第35話 陛下が言ったことになっています
王都アルクスの市場では、ここ数日、奇妙なほどに活気が失われていた。
つい先日、アルノルト二世が見事な演説によって民衆の心を掌握し、新たな通商条約への期待から消費が上向くと思われていた矢先のことである。
法制局の執務室。臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーは、情報局から上がってきた市井の報告書に目を通し、険しい顔で眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……『財布の紐を締めよ』、ですか」
「ああ。どうやら、街では余がそう言ったことになっているらしい」
長椅子に座るアルノルトが、不快げに腕を組んで吐き捨てた。
「どこぞの誰かが、余の演説の一部を都合よく切り取ったか、あるいは完全に捏造した『偽の引用』を流布したのだ。そのせいで、民衆は『国は財政難で、王が極端な節約政策に舵を切ったのだ』と勘違いし、一斉に買い控えを起こしている」
アルノルトの言う通り、王の発言の影響力は絶大であった。たとえそれが事実無根の噂であっても、「王が言った」という箔がつけば、真実として社会を動かしてしまうのだ。
「事実誤認による経済の停滞。これは看過できない社会的な事故です」
ユリウスは赤ペンを指先で回しながら、冷静に分析した。
「速やかに、陛下ご自身の口から公式な否定を行っていただく必要があります。広報局に手配し、国内各紙の記者を集めましょう」
「うむ。余はあのようなケチくさい真似をしろとは、一言も言っていないと宣言してやる」
「お待ちください」
立ち上がろうとしたアルノルトを、ユリウスが制した。
「引用や否定として対象を明示すれば、その文自体では発動しません。ただし、反論に別の比喩を足さないでください」
「なっ……! では、どうやって否定しろと言うのだ! その言葉を使わずに『あれは嘘だ』と言っても、何のことか伝わらんだろう!」
「これまでの引用と撤回の手順が使えます」
ユリウスはバインダーから、かつて宮廷詩人ラファエル・モーンを交えて行った実験の記録を引き抜いた。
「対象の文言を明確に『引用』『撤回』『否定』する文脈で再掲する場合、王冠はそれを王ご自身の意思決定ではなく、単なる『言葉への言及』として処理し、起動を免除します。先日成功した『次の一文は比喩として言う』という宣言と同じシステムです」
ユリウスは新しい羊皮紙に、否定のための原稿を書き込んだ。
「『余が財布の紐を締めよと言ったという噂があるが、それは事実ではない』。この文脈であれば、対象句は安全に無力化されるはずです。……万が一に備え、私が横に立ちますが」
「……分かった。やってみよう」
二時間後。王宮内の広報室に、国内の主要新聞の記者たちが集められた。
演台の前に立ったアルノルトは、記者たちのペンが動くのを待ち、静かに、だが威厳に満ちた声で口を開いた。
「本日は、市井に流布している根拠のない噂について、国としての公式見解を述べる」
アルノルトの斜め後ろで、ユリウスが息を殺して王冠の動向を注視する。
「巷で、余が『財布の紐を締めよ』と言ったという偽の引用が流行しているようだが」
アルノルトが対象句を口にした瞬間、ユリウスは無意識に身構えた。
しかし、王冠は銀色の光を宿さなかった。
「それは事実ではない。余はそのような節約政策を命じた覚えは一切ない」
しん、と静まり返る室内。
王冠は、沈黙を保っていた。
(……成功だ。否定の対象としての言及は、安全処理としてシステムに受理された)
ユリウスは手元のメモ帳にチェックを入れ、小さく安堵の息を吐いた。これで、偽発言そのものは安全に否定できた。あとは記者たちに正しい事実を持ち帰らせれば、この騒動は終わる。
だが、安堵したのはユリウスだけではなかった。
アルノルトもまた、「危険な言葉を口にしたのに王冠が反応しなかった」ことに気を良くし、同時に、自分が預かり知らぬところでケチな王だと思われていたことへの反発から、言葉に不要な熱を帯びさせてしまったのだ。
「そもそもだ!」
アルノルトは演台に手をつき、記者たちに向かって力強く言葉を継いだ。
「我が国の財政は安定している! 締める必要などない、むしろ財布の紐は緩めるべきだ!」
あっ、とユリウスが声を上げるより早く。
ピシャァッ!! と、アルノルトの頭上の王冠が、目を射るような銀色の光を放った。
「えっ?」
アルノルトが自らの失言に気づき、口を手で覆ったが、もう遅かった。
記者たちは「おおっ! 景気刺激策の発表ですね!」とペンを走らせているが、王冠が引き起こすのはマクロ経済への影響などではない。局所的で、直接的な物理現象である。
「ぎゃあああああっ!!」
直後、広報室の床下――王宮の地下にある『国庫管理室』の方角から、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
「なんだ!?」
「地下からだ!」
アルノルトとユリウスは顔を見合わせ、すぐさま広報室を飛び出して地下階段を駆け下りた。
分厚い鉄扉を押し開け、国庫管理室に踏み込んだ二人の目に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。
ジャラジャラジャラジャラジャラッ!!!
