第37話 王は録音で十分か
法制局の執務室には、アルノルト二世の低く義務的な声が響いていた。
「――収穫を終えた諸君らの労をねぎらう。本年度の税率は据え置きとし、一部の農機具貸与については地方局を通じて申請を受け付ける。以上だ」
アルノルトが原稿を読み終えると、目の前に置かれた真鍮製の『魔導録音機』のランプが消えた。
「お疲れ様でした、陛下。これで東部農村向けの冬期挨拶、Bパターンの録音完了です」
宰相コンラート・ハイムが、満足げに録音機の横にチェックを入れる。
「次は北部都市向けのCパターンです。商業組合への激励を含めた原稿となっておりますので、そのままお読みください」
「……宰相。余は今日だけで、これを十回は読まされているぞ」
アルノルトは長椅子に深く背中を預け、心底うんざりした顔でため息をついた。
先日の軍事演習場での実験により、「録音された音声は王冠を起動させない」という事実が確定した。それ以来、コンラートの推進する『録音標準化』により、王の地方向けの発信は、ほとんどがこの安全で無事故な録音機によるものに置き換えられていた。
「安全と効率のためです、陛下」
コンラートは淀みなく答えた。
「わざわざ陛下が各地方へ赴き、即興で危険な比喩を発するリスクを冒す必要はありません。安全が確認された原稿を録音し、配送網を整備して迅速に届ければ、物理事故を完全にゼロに抑えつつ、陛下の声は国中へ行き渡ります」
アルノルトは隣で赤ペンを握るユリウス・ヴェルナーを見遣った。
「ヴェルナー。お前もそう思うか? 余はこの無機質な機械に向かって、ただ安全な言葉を吹き込み続けるだけの存在でいいと」
「……」
ユリウスは手元の書類から目を上げず、押し黙った。
物理事故がゼロであることは、法制局としては歓迎すべき事態だ。だが、ユリウスの机の上には、地方の自治体から上がってきた陳情書が山のように積まれている。
『録音機の声は確かに陛下のものでしたが、我々の質問には答えてくれません』
『一方的に告げられるだけで、王宮からの温かみを感じません』
『ぜひ一度、王本人がいらしてください』
先日、情報の劣化による混乱が起きたせいもあるが、それ以上に、民衆は「安全で一方的な情報」ではなく、「王との生きた交流」を求めているのだ。
ユリウスは赤ペンを置き、アルノルトに向き直った。
「……物理的安全性と、統治における信頼構築は、必ずしも正比例しません。録音だけでは、双方向の意思疎通が不可能なのは事実です」
「ふん。お前がそう言うなら、決まりだな」
アルノルトはバサリと原稿を机に投げ捨て、立ち上がった。
「宰相。録音はもう終わりだ。余は直接行く」
「は? 直接とは、どちらへ」
「どこでもいい。一番近くで、最近余が顔を出していない町だ」
アルノルトはマントを翻し、執務室の扉へ向かって歩き出した。
「おい、ヴェルナー! いつまで座っている、馬車の準備をしろ!」
「……やれやれ。護衛の手配もありますから、勝手に進まないでください」
ユリウスはため息をつきつつも、即座にバインダーを抱えて王の後を追った。
王都から馬車で一時間ほどの距離にある、近郊の小都市。
王の予定外の訪問という急報に、町長をはじめとする役人たちは大慌てで中央広場に特設の演台を組み、歓迎の準備を整えていた。
広場には、王が直接やってきたという噂を聞きつけた住民たちが、鈴なりになって集まっていた。
「おおっ、本当に陛下だ!」
「わざわざ俺たちの町に来てくれたぞ!」
演台に立つアルノルトの姿を見て、群衆から割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。録音機から流れる声を聞いていた時とは全く違う、熱を帯びた生々しい反応だった。
王は最前列の老婦人に手を振り返した。録音中には一度も見せなかった笑顔だった。
斜め後ろにはユリウスが控え、いつでも訂正文を出せるようバインダーを構えている。
「皆の者、急な訪問にもかかわらず集まってくれて感謝する!」
アルノルトがよく通る声で語りかけると、群衆はさらに湧いた。
「この町は王都の物流を支える重要な拠点だ。先ほど町長から、街道の整備と街灯の増設に関する要望を受けた。余は、この町の発展のために、街道と街灯の担当部署から、十日以内に町へ回答を届ける!」
アルノルトの言葉は力強く、住民たちの心に直接響いた。
頭上の王冠は沈黙している。予算の確保といった具体的な行政方針は、すぐさま発動するような直接的なトリガーにはならない。
アルノルトは、民衆の輝くような笑顔を前に、天性の話し手としての勘を全開にした。
彼らをさらに励まし、未来への希望を見せるための一言。
「余は、諸君らの努力に応えたい! 我々の手で、この町に灯をともそう!!」
カッ!
アルノルトの頭上で、王冠の宝珠が目眩く銀色の光を放った。
「あっ、陛下!」
ユリウスが叫んだ瞬間。
パシッ、パシパシパシパシッ!!
