちに手を挙げた。
「はい。そこの君」
少女は立ち上がると、アルノルトの頭上をじっと見つめ、不思議そうに小首を傾げて言った。
「王様は、どうしてそんなに重そうな冠を、ずっと被っているの?」
アルノルトは王冠に触れた。
「ずっとではないよ。休む時には外している。今日は、王として皆に会う式典だから着けているんだ」
「外したら、危ない言葉を言ってもいいの?」
「外しても魔法は止まらない」
「じゃあ、重いだけ?」
教師が口を押さえた。ユリウスもペンを落としかけた。
「王だと分かりやすい、という利点はある」
「マントでも分かるよ」
「……もっともだな」
王は困ったように笑った。
「でも、冠を外しても、余が言ったことは余が直さなければならない。さっきも危ない言葉を教えてもらったろう。気をつけるのは、こちらの仕事だ」
王は自分の口を指した。
王冠は光らなかった。
少女は「そっかぁ。王様って、大変なんだね」と納得したように微笑み、深くお辞儀をした。
それを合図に、講堂中から割れんばかりの拍手が沸き起こった。
カルタにして遊んでいた赤い危険語カードを振り回し、子どもたちが「王様、頑張ってー!」と声援を送る。
アルノルトは、照れくさそうに笑いながら、群衆に向かって大きく手を振った。
数十分後。
無事に公務を終え、王宮へ向かう帰りの馬車の中。
アルノルトは、マントを外してシートに深く寄りかかり、心地よい疲労感とともに息を吐いた。
「はっはっは! どうだヴェルナー、見事に一人でやり切ったぞ。子どもにツッコミを入れられたのは誤算だったが、事故は完全にゼロだ」
アルノルトの確かな達成感に満ちた声に、向かいに座るユリウスは静かに頷いた。
「ええ。お見事でした。最後の質問に対するご回答も、一切の虚飾がなく、素晴らしいものでした」
ユリウスは手元のバインダーをパタンと閉じた。
「比喩宣言の使いどころ、具体語への転換、そして何より、ご自身の言葉に責任を持つ覚悟。途中で止まり、言い直すことができていました。……私がいなくても、大丈夫な場面が増えましたね」
ユリウスのその言葉は、いつもの嫌味や皮肉ではなく、純粋な称賛だった。
言ってから、ユリウスはバインダーの留め具を確かめた。使わなかった訂正文が、そのまま挟まっている。
「では、明日は来ないのか」
王が訊いた。
「明日は農村向け声明の打ち合わせです。伺います」
「そうか」
王は膝の上で赤いカードを揃えた。折れた角を、親指で丁寧に伸ばしていた。
馬車は、夕日に染まる王都の街並みを抜け、王宮へと向かって静かに走り続けていた。