凄まじい金属音が、石造りの部屋に反響し続けている。
王宮の巨大な金庫棚に整然と保管されていた、王国管理の無数の「現金袋」や「会計袋」。その袋の口を固く縛っていた頑丈な紐が、見えない力によって一斉にほどけ、中身の金貨や銀貨、銅貨が、滝のように石床へとぶちまけられていたのだ。
床一面が、足の踏み場もないほどの硬貨の海と化している。
「ああっ……! 第四半期の税収分が……!」
「混ざる! 地区別の金貨が混ざってしまうゥゥ!」
十数人の会計官たちが、床を這いつくばり、半泣きになりながら硬貨を両手でかき集めていた。彼らは前日から枚数を数え、地区ごとに袋分けして紐で縛り、ようやく検品を終えたばかりだったのだ。
硬貨は失われていない。だが、数え直しと地区別の照合が必要になった。
アルノルトは、硬貨の海を泳ぐようにして床を這う会計官たちを見下ろし、顔面を蒼白にして硬直した。
「財布の紐を緩めるという発言を撤回する。……ヴェルナー、これは」
「見ての通りです」
ユリウスは、冷酷な声で事実を突きつけた。
「偽発言の否定までは完璧でした。しかし、反論のために『財布の紐は緩めるべきだ』という新しい比喩を足せば、それは言及ではなく、独立した新たな王命として発動します。陛下が言い返すために足した余計な一言が、国庫の整理状況を物理的に破壊したのです」
「…………」
アルノルトは反論もできず、ただ「すまん……本当にすまん……」と、床を這う会計官たちに向かって平謝りすることしかできなかった。
数時間後。執務室。
「――というわけで、今回の事態を重く見た情報局と、私の発案により、新たな制度を設立することになったわ」
長椅子に座るアルノルトと、直立するユリウスの前に、エリーゼ王妹が分厚い書類の束をドンッと置いた。
「新たな制度、だと?」
アルノルトが疲労困憊の顔を上げる。
「ええ。名付けて『王の公式発言記録・全面公開制度』よ」
エリーゼは得意げに胸を張った。
「今回のような偽引用が流行るのは、兄上の発言の『正しい記録』が民衆に共有されていないからよ。だから、これからは兄上が公の場で行った演説や会見の発言を、すべて情報局が一言一句漏らさずに文字起こしし、定期的に新聞や掲示板で全文公開することにしたの」
「全文公開……」
「そうすれば、誰かが勝手な偽発言を流しても、『公式記録にそんな言葉はない』ってすぐに論破できるでしょ? 少なくとも、確かめられる原文が残るわ」
「なるほど。原文を確かめられる、透明性の高い手段です。賛同します」
ユリウスが即座に頷き、承認のサインを書き入れようとした。
だが、アルノルトの顔色は優れなかった。
「……待て。全文公開ということは。余が過去に行った演説も、すべて記録として残し、誰でも見られるようになるということか?」
「もちろんよ。過去の速記録も照合して、確認できた範囲を公開するって情報局長が張り切っていたわ」
「そ、それは……!」
アルノルトは頭を抱えた。
彼の脳裏に、これまでの自分が口にしてきた数々の発言が蘇る。
戴冠直後の、無知ゆえに放った数々の危険な比喩。
ユリウスの原稿を読まされた時の、無味乾燥でロボットのような答弁。
さらには、「次の一文は比喩として言う」などという、情けない前置きを必死に口にしている不格好な姿。
それらすべてが、『エルデン王国国王 アルノルト二世 公式発言録』として、後世まで活字で残されてしまうのだ。
「……余の、あの数々の恥ずかしい言い回しや、大慌てで言い直した記録まで、掘り返して公開されるのか……」
「ええ。正確な記録ですから。隠蔽は許されません」
ユリウスが、眼鏡を光らせて容赦なく宣告した。
「さあ、会計官たちが泣きながら硬貨を拾っている間に、我々も過去の発言の校正作業に入りましょう。恥を忍ぶのも、王の仕事です」
アルノルトは、これから掘り返される自身の黒歴史の山を想像し、執務机に突っ伏して深い呻き声を上げるのだった。




