第36話 録音は王命ではありません
晩秋の王都では、録音による広報計画が進んでいた。
王都アルクス郊外に広がる、王立軍事演習場。
普段は近衛隊が馬を駆り、魔法兵が土煙を上げるその広大な敷地は、異様な緊張感と静寂に包まれていた。
演習場の中央には、広報局が誇る最新式の「魔導録音機」と、それを増幅するための巨大な真鍮製のスピーカーが鎮座している。
その周囲三十メートルの範囲には、近衛隊長バルド・グランツ率いる重武装の兵士たちが、隙間なく大盾を構えて円陣を組んでいた。さらにその外側では、王立魔法学院から動員された数十名の魔術師たちが、物理障壁と魔法反射の結界を何層にも重ねて展開している。
「結界の魔力充填、完了しました! いかなる物理的破壊も、この演習場の外へは逃しません!」
魔術師の一人が叫ぶと、バルドが厳めしい顔で頷いた。
「よし! 各員、衝撃に備えよ! 少しでも異変を感じたら、直ちに退避姿勢を取れ!」
国家規模の厳戒態勢。
それは、今から行われる一つの実験のためだけに敷かれたものであった。
演習場の端に急造された分厚い石造りの防護室。その小さな覗き窓から、国王アルノルト二世は呆れ顔で外の様子を眺めていた。
「……おい、ヴェルナー。いくらなんでも、やりすぎではないか?」
アルノルトが隣に立つ臨時王命校正官、ユリウス・ヴェルナーを振り返る。
ユリウスは、分厚い鉄板が仕込まれた書類バインダーを胸に抱き、冷徹な声で答えた。
「やりすぎではありません。広報局が開発したこの『魔導録音機』に保存された陛下の声が、再生時に王冠のトリガーとして機能した場合、極めて深刻な事態を招きます」
ユリウスは眼鏡のブリッジを押し上げた。
「以前の記録には『契約者本人の現時点発声』とあります。録音は対象外と読めますが、地方へ配る前に実物で確かめます」
「それに盾が三百枚必要か」
「その数はバルド隊長の判断です」
アルノルトは小さくため息をつき、自らの頭上に載る王冠に触れた。
先日、アルノルトの過去の発言をすべて文字起こしする『発言記録公開制度』が施行され、過去の恥ずかしい比喩や言い直しの記録が白日の下に晒された。それに危機感を抱いた広報局が、「ならば、事前に完璧に推敲し、安全を確認した音声だけを録音して地方へ配ればよい」と息巻いて持ち込んできたのが、この録音機である。
テスト用の音声は、『この演習場の旗を高く掲げよ』。
録音の際には王が「次の文は試験用文章の引用である」と断り、今回は前置きを除いた部分だけを再生する。
演習場の旗六本は、竿の下端に結んである。もし動いても周囲に当たらない間隔を取った。その六本を、三百枚の盾が囲んでいた。
「フェルベック博士。そちらの準備は」
ユリウスが、防護室の奥にいるミラに声をかけた。
「魔力測定器のチューニング、完璧です! 王冠からの魔力流出の兆候を、一ミリ秒の誤差なく検知します!」
ミラが計器のダイヤルを撫でながら、目を輝かせて答えた。
「では、広報局長。再生を開始してください」
ユリウスの指示を受け、防護室の外に待機していた広報局長が、ビクビクと震える手で魔導録音機のスイッチに手を伸ばした。
「さ、再生します! 3、2、1……!」
カチリ、とスイッチが押し込まれる。
巨大な真鍮のスピーカーから、ジジジ……というノイズが鳴り、直後、アルノルトの威厳に満ちた生々しい声が、演習場全体に轟き渡った。
『この演習場の旗を高く掲げよ!』
その瞬間。
「総員、構ええええええっ!!」
バルドが絶叫し、三百人の近衛兵が地鳴りのような足音とともに大盾を地面に突き立て、背中を丸めて防御姿勢をとった。
魔術師たちが杖を高く掲げ、防護結界が眩い光を放つ。
ユリウスはアルノルトの前に身を挺し、鉄板入りのバインダーで王を庇った。
アルノルトもまた、目を固く閉じ、覗き窓の前で身を強張らせた。
一秒。
二秒。
三秒。
……。
……。
……静かだった。
砂埃一つ舞い上がらない。木々の葉も揺れない。空は青く澄み渡り、演習場には薄い晩秋の陽射しが降り注いでいるだけだった。
「……ん?」
バルドが、大盾の陰からそっと片目を出した。
近衛兵たちも、恐る恐る顔を上げ、互いに顔を見合わせる。
アルノルトはゆっくりと目を開き、防護室の覗き窓から外を見た。
「……何も、起きていないな?」
最大級の厳戒態勢の中央で、ただ普通の声がスピーカーから流れただけ。
張り詰めていた空気が、まるで穴の空いた風船のようにしゅるしゅると萎んでいく。
全員が盾を構え、魔法の杖を掲げたまま、ポカンと口を開けて数秒間、無言になるという、間抜けで壮大な肩透かしの空間がそこにあった。
「……魔力反応、ゼロです」
ミラが、ひどく拍子抜けした声で報告した。