広場の周囲、そして町へと続く主要な通りに設置されていた、自治体管理の魔導街灯が、一斉に、一斉に眩い光を放ち始めたのだ。
空には太陽が輝く、雲一つない真昼間である。
それにもかかわらず、町中の街灯という街灯が、夜の闇を払うかのように全力で点灯し、真っ昼間の広場をさらに異様な明るさで照らし出した。
王冠は「町を活気付ける」という比喩的な意図を読まず、字義通りに王国および自治体管理の照明設備に「灯をともした」のである。
「……しまった」
アルノルトは演台の上で顔を引きつらせた。
昔なら、ここで群衆は大パニックに陥り、怒号と悲鳴が飛び交っていたはずだ。アルノルト自身も、自分の失言が生み出した物理現象に怯え、立ち尽くすしかなかっただろう。
だが、今の王宮と民衆は、戴冠直後とは違う。
「あ、点いた」
広場の最前列にいた住民の一人が、真昼間に輝く街灯を指差して、ぽつりと言った。
「すげえ、真昼間からめっちゃ明るいや」
「陛下、気前がいいねえ! でも、昼間から点けっぱなしだと魔石の燃料代がもったいないぞ!」
住民たちから、クスクスという笑い声が漏れ始めた。王様の言葉の力が暴発したというのに、誰一人として逃げ惑う者はいない。むしろ、ちょっとした手品でも見たかのように、明るくなった街灯を見上げて面白がっている。
そして、現場の対応も早かった。
「はいはい、王冠の物理事故発生ですね! 皆さん、慌てないで!」
町の役人が手慣れた様子で拡声器を持ち、住民たちを誘導する。
「魔力供給課、街灯のメイン回路を直ちに手動遮断へ切り替えてください! 被害状況の確認、人的被害なし! 燃料消費の損失額は後で法制局へ請求回します!」
役人たちはこの数か月の間に、王の失言事故の処理マニュアルを熟知し、日々の訓練に組み込んでいたのだ。彼らにとって、この程度の「非致死・最小実現の事故」は、もはや恐怖の対象ではなく、ちょっとした突発的な行政タスクの一つに過ぎなくなっていた。
「陛下! こちらの撤回文の読み上げをお願いします!」
町長が、ユリウスが素早く書き留めた訂正の羊皮紙をアルノルトに差し出す。
アルノルトは苦笑しながらそれを受け取った。
「点灯の命令を撤回する。今の命令で点いた自治体の魔導街灯を、消灯せよ」
アルノルトが明確な指示を読み上げると、フッ、と町中の街灯が一斉に消えた。
「おおーっ!」
住民たちから、なぜか見事な手品が成功したかのような拍手と歓声が上がった。
「陛下、魔石代払ってくれよな!」という陽気なヤジまで飛んでくる。
アルノルトは演台の上で頭を掻きながら、「すまん。今使った燃料費は王宮が負担する」と笑って答えた。
演台の斜め後ろで、ユリウスはバインダーを開き、静かに事後報告書にペンを走らせていた。
『物理事故発生。王都近郊の自治体管理街灯が一斉点灯。被害なし』
ユリウスはそこでペンを止め、眼下で笑い合う住民たちと、照れくさそうに笑うアルノルトの姿を見つめた。
消灯後も質問は続いた。裏通りも調査対象になるのか。十日後に回答がなければ、どこへ訊けばよいのか。王は町長を呼び、通りの名と問い合わせ先を確かめた。
ユリウスは事故の燃料費と、その後の回答事項を別々に記録した。
ユリウスは、報告書の『民衆の反応』の欄に、ただ一言、事実だけを黙って書き残した。
『――良好』
数時間後。王宮の執務室。
アルノルトは上着を脱ぎ捨て、「いやあ、面目ない。また事故を起こしてしまった」と笑いながら長椅子に座った。
「笑い事ではありません。燃料費の請求が回ってきますよ」
ユリウスが呆れたように言うが、その声にいつもの厳しい棘はなかった。
「だが、直接行って良かった。録音では絶対に分からない、民の本当の顔が見えたからな。事故が起きても、彼らは余を受け入れてくれた」
「現場の役人の訓練が行き届いていた結果です。慣れは恐怖を凌駕しますから」
ユリウスは書類を整理し、明日の予定表を取り出した。
「さて。生の交流の価値を実感されたところで、次の予定です」
「む、なんだ」
「王都の王立学院初等部の生徒たち――子どもたちとの公開質疑応答が組まれています」
ユリウスの言葉に、アルノルトの顔が引きつった。
「子どもたちだと……? 忖度も遠慮もない、純粋な好奇心の塊ではないか! そんな連中の前で、台本なしの即興で答えろというのか!」
「はい。子どもたちに録音機を聞かせても意味がありませんからね。陛下の生の言葉の力が試されます」
ユリウスは、わざとらしく眼鏡を光らせた。
「もちろん、危険語カードは私がお渡しします。せいぜい、子どもたちに笑われないように頑張ってください」
アルノルトは天を仰ぎ、次なる予測不能な刺客たちとの戦いに向けて、深い呻き声を上げた。




