第34話 一回だけ、比喩を使う
王都アルクスの中央広場は、凄まじい熱気に包まれていた。
隣国ヴァルツとの通商条約の合意という歴史的な成果を受け、本日は新王アルノルト二世による大規模な国民向け演説が執り行われていた。広場を埋め尽くす数万の民衆は、自国の若き王の姿を一目見ようと、色めき立っている。
しかし、演台の裏側に設けられた仮設の控室では、関係者たちが冷や汗を流して右往左往していた。
「時間が押しております! 地方代表の挨拶が想定外に長引きすぎました!」
宰相コンラート・ハイムが、懐中時計を握りしめながら青ざめた顔で声を荒げた。
当初の予定では、アルノルトの演説の前に短い名産品の贈呈式が行われるはずだった。だが、地方からやってきた代表者たちが緊張のあまり言葉に詰まり、さらに感極まって長大な感謝の言葉を述べ始めた結果、スケジュールは崩壊していた。
「陛下、申し訳ありませんが、演説の持ち時間を三分の一に短縮してください。間延びすれば、警備の都合上、群衆のコントロールが効かなくなります」
コンラートの悲痛な願いに、アルノルトは腕を組んで眉をひそめた。
「……短縮するのは構わんが」
アルノルトは、斜め後ろに立つ臨時王命校正官ユリウス・ヴェルナーへ視線を向けた。
「時間が押しているということは、巻きで話さねばならんな。昨日練習したような、たっぷりと沈黙を取り、微笑んでから前置きを言う『間』など、取れそうにないぞ」
昨日、アルノルトとユリウス、そして宮廷詩人ラファエルの三人は、数時間かけて「安全弁の自然な差し込み方」を特訓していた。
王冠の事故を防ぐための免責事項である『次の一文だけ、比喩として話す』という言葉。これを事務的な言い訳に聞こえさせないためには、発声前の十分な沈黙と、群衆を見渡す優雅な演技が必要不可欠だった。
だが、巻きで話すとなれば、そんな悠長な沈黙を作っている余裕はない。
ユリウスは懐中時計を見つめ、冷徹な声で答えた。
「間が取れなければ、ただの事務的な説明に聞こえ、情緒は死にます。……ですが、安全を優先するなら仕方がありません。演技は捨てて、早口でも構いませんので確実に免責事項を読み上げてください」
「せっかくの比喩が、台無しになるな」
「物理事故で王都が台無しになるよりはマシです」
ユリウスは一歩も引かなかった。
広場から、「国王陛下万歳!」という群衆のコールが沸き起こり始めた。出番が来たのだ。
「……案ずるな、ヴェルナー」
アルノルトは、自身の口元に薄く、不敵な笑みを浮かべた。
「余を誰だと思っている。天性の話し手だぞ。状況に合わせた『間』くらい、即興で作ってやる」
アルノルトはマントを翻し、控室の天幕をくぐって眩い光の差す演台へと歩を進めた。
ユリウスは小さな舌打ちをし、木製の分厚い盾と赤ペンを抱えて、その後を追った。
「おおおおっ!!」
アルノルトが演台に姿を現した瞬間、中央広場は割れんばかりの歓声に包まれた。
アルノルトは威厳に満ちた態度で片手を上げ、群衆の歓声に応える。そして、魔道具の拡声器の前に立ち、演説を開始した。
「エルデンの民よ! 先に締結した隣国ヴァルツとの通商条約は、今月から施行されている!」
アルノルトのよく通る声が、王都の空に響き渡る。
「関税率の段階的な引き下げにより、我が国の物流は活発化する。一部産業には経済的な負担が生じるが、国庫からの補助金支給と、新規雇用創出のためのインフラ投資によって、国家全体の実益を確実に向上させる!」
アルノルトは、ユリウスが徹夜で校正した、一切の比喩も抽象語も含まない「安全で無味乾燥な原稿」を、淀みなく、かつ力強い声で読み上げていった。
王は協力部署の長い列挙を省き、支援条件と問い合わせ先をゆっくり読んだ。ユリウスは原稿の余白に、省略した箇所を記録した。
頭上の王冠は、当然ながら何の魔力反応も示していない。
演台の陰に隠れたユリウスは、懐中時計の秒針を見つめながら、小さく息をついた。
コンラート宰相が、演台の下から必死に手を回し、「早く締めてください!」という巻きのジェスチャーを送っている。
アルノルトは原稿の最終段落に目を落とした。
ここで、昨日決めた比喩を投下する。
だが、時間は全くない。たっぷりと一呼吸置く沈黙など作れば、コンラートが卒倒してしまうだろう。
アルノルトは、天性の話し手としての勘を極限まで研ぎ澄ませた。
「――以上が、条約の概要と今後の行政の確約である!」
アルノルトが声を張り上げると、群衆から「おおっ!」という熱を帯びた歓声が上がった。
その歓声が最高潮に達しようとした、まさにその瞬間。
アルノルトは、高く掲げていた右手を、スッと胸の高さまで下ろし、手のひらを群衆に向けて開いた。
それは、「静かに」という明確な制止のサインだった。
王の予想外の動作に、数万人の群衆が「えっ?」と息を呑み、歓声が波が引くようにピタリと止んだ。