「王冠の内部魔力も、王宮の魔力網も、一切の変動を示していません。王冠は、録音された音声を完全に無視しました」
ユリウスはバインダーを下ろし、小さく息を吐いた。
「記録の読みと一致しました。王冠が王命として認識するのは、生身の陛下による『現時点での発話』のみということですね。過去の音声の再生や、魔道具による複製は、システム上、命令の主体が存在しないと判断される」
「や、やった……! やりましたぞ!!」
静寂を破り、広報局長が両手を天に突き上げて歓喜の声を上げた。
「録音は絶対に安全だ! いかなる比喩を使おうが、どんなに大音量で流そうが、物理事故は一切起きない! 我々はついに、完璧に安全な広報手段を手に入れたのです!!」
広報局の役人たちが、抱き合って涙を流して喜んでいる。
アルノルトもまた、ホッと胸を撫で下ろした。
「なるほど。これならば、余が一々危険を冒して地方へ出向かずとも、録音機を送るだけで余の言葉を民に届けることができるというわけか。悪くない手だ」
「ええ! 直ちに陛下の政策発表を録音し、大量に複製して、全国の村々に配布いたします!」
広報局長は意気揚々と演習場を後にした。
ユリウスは計画書の『内容の更新』欄を探した。まだ空白だった。
二週間後。
法制局の執務室は、まるで戦場のような有様だった。
「ヴェルナー殿! 北部第三地区から、強烈な抗議の陳情書が届いております!」
「西部からもです! 『王宮は我々をからかっているのか』と、役所の受付に長い列ができているそうです!」
次々と飛び込んでくる役人たちの悲鳴に、ユリウスは眉間を揉み解しながら対応に追われていた。
そこへ、アルノルトが足早に入室してきた。
「ヴェルナー! 何事だ。地方で何が起きている!」
「……広報局が大量配布した、魔導録音機の影響です」
ユリウスは、机の上に山積みになった陳情書の一つをアルノルトに差し出した。
「録音機による物理事故は起きていません。王冠は沈黙したままです。しかし、致命的な『情報伝達の事故』が発生しました」
「情報伝達の事故?」
「陛下は『冬季の燃料補助の申請受付は、明日から五日間である』と録音されましたね」
「日付は別紙に付けたはずだ」
「通常の布告も先に届いています。ですが、録音機の配送には十日かかりました。現地では、新しく届いた録音を、追加募集の知らせだと思ったのです」
「五日間の受付が、終わってから?」
「はい。別紙に録音日も有効期限もなく、広報担当者は住民を集めて再生しました。住民が役所へ行くと、募集は終わったと言われたのです」
ユリウスは陳情書を示した。
『窓口の役人と録音の王様で、言うことが違う』
アルノルトは頭を抱えた。
「そ、そんな馬鹿な……録音した時点では、確かに『明日』だったのだぞ!」
「録音日と有効期限は音声にも入れ、再生前に確認する担当者を決めます。行き違いで申請できなかった方への対応は、地方局と調整中です」
アルノルトは長椅子に力なく崩れ落ちた。
「物理事故は防げたが……情報が腐って大混乱ではないか」
ユリウスはバインダーを開き、赤ペンで冷酷に一行だけを書き込んだ。
『発動しない=安全ではない。録音媒体における時間の経過による情報の劣化を確認』
「……王冠の魔法が発動しないからといって、言葉の持つ危険性が消えるわけではありません。むしろ、状況に合わせた柔軟な訂正が効かない分、録音は生の発言よりも厄介な性質を持っています」
ユリウスが静かに記録を閉じた、その時だった。
執務室の扉が開き、宰相コンラートが、追加の報告書を手に入室してきた。
「おお、陛下。それにヴェルナー殿。ご苦労である」
「宰相。地方の混乱の報告は聞いているだろう。何が嬉しいのだ」
アルノルトが恨めしそうに睨むと、コンラートは表情を引き締めた。
「地方への対応は、私も引き受けます。ただ、録音で王冠が発動しなかった点は、今後に活かせるはずです」
コンラートの目が、合理主義者特有の冷たい光を帯びた。
「ヴェルナー殿。これは統治において画期的なことです。私は、今後の陛下のお言葉は、リスクの高い生発言を極力減らし、すべて事前審査済みの録音に置き換える『録音標準化』を進めるべきだと考えております」
「……なっ」
アルノルトが絶句する。
ただでさえ言葉を縛られているというのに、今度は自らの生の声すら奪われ、冷たい機械の音声に置き換えられようとしているのだ。
「すべての発言を録音にし、日時と対象を厳密に管理すれば、この国の事故はゼロになる。素晴らしいと思いませんか」
コンラートの、善意と合理性に満ちた提案。
ユリウスは、またしても自らが作り出した安全策が、新たな「制度という怪物」へと増殖しつつあるのを感じ、深く、深く頭を痛めるのだった。