広場に、巨大な静寂が生まれた。
時間にして、わずか一秒。
しかしそれは、時間をかけて作った間延びした沈黙ではなく、群衆の注目を一点に集約させる、極度に圧縮された強烈な『間』だった。
アルノルトは拡声器に少しだけ顔を近づけ、先ほどまでの張りのある声をあえて潜め、親密で個人的なトーンで語りかけた。
「……ここで、余の少し個人的な願いを」
そして、自然な微笑みを浮かべながら、あの言葉を口にした。
「次の一文だけ、比喩として話そう」
事務的な説明臭さは消え去り、まるで王が民衆にだけ秘密を打ち明けるような、切実な響きを持っていた。
ユリウスが息を止める。
アルノルトは、ただ一つの情景を、真の言葉の力に乗せて放った。
「我々の未来に、嵐を越えた先の、輝く朝陽を昇らせよう」
『朝陽を昇らせる』。
実在の太陽は王冠の管理対象ではない。それでも、会場の照明などに解釈が向かないか、点検が要る表現だった。
ユリウスは宝珠を見た。
ミラの計器にも、魔力流出はない。
王冠は沈黙を保った。
事前の『次の一文だけ、比喩として話す』という免責宣言が、言語解釈システムに正当な例外処理として受理されたのだ。
物理事故は、何一つ起きなかった。
王都の空は動かず、大地も揺れない。
ただ、王の熱を帯びた美しい言葉だけが、情報圧縮の魔法となって、広場に集まった数万人の民衆の胸に真っ直ぐに届いた。
苦しい嵐(現状の不満)を乗り越えた先に、必ず輝く朝陽(豊かな生活)が待っている。その明確な希望のビジョンが、一人一人の脳裏に鮮やかに展開されたのである。
一瞬の完全な静寂。
「う、おおおおおおおおっ!!」
「国王陛下万歳!!」
「アルノルト陛下万歳!!」
広場は、割れんばかりの拍手と、地響きのような大歓声に包まれた。
後ろの列からも拍手が続いた。王はその音が収まるのを待った。
アルノルトは拍手に手を振り返し、もう一度拡声器へ顔を寄せた。
「ありがとう! 余は諸君らを誇りに思う!」
アルノルトは演台に身を乗り出し、熱狂する群衆に向かってさらに言葉を投げかけた。
「そうだ、我々はさらに……!」
アルノルトの口が、アドリブで群衆を煽るための、二つ目の華麗な比喩を紡ぎ出そうとした。比喩を使うことの快感に酔い、制御のリミッターが外れかけたのだ。
ユリウスの赤ペンが上がった。
「あ……っ!」
アルノルトは、口に出しかけた言葉の恐ろしさに自ら気づき、咄嗟に両手で自分の口を塞いだ。
「……さらに、きょ、協力して進もう」
アルノルトは顔を真っ赤にしながら、不自然な咳払いとともに、なんとか普通の抽象語へと着地させた。
歓声のおかげで、群衆にはその不自然な間は誤魔化せた。
だが、背後に控えていたユリウスは、額に青筋を立て、握りしめていた赤ペンをメリメリと音を立てて曲げていた。
数十分後。
熱狂の中で演説を終え、王宮の控室に戻ってきたアルノルトは、上着を脱ぎ捨てて長椅子に倒れ込んだ。
「はっはっは! 見たかヴェルナー! 見事な制御だったろう!」
アルノルトは興奮冷めやらぬ様子で、高笑いした。
「間の作り方も完璧だったはずだ! 誰がどう聞いても、事務的な言い訳には聞こえなかっただろう!」
だが、ユリウスは全く笑っていなかった。
彼はひしゃげた赤ペンを机に置き、冷たい見下ろすような視線を王に向けた。
「……一回で十分です」
「む?」
「成功に気を良くして、二つ目の比喩を言いかけましたね。もしあのまま『翼を広げる』などと発言していれば、今頃王都の民衆全員の背中から羽が生え、あるいは広場に集まった人々が空中へ射出される未曾有の大事故になっていました」
ユリウスの容赦ない小言に、アルノルトは「うっ」と言葉に詰まり、視線を逸らした。
「……すまん。つい、気持ちよくなってしまったのだ」
「欲張れば、次は王宮が吹き飛びますよ。今回はご自身で口を止めたから良かったものの、自制心を失うのであれば、やはり私が力ずくで口を塞ぎます」
ユリウスはバインダーを閉じ、厳しく釘を刺した。
だが、その厳しい小言の裏側で、ユリウスの表情には、確かな達成感が滲んでいた。
「……まあ、今日のところは、上出来としておきましょう」
ユリウスが珍しく肯定的な言葉を口にすると、アルノルトは安堵して再び笑った。
しかし翌日。
王都の新聞各紙は、前日の大演説の成功を称える記事とともに、早計な見出しを一面に躍らせていた。
『王は自らの言葉を取り戻した!』
『王冠の呪いは完全に克服された! 新時代の幕開け!』
執務室でその新聞を読んだユリウスは、深い溜息をつき、頭を抱えた。
「……完全に克服などされていません。一時的な制御の綱渡りに成功しただけです」
世間の楽観的なムードとは裏腹に、王の言葉が影響力を持てば持つほど、たった一度の失敗がもたらす反動は計り知れない。
ユリウスは新しい赤ペンをインク壺に浸し、次なる予測不能な事態への警戒を、より一層強めるのだった。




